大好きで、愛している
初めて音色を、動かした瞬間。
やけに、嬉しそうな目で見られたのを覚えている。
すでにかすんだ記憶の底に、大切に隠された思い出がある。もう、細かいことは磨耗して思い出せないけれど、それはとても『暖かい』気持ちをもたらす記憶として刻まれている。
きっと、あまりにも深すぎて、彼も気づいていない。
この『音』は、こうして調律の夢にたゆたっていなければ、感じることもできないほどちっぽけな思い出だった。普段は他の音色に隠されて、なかなか顔を出してもくれない。
――あぁ、でもすごく良いです。
夢と音の世界を漂いながら、カティは静かに『音』に耳を傾ける。
こうして聞き取れば、音色としてココロに溜まり。
確かに存在するモノになって。
もしかしたら、いつか譜面の一つにしてもらえるかもしれない。そうでなくとも、セドリックが気づいてくれるかもしれない。前者がいいけど、せめて後者だけでもと願いながら。
今日も、彼女は夢を見る。
自分のものだと認識できないほど遠い、『彼女』の思い出を。
■ □ ■
こんにちは、を繰り返す。
それだけのドール。
掻き消えそうな自我の中で、カティではなかった『彼女』は、目の前にいる金色の髪を持った少年を見ている。彼は実に幸せそうに、あれやこれやと改良を重ねてきた。
ほとんど、夢ばかり見ていた、ような気がする。
少し喋っては、反応を帰るために音色を調律して動かして。
挨拶以外の言葉も、ゆっくりと言えるようになって。挨拶の種類も増えて。
小さな身体に収められた『彼女』は、だんだん『嬉しい』音色を得ていった。
けれどそのたび、彼が幸せそうに笑ってくれるから。
嬉しくて、とても悲しくなった。嬉しい音色を覆い隠すほど、悲しい音色を得た。どんなに言葉を口にできても、そこに彼女の意思は含まれない。音色はまだ自我を歌えていないから。
自我ともいえぬほど弱い思いが声を上げたのは、そんな頃合だったように思う。
――どうしてわたしは、わたしとしておへんじできないんだろう。
それが初めて彼女が感じた、思いだった。
気づくとそれは『普通』になって、次から次へと新しい音色を得た。少しずつ形を変えて集まった音色が、ココロの中でたくさんの音楽を奏でる。
それにつれて『彼女』は、ゆっくりと『カティ』になった。
言われたことを判断し、答えるだけのドール。
告げられた言葉を判断して、自分なりの解釈を含めて答えるドール。
最終的には、時に主さえこき下ろすほどの意思をもった。それはヒトと見紛う、と言えば少々おべっかが過ぎるけれど、ヒトのように振舞えるだけの『自我』であり『心』となった。
今日も、カティになった『彼女』は、夢を見ている。
何よりも近くに、彼を感じながら。
■ □ ■
「ねぇ、カティ。ボクはキミを愛しているよ」
ぽつりと降り注ぐ言葉。
カティは、夢の中で笑みを浮かべる。彼に伝わるように、少しだけ身体を動かす。おぼろげな感覚の中に、彼の温もりを感じ取ることができたから。彼に今、手を、握られている。
愛していると囁かれるのは、日常の一部だった。
飽きもせず、セドリックはカティに『愛』を伝えてくる。
それが時々嬉しくて。時々もどかしい。くすぐったい。そして悲しい。愛という一言は、カティのコアを縦横無尽にかき鳴らし、いろんな音色を作り出した。
それを、セドリックは楽しそうに調律する。
愛しているよと、言いながら。
それに対するカティの反応なんて、そう変わるものではない。怒るか、流すか、少しだけ照れたようになるか。その時々で変わるけれど、基本的にはその三種のどれかに該当する。
仮に怒ったとしても、セドリックは悲しそうにはしない。
いっそ気味が悪いほどに、嬉しそうに笑う。
恥ずかしがらなくていいのにとか、ふざけたことを言いながら。
別に恥ずかしがってなんか、そんな風に思ってはいない。怒る時は、本当に怒っているからそういう反応になる。怒りのせいで頬が赤くなったり、しているだけに違いない。
戯れ好きの主だとは思っていたけれど、その戯れにも限度がある。
――そんなもので、わたしのココロを暴かないでほしい。
遊ぶような感覚で引きずり出されたら、その瞬間はいいけれど後で惨めになる。
いや、だからって本気になられても、それはそれで困るわけだが。
相手は数百年の時を生きる《魔人》だ。カティが知る限り、かなりモテる。高そうだけどそれなりに低い精神年齢、整った容姿。金色の髪の向こう側に潜む、紅玉のような赤の瞳。
ミステリアスだ、と囁かれ、彼はいろんな異性の視線を釘付けにしている。
カティが知らないだけで、きっとそれなりの『経験』があるはずだ。
そんなものに、未だヒトにすら至らないドールのココロが、抗えるわけがない。わかっていて彼は揺さぶってくるから、非常に性質が悪い――性格が悪いと言わざるを得ないだろう。
目を覚ませば、またセドリックという大海に揺さぶられる時間が始まる。
けれど、眠るたびにカティは、自分の中に成長の痕跡を見つけた。以前ならやり返すこともしなかった言葉に、それなりの返答を叩き返すことができたり、といったところに。
だから、夢の狭間で彼女は、彼に伝わるように願う。
――わたしもあなたを愛している。
そんな『音色』を、いつか自信を持って言えたらいいのに、と。