そのためならば、いかなることでも
彼女は家に帰る。家というよりも、屋敷だが。
思ったより些細なことで時間ととられ、帰るのが遅くなった。シンプルなドレスを身に着けた彼女は、薄暗い道をカバンを手に早足で進む。予定よりは早いが、想像よりは遅い。
些細なこと、というのは途中に立ち寄った港町での出来事だ。
そこで通り魔のような連中に絡まれ、わずかに手傷を負わされたのだ。まぁ、結局は普通に取り押さえてしかるべき場所に突き出して、お礼も受け取らずさっさと戻ってきたわけだが。
彼女を襲った相手は、刺しても刺しても『殺されない』相手に、軽く正気を失っているかのような様子だった。問題はない。犯罪者が二度と、犯罪をできなくなっただけのことだ。
しかしそれすら彼女にとっては、とてもどうでいいことだ。
どうせあの町にまた訪れる頃には、別の通り魔がいるのだろうから。
「ただいま戻りましたわ、アルヴェール」
誰もいない、彼しかいない屋敷の扉をくぐり、二人の寝室へ。
しかしそこにに彼はおらず、彼女は仕方なく作業用の部屋へと向かう。扉を開ければ、毛布に包まって眠る、長身の青年が壁に背を預け、床に座り込んでいた。
寝室の様子から察したが、どうやら彼はあれからずっとここにいたらしい。
彼女は小さく、ため息のような苦笑をこぼす。
「アルヴェール」
頬をなで、名を呼ぶ。
眠りが深いのか、彼は何の反応も見せない。死んでしまったのかと思ったが、呼吸は安定しているから問題ないだろう。ほんの少し痩せたようだから、とりあえずは食事を準備だ。
名残を惜しむように、彼女は立ち上がろうとして。
「いくな」
抱き寄せられ、その腕の中に納まった。
起きていらしたのですか、とつぶやく彼女に、彼の震えが伝わる。
縋りつくようにする彼の背を、彼女は優しく撫でた。強まる腕の力が、まるで名前を呼ばれているようで少しだけ、苦しいけれど嬉しいと思う。そして同時に、愛しさが増した。
「あいつは、眠れたのか。彼女のところに逝けたのか」
「えぇ」
安らかに、と告げると、そうか、と小さく返事がして。
彼の震えが少し大きくなって、嗚咽のような声がかすかに漏れた。そんな彼の背を、彼女は何度も撫でて、抱きしめる。彼は冷たく見えるが優しい人だ、痛々しいほど優しい、だから。
そんな彼の傍に、永遠にいたいと望んだのだ。
■ □ ■
二人は夫婦だった。
正確には、元夫婦だ。
ドールのボディを作り出す技師の夫と、そこに収まるコアを作る調律師の妻。そんな二人が神が戯れに与えるという《叡智》に手が届くようになるのに、そう時間はかからなかった。
けれど、それが微笑んだのは夫だけ。
妻はその座には至らず、不死人という『なりそこない』となった。
そして、二人は夫婦ではなくなった、夫婦ではいられなくなってしまった。決して嫌いになったわけではないと、彼女は今も思っている。むしろ愛しさは、日増しに強くなっていく。
けれど彼はもう愛を告げない。名すら呼んでくれない。
所詮、彼女は『奴隷』でしかないからだ。
しかし。
――わたくしは、それで充分。
望みだった。永遠が欲しかった。彼と共に在る未来が欲しかった。ならば、そのために何を犠牲に差し出せばいいのか、彼女はちゃんとわかっていた。わかってしまっていた。
「大丈夫、ずっとわたくしはあなたの傍にいますわ」
ずっと一緒にいるための、最高の手段。不死人という、何をしても死ぬことはない存在の血肉を喰らい続けることで、彼は永遠を手に入れることが叶う。
しかし不死人は不老ではなく、定期的に彼女の容姿は彼の手で若く作りかえられていた。
そうやって互いに互いを与えながら生きるというのは、彼女の中に喜びをうむ。切っても切れない関係が生まれて、夫婦の関係よりもずっと深く繋がりあっているように思えていた。
彼女はうっすらと微笑を浮かべる。
友を失い、悲しみの淵に立つ最愛の彼に、そっと口付けをした。