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不可視の密室(The Invisible Spectrum)  作者: 冷やし中華はじめました


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9/12

蜘蛛の糸

 午後八時三十分。  中野Mスクエア、アルゴ・スクエア社CTO室。  東山健一は、執務用チェアに深く腰掛け、窓の外に広がる夜景を見下ろしていた。  眼下には、彼が設計したスマートシティの光が広がっている。規則正しく点滅する航空障害灯、道路を流れる自動運転バスのテールランプ。すべてがネットワークで管理され、彼の指先一つで制御できる「秩序」の世界だ。


 だが、彼の手の中にあるスマートフォンだけが、その秩序を乱していた。  画面には、一枚の写真が表示されている。  黒く、ねじれた、小さなプラスチック片。


『お前の落とし物を預かっている』


 送信者は不明。だが、意味は痛いほど分かった。  あの夜。神田を排除するためにルーターを細工した際、LANケーブルの被覆を剥いた切れ端だ。  回収したはずだった。完璧に掃除したはずだった。  だが、もし静電気でカーペットの繊維に絡まり、掃除機の吸引を逃れていたとしたら?


「……馬鹿な」  東山は独り言を漏らした。 「DNAも指紋もついていない、ただのゴミだ。証拠能力などない」


 論理的にはそうだ。警察なら鼻で笑って無視するだろう。  だが、相手は警察ではない。  東山の脳裏に、あの薄汚い元刑事――真壁剛の顔が浮かんだ。  あの男は、法ではなく「感情」で動く。もしこの写真をマスコミにリークされたら? 「東山健一が現場にいた痕跡」として週刊誌に書きたてられたら?  株価は暴落し、進めているスマートシティ計画は凍結される。彼の完璧なキャリアに、修復不可能な傷がつく。


「……排除するしかないか」


 東山は引き出しを開けた。  そこには、カーボンファイバー製のケースが収められていた。  中には、掌サイズの黒いドローン。そして、電圧を致死レベルまで改造したスタンガン・モジュール。  神田を殺害した時は、これを使うまでもなかった。だが、今回は違う。相手は野良犬だ。噛みついてくるなら、物理的に黙らせるしかない。


 東山は立ち上がり、ジャケットを羽織った。  向かう先は、中野ブロードウェイ。  あの混沌としたアナログの迷宮なら、事故に見せかけて人間一人を処理するなど、造作もないことだ。  彼は自分が蜘蛛の巣にかかった蝶であることにも気づかず、悠然とオフィスを出た。


        *


 午後八時四十五分。中野ブロードウェイ四階。  店舗のシャッターは全て下ろされ、蛍光灯の間引き運転で薄暗くなった回廊は、不気味なほどの静寂に包まれていた。


 その北側にある倉庫街。  九条レンは、脚立の上に立ち、天井の梁に小型の黒い箱を取り付けていた。  ガムテープで固定されたそれは、バッテリー駆動のWi-Fiトランスミッターだ。


「……センサー設置、完了」  九条は脚立を降り、埃っぽい空気に顔をしかめてマスクの位置を直した。 「A地点、B地点、C地点。トライアングル配置でメッシュネットワークを構築した。……真壁さん、このエリアはもう僕の『胃袋』の中だ」


 通路の奥、段ボールの山の影で、真壁は鉄パイプを振っていた。  そこらへんの廃材置き場から拾ってきた、錆びた単管パイプだ。


「胃袋か。消化不良を起こさなきゃいいがな」  真壁はパイプの重さを確かめるように素振りを繰り返す。 「相手は手ぶらじゃ来ねえぞ。スタンガンか、あるいはもっと物騒なオモチャを持ってくるはずだ」


「東山は『遠隔操作』を好む臆病者です」  九条はタブレットで電波強度を確認しながら言った。 「おそらく、ドローンを使うでしょう。僕が解析した彼の特許出願データに、自律制御型の警備ドローンの設計図が含まれていました。……人間を追尾し、制圧するための兵器です」


「上等だ。ハエ叩きで落としてやる」


「……野蛮ですね」  九条は呆れたように溜息をついた。 「いいですか、真壁さん。僕が照明を落としたら、そこから先は視覚を捨ててください。網膜に頼れば、暗闇での一瞬の遅れが命取りになる」


「分かってるよ」  真壁は耳に装着した骨伝導イヤーピースを指で叩いた。 「お前のナビだけが頼りだ。……ヘマするなよ、相棒」


「誰に口を利いているんです」  九条はふんと鼻を鳴らし、暗闇の中に溶け込むように後退した。 「僕の計算に、バグはない」


        *


 午後九時ちょうど。  倉庫街の入口にある防火扉が、軋んだ音を立てて開いた。


 コツ、コツ、コツ。  硬質な革靴の音が、静まり返った廊下に響く。  現れたのは、東山健一だ。  イタリア製のオーダーメイドスーツ。磨き上げられた靴。そして、その手にはアタッシュケースが握られている。  埃とカビの臭いが充満するこの場所で、彼の姿はあまりにも異質で、浮いていた。


 真壁は、通路の突き当たり、古びたマネキンの横に立って待ち構えていた。  手には、あのプラスチック片が入った袋をぶら下げている。


「よう、待ってたぜ。CTO」  真壁がニヤリと笑う。「時間に正確だな。さすがはエリートだ」


 東山は十メートル手前で足を止めた。  彼はハンカチで鼻を覆い、露骨な嫌悪感を露わにした。 「……臭うな。ここは君たちの巣か? まるでドブネズミの住処だ」


「居心地は悪くないぜ。少なくとも、お前の作ったガラス張りの牢獄よりは人間らしい」


「議論をするつもりはない」  東山はアタッシュケースを地面に置いた。 「それを渡してもらおうか。……君が拾ったゴミを」


「ああ、これか」  真壁は袋を指で回した。 「返して欲しければ、正直に話してもらおうか。……神田社長を殺した手口をな」


 東山は鼻で笑った。 「まだそんなことを言っているのか。警察は事故と断定した。君の妄想に付き合うつもりはない」


「妄想じゃねえ。証拠はある」  真壁はスマホを取り出し、画面を東山に向けた。  九条が作成した、CSIデータによる「亡霊」の再現映像。そして、歩容認証の一致率『99.82%』の文字。


「……Wi-Fiの電波はお前を見ていたんだよ、東山。お前が透明人間になったつもりで神田を殺したその瞬間も、ずっとな」


 東山の表情から、余裕が消えた。  彼の目は、爬虫類のように細くなり、冷たい殺意の光を宿した。


「……なるほど。電波センシングか。過小評価していたようだな、野良犬」  東山はアタッシュケースのロックを外した。  カチリ、という音が、開戦の合図だった。


「だが、それがどうした? 法廷で認められないデータなど、ただのノイズだ」  東山はケースの中から、黒いコントローラーを取り出した。 「ここで君が不慮の事故で死ねば、そのデータも永遠に闇に葬られる。……中野の迷宮は深い。死体が一つ増えても、誰も気づかない」


 ブゥン……!  アタッシュケースから、黒い影が飛び出した。  四つのローターを持つ小型ドローン。その下部には、青白いスパークを放つスタンガン・ユニットが牙を剥いている。


「さあ、掃除の時間だ」


 東山の指がコントローラーを弾いた。  ドローンが空気を切り裂き、真壁の喉元めがけて急降下を開始する。

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