七封印目 見えない自由
朝起きると、一人暮らしの家なのにキッチンで桃咲さんが料理をしていた。
「ぎゃああああああああああああああああ!」
「どうしたの?」
きょとんとこちらを見つめる桃咲さん。
「どうしたのじゃねーよ……」
一体こいつはどうやって玄関の陰陽師ロックを解いたのだろうか……。
「あ、そうだ。私、安部晴明に言わなきゃいけない大事なことがあるの」
「大事なこと?」
好きとかプロポーズは結構日常茶飯事だが……。
「私、ピアノを止めて野球部のマネージャーになることにしたの! てへ」
……そうなんだ~。ピアノを止めて……ん? ピアノを止めて? 止める? ピアノ?
「なんだとおおおおおおおおおおおおお!」
桃咲さんのピアノの腕は国際的なレベルだったはずだ。それなのに止めるなんて、一体何が……。
「何でだ! お主は一体どういうつもりなのだ!」
「え? ……怒ってるの?」
再びきょとんとこちらを見つめる桃咲さん。何と言うか、あまりにもピアノへの未練が無さ過ぎる。
「……何と言うか、それではピアノを本気でやっている者に対してあまりにも失礼ではないか?」
「そう?」
……その態度から分かった。彼女は、ピアノに全力は注いでいなかったということ。
それでいて優秀な成績を収める桃咲さんはつまり……本物の天才という奴か。
勝者は時として、少なからず敗者の人生を狂わせる。だが、当の勝者自身は……そのことに目をつむっているか、気付いていない場合も多い。
「私ね、実はピアノをやっていたのにも目的があったんだけど、ピアノじゃその目的が達成されないことが分かった。でもね、野球部のマネージャーになったら、きっとその目的に一歩近づけるから……」
……まあ、あまり個人のことに首を突っ込むべきではないか。我だって野球で不可能なことが他のことで可能になるなら野球を捨て……られないから掛け持ちで色々なことをやっているんだった。
しかし、野球部のマネージャーということは、我とともに甲子園を目指すという訳で……。
「頑張ろうね、安部晴明!」
「……お、おう」
桃咲さんが傍にいては、あの人と我が結ばれる可能性は極端に下がる。……ような気がする。対策を考えないと、我の恋愛は……壊れてしまう気がするのだ。
玄関を開けると、そこには炎山が立っていた。
「うおおおおおおおおお! 陰陽師ビーム!」
思わず撃ってしまった必殺技を、炎山は雄々しく構えた両腕で受け止めた。動じないその姿、まるで山の如し。
「今日はビルを崩さなくて済んだね……」
「お前、何者なんだ」
「いや、睡眠薬入り弁当を食べてから、謎の能力に目覚めてしまってね……」
あの弁当を用意した桃咲さんが怖い。
何だか安定の三人組みたいになってしまった我と桃咲さんと炎山。数分後には忘れてしまうような話をしながら学校へ。
今日も多分、特に何もないだろうな~。
そんなこんなでホームルームの時間を迎えた……のだが、何故か担任の先生が来ない。
「どうしたんだ」
「忘れてるのかな」
「なんか、さっき職員室を見たけどいなかったよ?」
教室中がざわめきに包まれる。声は凝縮され、まとわりつく蛾のように耳に障る。だが、確かにウチの担任がいないなんて珍しいな……。
「はーい、静かに」
教室に入ってきたのは、担任……ではなかった。
早乙女監督……。我々の、野球部の監督だ。
「な、何故お主がここに現れるのだ!」
「あら、今日から私がこのクラスの担任になるのよ。早く席に着かないとシバくわよ?」
最後の台詞はウィンク混じりである。その行為自体もすごいが、それが何故か見る側が違和感無く受け入れることが出来るのもすごい。
「……という訳で、今日からアナタ達の担任になる早乙女リンネでーす! よろしくねー、みんな」
「炎山、あの監督は幾つであろうか」
「え? 確か……君よりは上だと」
「な、何だってえええええ!」
ということは……十七歳以上ってことじゃないかああああああああ!
「三十二歳以上の間違いだろう! サバを読むな安部!」
心の中でサバをよんだのに何故か久遠にばれている。ま、まさかあいつは……!
エスパーかあああああああああ!
「安部くん、そろそろ静かにしないと再起不能にするわよ?」
単に無意識に口に出していただけだった。
「ところで監督。何故、このクラスの担任になろうと思ったのだ? 時期的にあまりにも急だと思うのだが」
放課後、部活に行く前に聞いてみた。
「田中先生が妊娠しちゃってね」
「田中先生は男性です」
「嘘嘘。実は学校がちょっとしたスキャンダルを抱えてて」
「三百円事件は解決したはずでは」
「真面目に言うとね……」
早乙女監督は、全く真面目ではなさそうな軽い口調のままで言った。
「私ね、こう見えて結構デキる女でね、教員免許以外にも、メンタルケア関係の資格とかも持ってるのよ。だからこう、君達の心のケアをだね……」
心のケア……? このクラスだけ特別に? 理由がないはずだが。
「……ごめんね。喋りすぎちゃった」
監督はそう言うと、何だか疲れた様子で教室を去っていった。
「あ、そーだ」
「戻ってくるのかよ」
「安部くん、他校と練習試合とかしてみたくない?」
予想外の言葉に、我はとりあえず唾を飲んだ。