十封印目 劣勢
監督とトイレから戻ってきた時、大国天先輩は三振していた。
「えええええええ」
「仕方ないやろ! 控えのはずやのに何かクソ強ぇんや、アイツ」
狩崎……。しばらく表舞台に姿を見せていなかったらしいが、やはり実力は半端ではないということか……。
大国天先輩はしばらく落ちこんでいたが、やがて顔を上げ、うわ言のように言いだした。
「せやけど収穫はあるで。あいつ、ストレートを投げんかった。遅いフォークに速いフォーク、そして揺れる球」
「何でそれを二番バッターが空振りする前に言わなかったのよ!」
監督が先輩の耳たぶを掴んで言う。
「いや、神風にはちゃんと伝えた。ただ、球種は他にもあるはずや。まだどれかに絞る段階ちゃうやろ。……で、気になるのは最後の球や。揺れた……というか、ずれたというか」
「揺れた?ナックルじゃないんですか?」
「いや、ちゃうな。一瞬ストレートかと思うたくらいや」
ナックルとは現代の魔球である。ボールがほとんど回転せず、そのせいでボールが揺れながら落ちるという厄介な球である。
……ただ、遅い。直球とナックルを間違えるなんて、小学生くらいだ。
「ツーシームじゃないかしら」
監督の言葉に、大国天先輩がうなずく。
「ああ、おそらくそうや。せやけどかなり速かった。フォーシームが約五キロ増とすれば……炎山ほどやないけど、かなりのスピードがあるはずや」
「ところでツーシームとは何であるか?」
「……安部くん、アンタ、ホントに野球部員?」
監督の説明によると、ツーシームとはストレートと変化球の中間のような球で、少しだけスピードが落ちるがボールが微妙に動くという厄介な球である。
正直、変化球もストレートも全部厄介である。というか野球が厄介である。いや、人生が厄介である。
今日はやけ酒だな……。我は未成年ではないのである。
「しっかし、ツーシームを知らないとは……。ウチの野球部の経験不足は深刻ね」
「一年中心ですから仕方ありません」
「安部くんも大国天くんも上級生なんだから、しっかりしなさい!」
先輩はとばっちりである。
「……ツーシーム、か」
やはり、相当の実力者か。炎山と狩崎……。おそらく、この試合は投手戦になるだろう。
早くも五回の裏。そしてチェンジ。
「炎山の投球は安心して見れるな」
「……そうか」
炎山は少しだけ疲れた様子だった。……機嫌が悪いようにも見える。
「……安部晴明。君は監督に何か聞いたかい?」
「へ?」
控えというのは嘘……というのは、このタイミングでは言わない方がいいだろう。しかし……。
「安部晴明。あの打者達の気迫はどうしても控えとは思えないんだけど……」
「あ、ああ、まあ」
「……本当のことを言う気が無いならいいよ。君に聞いたのが間違いだった」
炎山はそう言うと、早歩きでベンチへと戻っていった。
六回表。バッターは四番。……我の出番だ。
「何やかんやで三打席目だ。そろそろ打たせてもらうぞよ」
「威勢だけは良いな。だが、俺は今までヒットを一つも許していない。この実力差にいい加減気付かないのか?」
……確かに強いが、四球や死球、そろそろ球が読めてきたところだ。
奴の球種はほぼ分かった。早い直球と曲がる直球、スローカーブに緩急を使い分けたフォーク。時々異常に遅いスローボールをボールゾーンに投げてくる。
変化やコースよりもスピードの差を重視した投球。つまりそれは、何も考えずに球さえ見ていればいいということ!
◇
安部は、第一球をフルスイング。ストライクど真ん中。四番バッター安部なら確実にホームランに出来るはずの球であった。
しかし、何も考えないと宣言していた安部は、無意識に頭の中で球種を絞ろうとしていた。
この試合、龍安高校の中に一球目から打ちにいった打者はいない。だから狩崎は、一球目は狙われていない、安全だということを頭のどこかで学んでしまっていたはずだ。
嫌でもストライクに投げてくる!
だが、例外を用意していたのは安部だけではなかった。
狩崎は、今までボールゾーンにしか投げなかったスローボールをど真ん中に投げたのである。スローカーブよりも数段遅い球。ストレートからスローカーブまで、どんな球種でも合わせる気でいた安部は、まさかの伏兵に不意を突かれたのである。
「なん……だと」
「甘いよ安部。お前の考えは単純過ぎる。不意を突くのも裏をかくのも簡単だ。問題は、それが通用するものかどうかということだ」
「スローボールくらいで調子に乗るではない!」
今度は外さない。ターゲットをストレートからスローボールまでに拡張する。これで、どんな球が来ても打てる。
だが、打つことしか考えていなかった安部のバットは、内角低めのボール球に手が出てしまう。
「単純過ぎる。あのスローボールがたった一つのストライクを取るための球だとでも思ったのか? あれは挑発だ。お前の打つ気を最大にまで引き上げるためのな!」
「くそ、ツーストライクか……」
もしここで三振してしまったら、いい加減にこの相手が控えではないことが悟られかねない。アウトになるとしても、ライナーや特大フライで惜しいところを見せないとまずい……!
「宣言しよう。次の球は直球だ」
直球……となると、速いか曲がるかの二択。いや、スローボールは直球に入るのだろうか。コースは? 真ん中? 外? 内? ボール? そもそも狩崎は本当に直球を投げてくるのか?
迷っているうちに、狩崎は投球モーションに入る。狩崎の手から放たれたボールは風を纏い、弾丸のように向かってくる。変化球やスローボールではない。ツーシーム……でもない!
迷いなく振り抜いたバットは、鈍い音をたてた。
「……ファールか……」
安部は集中していた。まるで、銭湯で男湯から女湯の声が聞こえてきた時の中高生のように……。
だが、集中しているのは安部に限ったことではなかった。狩崎もまた、安部を打ち取るために思考を駆け巡らせていた。
(……やはり、ストレートだけ随分と力強く振ってくる。狙っているのか……?)
第四球目。同じタイミングで、二人は決意した。
この球を客席まで運ぶ。
この球で三振を奪う。
何にせよ、この球で決めると。
狩崎の体が、この一瞬だけはボールを投げる為の機械になる。炎山ほどの直球は投げられないが、彼の武器はむしろ、思考とコントロールの精密さだった。
飛んでくるボールを見て、安部は確信する。変化球でもツーシームでもない。……これは、内角寄りのストレートであると。
結論から言えば、その確信は外れだった。その状況の変化にさえ対応できるのが一流。狩崎は望んだ。彼が……安部こそが、一流の打者であると。
だが、安部の反射神経は既に全盛期を過ぎ、衰えつつある。忘れてはならない。彼は三十二歳である。
プロフェッショナルではない平凡な陰陽師が、この球に反応できるはずも無かった。
高速スライダー。狩崎透がこの球を投げられるということさえ、龍安高校には予想外の事態だった。
「我が……三振……」
「分かり易過ぎる。お前の頭じゃ、俺には勝てねぇ」
勝ったはずの狩崎の表情は笑って……いなかった。
険しい表情の先には、何かが隠されている気がした。
◇
「……三振。しかもこれで三打席連続無安打。さらに狩崎投手はノーヒットノーラン継続中。……これが、どういう意味を表しているかはもう皆気付いている」
炎山は珍しく苛立った口調だった。
「安部晴明。そして早乙女監督。本当のことを、そろそろ言ってもらえますか?」
「控えじゃなくてレギュラーでぇす。てへ」
早乙女監督が言う。その後、誰も口を開くことはなかった。
我の三振で、この回はスリーアウト。チェンジである。
炎山は静かにマウンドに向かうと、珍しく深い溜息をついた。
「……正直、レギュラー相手に僕がどれだけ抑えられるか分からない。それに……肩がね。手加減して投げていたのに少しだけ痛むんだ」
我は理解しているつもりだ。炎山は細かいプレイよりも、豪快な投球と熱意で相手をねじ伏せるタイプの投手。そして、そんな炎山が全力を出せない状況、それは……。
テスト中に全ての鉛筆の芯が折れ、シャーペンが詰まった時並のピンチだ。
「……我々を信じろ。例え球が後ろに飛んでも、我らが止めてみせる」
「後ろになんて飛ばさないよ。……相手がレギュラー。それはつまり、僕が本気を出しても良いということだからね」
炎山の目が、獅子のように光った。
だが。我々に降りかかるピンチは、甘くはなかった。
炎山は一番打者に四球を与えてしまう。続く二番打者のバントによりランナーが二塁に進むと、三番打者の大きなライトフライでランナーは更に進塁。ツーアウト三塁で四番打者と対決することになってしまった。
「前の打席から気になってはいたんだが……写楽か、君」
「おうよ。ようやく気付きやがったな。中学以来だっけか? お前が怪我してから、どうなることかと思ったが……。まさか、復活しているとは思わんかったぜ」
「君に僕の球を打つことは不可能だよ」
「十割打者に言うことか? 今のオレは昔のオレじゃないからな。……ここが地獄ぞ、炎山猛」
どうやら旧知の仲らしい二人。状況からして、打者……写楽という男の若干の有利だが、炎山と捕手の白凰はどう切り抜けるつもりだろうか。
頼むから、失点だけは……。