六封印目 月とすっぽん
走って走って走り続けて……。
辿り着いたのは、久遠とあの人が話していた川沿いのベンチ。あの人は一人、川のほとりでたたずんでいた。
その後ろ姿に、我は飛び立つ前の天使を重ねた。……さっきは呼べた、彼女の名前。だが今は、欠片も思い出せない。
「……安部」
振り向いた彼女は、複雑そうな顔をしながら我の名を呼んだ。
車の音、川の流れる音、風の音、どこかの誰かの話声……。
遠くの方で、微かに聞こえる。いつか死んで下界を眺める時がきたとしたら、きっとこんな疎外感を持つに違いない。
今、この世界で、ここだけが特別な場所。我とあの人の……距離の遠さをひしひしと感じさせるサンクチュアリ。
我らは無言で、互いを見ていた。……セパタクローの試合の次に真剣な面持ちで。
先に沈黙を破ったのは我であった。
「……放課後、久遠とこの辺りにいたな」
「うん。……実はね、あの時、久遠君に告白されたの……」
心臓が何者かに握りつぶされるようだった。だが我は、恐る恐る次の質問をする。せずにいられなかった。
「……それで、どういう返事をしたのだ?」
そこでOKしたと言われれば我の心は血の色に染まっていたであろうが、彼女は首を横に振った。
「返事はまだしていないの。……まだ保留中」
「どうして?」
我が聞くと、彼女は少しだけ間を空けて、目を閉じて静かにまた首を横に振る。
「……あのね、私は恋をしてはいけないの」
その時の彼女の目には涙が浮かんでいた。暗くてもはっきり分かる。それは……。
運命にあらがう時に流れる涙だ。
例えばどんなに努力してもライバルに及ばない凡人が、例えば大切な人を失った誰かが、そして例えば、納豆を練り過ぎてなんか粘々が強過ぎるちょっと気持ち悪い変なのが出来た時の我が。
変わらない運命を、それでも変えたくて流す、神にすがる哀しき人間の涙……。
「……どうして恋をしてはならんのだ。一体何が……」
「私以外には、分からないかも知れないね」
もう一つの人格が覚醒した、訳ではなかった。なのに彼女の言葉には棘と冷たさと、そして圧倒的な寂しさが含まれていた。
「貴方は知っている? 大切な何かを失う哀しさが。今までの私の全てが、ある日突然ある日突然、残酷な運命を映し出すの。……失いたくないけど失ってしまう。そんな理不尽を、私以外の誰にも感じて欲しくないから……」
我から見た彼女の後ろには、月が光っていた。……幻想的で美しいはずなのに、どこか切ない。
「かぐや姫は幸せ者。だって、ちゃんと月に帰る場所があるんだから……」
彼女はそれ以上のことは語らなかった。ただの友達でしかない我が、彼女の境遇を知るよしなどあるはずもなかった。
きっとあれだ、友達が事故で亡くなったとか何かそんな事情があるに違いない……。我は、そんな彼女をどうやって支えれば良いのだろうか。
◇
「安部晴明ぃ!」
あれから数日が経った。
あの夜、一人になった途端に後悔した。あの人と話せたのは嬉しかったし、きっと彼女の中での我の好感度もアップアップ! 間違いないのだが、桃咲さんの気持ちを踏みにじってしまったのもまた事実である。罪の意識がはびこり続け、次に会う時がとても心配だったが全然気にすることはなかったぜ。
「私、諦めてないからね! 今日もお弁当作ってきたんだよ! ほら、たっぷり睡眠薬入り弁当!」
「おぉぉぉ美味そう……って食えるか!」
「食べ物を粗末にするのはいけないよ。この弁当のために犠牲になった幾つもの命が報われないからね……。僕が食べるよ」
炎山は我の手から弁当をかっさらい、紫色のご飯を食べてトイレに駆け込んだ。
「……下剤入りと間違えてないか、お主」
「だってあの睡眠薬は安部晴明にしか効かないように出来てるもん」
「……怖ぇ」
と、そこにフラフラとあの男がやってきた。
「相変わらず愉快な連中だな、君達は」
……久遠だった。顔面、髪のつや、細さ……。悔しいがこいつは、どこを見てもIKEMENである。
「愉快とは失礼な奴だな」
「そうよ、失礼よ、あんた! ……あ、でもここは安部晴明に負けてもらって久遠君と……さんがくっつく方が私的には都合が」
何かとんでもないことを言い始める桃咲さん。アンタ、そういうことは頼むから口に出さないでくれ……。企みがバレバレ過ぎる。
威勢だけは久遠に負けられないので、とりあえず立ち上がって叫ぶことにした。
「今日は何の用だ! というか前にお前にサッカーボールを頭にぶつけて以来、我はテストで悪い点しかとれなくなったんだぞ! 誤れ! めちゃくちゃ誤れ!」
「……た、確かに早速何か間違えている気がするな。人生を誤れという新手の悪口にも聞こえる……。だが僕は誤りも謝りもしない。この前、僕は君と……さんが、夜、川沿いで話しているのを見たよ。一体どういうつもりだい? 君には桃咲さんがいるというのに」
「そうよそうよ、私がいるでしょ安部晴明!」
結局、完全に桃咲さんが敵に回ってしまった! これぞ四面楚歌。我に味方はどこにも……。
「ふ、大変だったよ……。まさか紫色のご飯に下剤が入っているなんて」
炎山が戻ってきた。
「そして何故だかあの弁当を食べてから、どうしても桃咲さんと安部をくっつけなければいけない気がして」
「睡眠薬の副作用かぁぁぁぁ!」
だが我は、どうしてもあの人を愛しなければいけないんだ……!
あの日、あの人が流した涙……神への抗いを見て、あの人を助けない訳にはいかないからな!
「安部、恋愛で僕と戦おうというのか……。君はひょっとして馬鹿なのかい?」
「馬鹿で何が悪い! あの人は泣いていた……! 下らない勝負にこだわるお主に構っている場合ではないのだ!」
「何を言っている。どんなに強がっても君の力は僕には劣る。僕だけじゃないさ。桃咲さんはピアノで全国で五本の指に入る実力を持つし、炎山君は中学の時、野球で全国大会の決勝戦まで進んだ経験を持つ。僕も炎山君ほどではないが、サッカーではかなりの成績を収めている」
……確かに、我の周囲は凄い奴だらけだ。だが……。
「君はどうだい? 陰陽師界では己の強過ぎる力の制御が出来ずに役立たず呼ばわりされ、セパタクローはそもそもチームに属せない。
野球は少しはマシのようだが、僕や炎山君には遠く及ばない。そんな凡人が……さんと結ばれるなんて夢を見ないでくれ。あの人は僕のような天才にこそふさわしいんだから」
久遠は顔に似合わずゴツイ掌を見せ、去っていった。……彼が教室を出た後も、我はその場に立ち尽くしていた。
「……酷いわアイツ! 何が天才よ! 安部晴明、アイツのいうことなんか聞いちゃ駄目だよ!」
「そうだよ……。君には君にしか出来ないことがある。……金子みすゞの詩を知っているだろう?」
さっきまで向こう側にいたはずの二人が、何か都合よく我の味方になっていた。
だが……久遠の言うことは間違っていない気がした。絶世の美女と我では……確かに釣り合わない。
炎山は我の顔を見て、少し心配そうな表情で言った。
「……知っているかい? 久遠君は家もあまり裕福ではなく、小さい頃は勉強でもスポーツでも負けてばかりだった。だが彼は、努力を怠らなかった。
他の子供が遊んでいる時間、彼はただ一人、戦い続けてきたんだ。彼がやや自信過剰なのは、そういう経緯があるからさ。
だが、子供にとっての遊ぶ時間というのは、同時に学ぶ時間でもある。君は決して彼に劣っていない。彼にはない経験を沢山持っているからさ」
「……その理屈でいくと、同い年の人間は全員同じ価値になってしまうんじゃないのか?」
「その通りさ。……優劣なんて存在しない。長所と短所が皆バラバラなだけさ……」
炎山らしい、無垢で純粋な考えだと思った。だが……。
おかしなことを言うようだが、優劣が無いとしても、我は久遠より優れていなければならない。……それが、ライバルというものだろう。