五封印目 すれ違う心
恋愛はそう簡単には成就しない。成就させたいと思うものほど、尚更壊れていく。
似たようなことを少し前にも、というか結構度々言っている我は最強のポエム作者である。
……は! 間違えた! 陰陽師だった。そんな感じで、
六月が訪れた。
梅雨には入っていないが雨は多い。じめじめとした空気は、我の悶々とした心を映しているように思えた。
くどいようだが恋愛はそんなに都合よく進展しない。我とあの人との距離は一向に縮まらなかった。
それどころか最近、あの人と久遠が話しているところをよく見つける。クラスメイトだし不思議ではない。だが我は、不安を振り払うことが未だ出来ずにいた。
野球にも身が入らない。
「こらぁー安部、ちゃんと集中せぃ」
「申し訳がありませぬ、大国天先輩。しかし先輩は怒っても威厳無いですね」
「せやなぁー。ワイは優しいから……って何言わすねん!」
恋愛と野球……と五行封印とセパタクロー。全てを完璧にこなすことは、やはり不可能なのであろうか……。
我はふと、チームメイトの顔を一人一人確認するように見た。
「……我にはこの七人が……大切な仲間が」
七人? あれ? 我を入れても八人? いや、フルメンバーで九人というのも少ない訳であるが、今日はさらに一人足りない。
「榎本ですよ、安部先輩」
後輩一号、一ノ瀬が言う。榎本剣菱は一ノ瀬達と同じ、一年生の一人である。
「あいつ、いつも部室を使わずに、どこかでユニフォームを着ていたじゃないですか。それで、部室を使うように注意したんです。そしたら何故か皆とタイミングをずらして顔を出すようになりまして……」
そんな事情とか全然知らなかった。
「少し心配なんやけどな」
大国天先輩が口を挟む。
「あいつ、元々口数が極端に少ないし、体つきも女みたいに細いやろ。練習とか、ホンマは辛いの我慢しとるんちゃうかと思うて、前から気にはしとってん。
それで、最近は遅刻気味や。……あいつはちゃんと野球を楽しめとるんやろか……」
「大黒天先輩はやけに榎本を気にかけてますね。惚れているのですか?」
「可愛いし、実は……って何言わすねん!」
「…………ども」
「うわ、びっくりした」
背後にいつの間にかいた榎本の声に、大国天先輩が飛び跳ねる。
……そうだ、甲子園。この仲間達と行くんじゃなかったのか。恋愛も五行封印もセパタクローも同時にこなすなら、とにかく我武者羅にやるしかないじゃないか。
「……ようやく心が燃え始めたね」
炎山が言う。
「ん? いや、萌え始めてはないぞ?」
「……ハハ」
炎山は歳の離れた兄のように、優しい眼差しで我等を見ていた。
その帰りのことだった。
炎山と川沿いのベンチを通りかかったところで、我は自分の目を疑い、払拭できぬ嫌な妄想をふくらませ、誤作動して吹っ飛びそうな心臓を抱えてその光景を遠巻きに眺めていた。
……あの人と久遠。ベンチに座って、楽しそうに話していた。
「……安部、大丈夫かい?」
立ち止まって動かない我に、炎山が心配そうに声をかけてくれた。……だが我は、返事をすることさえ出来なかった。
「……悪い。今日はもう……一人にさせてくれないか」
「分かった。だが……悩みは一人で抱え込まないでくれよ」
じゃあ、と互いに手を振って歩き出す。炎山にももう見えていなかっただろうが、我は歩きながら、静かに涙を流していた。
……流したくなくても流れるのだ。三十二歳、初めての苦い愛の涙が。
家になんか帰れる訳がない。家からそう遠くない公園に寄り、長年連れ添った相棒とも言うべきバットで泣きながら素振りをする。
「何で……どれだけ頑張っても我は……」
「安部晴明……?」
聞き慣れた女の声だった。やや幼さの残る声は、顔の見えない闇の中でもすぐに誰のものか聞き分けることができる。
「泣いているの……? どうしたの……?」
そこには、桃咲さんが立っていた。
「桃咲さん……。こんな時間に、どうして」
「私は吹奏楽部の帰りなの」
頑張っているのは我だけではなかった。……桃咲さんも久遠も、確かにそれぞれの活動を頑張ってはいる。だがやはり……我は、報われない。
「……先程、我の好きな人と久遠が仲良く話しているところを目撃してしまったのだ。」
「……やっぱり安部晴明は天……さんのことが好きなんだね……。私は……やっぱり駄目なのかな……」
「それは」
言葉を探す我に、桃咲さんが掌をかざす。
「いいんだよ。安部晴明の気持ちはすごく分かるから。辛かったね……。辛い時は私を頼ってもいいんだよ……?」
そう言って桃咲さんは我に抱きついてきた。顔が熱くなる。心臓は誤作動して吹っ飛びそうになり、あろうことか恥ずかしい部分が恥ずかしいことになる。
今なら王貞治にも負けないスラッガーに……イカンイカン。
「しばらくこうしていようよ。辛いでしょ、これからは私と苦しみを分け合おうね………」
……桃咲さんは母さんに似ていた。傷付いた者同士の哀しい温もりは、
「……安部?」
羽を広げた天使のような、あの人の声で、急速に冷めてしまうのであった。
「……天羽さん!」
我は慌てて桃咲さんを引き離す。しかし、既にあの人の姿は無かった。
早く追いかけないと……!
「待って! 私は? ……私の気持ちはどうなるの?」
「それは……」
「行かないでよ! お願いだから! ……責めて、今晩だけは……!」
桃咲さんは我の腕を掴み、体を密着させてきた。三十二年間恋愛未経験の我が、自分と密着した女の体に理性を失わない訳がない。
「お願い、安部晴明……」
我が必死なら彼女も必死だったのだ。誘惑でも何でも……とにかく我を引き留めたい一心で……。
応えてやりたいと思った。我と同じ苦しみを持つ彼女を守りたい。……そんなことを思った。
だが。
「……陰陽師奥義、感触無視!」
一瞬にして、我と世界が遮断される。感触どころか味覚や嗅覚、痛覚などなど、視覚と聴覚以外の全ての感覚が消える。
麻酔のようなものだ。蚊に刺された後のかゆみのようにジワリジワリとしみ込んでいた快感も、全身にレモン汁を注いだような錯覚によって一瞬で消えていく。
だが、この力……。メリットばかりではない。地面に立っている感触さえ無い。まるで幽霊だ。あの人にだけ未練を残し、みっともなく生きている……。
「桃咲さん、すまぬ。もしここで我がお主を選んだとしても、それはきっと偽りだから……。だからこそ、我はお主を選べぬ」
再び彼女を体から離し、我は言った。そんな言葉で説得出来るとは思っていなかったが、思いのほか桃咲さんは素直に頷いてくれた。
「……分かった。ごめんね、我儘言うような私で……。でも私……諦めないから」
「……すまぬ」
今の我には、これしか言えなかった。