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不可視の密室(The Invisible Spectrum)  作者: 冷やし中華はじめました


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8/12

歩く指紋

 モニターの中で、無数の数値が滝のように流れ落ちていく。  九条レンは、祈るように組んだ指に額を押し当て、画面を凝視していた。  左のウィンドウには、現場のCSIデータから再構成された、顔のない「亡霊」の歩行ワイヤーフレーム。  右のウィンドウには、ネット上の動画アーカイブから抽出した、CTO東山健一の歩行解析データ。


 二つの波形が、ゆっくりと重なり合っていく。


「……照合マッチング、完了」


 九条が短く呟くと同時に、画面中央に鮮烈な緑色の文字が浮かび上がった。


 MATCH RATE: 99.82%


「確定だ」  九条が椅子の背もたれに深く沈み込み、大きく息を吐いた。 「右膝の半月板に古傷がある動き。歩幅六十二センチ。着地時の足首の回内角度……。この『歩く指紋』は、東山健一のものと完全に一致する」


 画面の中で、青いワイヤーフレームの亡霊に、東山の肉付けされた3Dモデルが重なる。  それは完璧な吻合ふんごうだった。  あの夜、神田CEOの背後に立ち、その命を奪った透明人間の正体は、間違いなく東山だ。


「……九九・八パーセントか」  真壁は腕組みをしたまま、画面を睨みつけた。 「DNA鑑定並みの精度だな」


「ええ。科学的には、東山が犯人であることは一〇〇パーセント揺るがない。……これでチェックメイトですよ、真壁さん」


 九条は勝ち誇ったように眼鏡の位置を直した。  だが、真壁の表情は晴れなかった。彼は胸ポケットからタバコを取り出し、フィルターを噛んだ。


「科学的にはな。……だが、法的にはどうだ?」


 九条の動きが止まる。 「……何が言いたいんです?」


「日本の裁判所は保守的だ。前例のない『電波による歩容認証』なんてハイテクな証拠、じいさん判事たちが採用すると思うか? 弁護士に『ただのノイズだ』『似た歩き方の人間は他にもいる』と言いくるめられて終わりだ」


 真壁は苦々しげに吐き捨てた。  かつて刑事だった頃、何度も味わった苦汁だ。  真実と、法廷で認められる証拠は違う。  どれほど論理的に正しくても、人間(裁判官)が理解できなければ、それは証拠にならない。


「……そんな馬鹿な」九条が声を荒らげる。「数字は嘘をつかない! このデータこそが真実だ!」


「ああ、分かってる。だがな、レン。人間を裁くのは数式じゃねえ。人間だ。奴をブタ箱にぶち込むには、誰が見ても分かる、もっと原始的で、言い逃れのできない『物証』が必要なんだよ」


 九条は唇を噛み、キーボードを叩きつけた。  論理が、感情論と慣習に敗北する。彼が最も嫌悪する「社会のバグ」だ。


「……じゃあ、どうするんです。このまま指をくわえて見逃すんですか」


「まさか」  真壁はニヤリと笑った。その目は、獲物を追い詰める肉食獣のように細められている。 「科学が通用しないなら、心理学ブラフで攻める。……奴は完璧主義者だ。自分の描いた完全犯罪のシナリオに、小さなシミ一つ許せない性格だ」


 真壁は、証拠品袋に入った「黒いプラスチック片」をテーブルに放り投げた。  現場の配線ダクトで見つけた、ケーブルの被覆片だ。


「九条。東山の性格をプロファイリングしろ。奴はなぜ、神田を殺した?」


 九条は深呼吸をして、感情を鎮め、再びデータに向き合った。 「……東山は、技術至上主義者テクノクラートです。神田社長が利益優先で『不完全なシステム』のままスマートシティ計画を進めようとしたことに、激しい嫌悪感を抱いていた痕跡がある」


「つまり、奴にとって会社は『金儲けの道具』じゃなく、『完璧な作品』だったわけか」


「ええ。だからこそ、自分の手で『ノイズ』である神田を排除し、システムを浄化したかった。……彼にとって、この殺人は『デバッグ作業』なんです」


「デバッグ、か。なるほどな」


 真壁はプラスチック片を指で弾いた。 「なら、教えてやろうぜ。お前の完璧なデバッグ作業には、致命的なエラーが残ってたってな」


 真壁はスマホを取り出し、メッセージアプリを起動した。  宛先は、名刺交換の際に登録されていた東山の業務用アドレスではない。佐久間のPCから抜き出した、東山の裏の連絡先だ。


「何を送る気ですか?」


「招待状さ。……『お前の落とし物を預かっている。返して欲しければ、一人で来い』」


 真壁はさらに、プラスチック片の写真を添付した。  ただのゴミに見える。だが、完全犯罪を成し遂げたと思い込んでいる東山にとっては、これこそが自分の首を絞める「物理的な絞首台」に見えるはずだ。


「場所は?」九条が問う。


「ここじゃ狭すぎる。……もっとふさわしい舞台がある」


 真壁は窓の外、中野の闇を見つめた。  きらびやかなスマートシティの光が届かない、昭和の亡霊たちが眠る場所。


「中野ブロードウェイ四階、北側倉庫街。……今夜二十一時。デジタルが通じない迷宮で、アナログな決着をつけてやる」


 送信ボタンを押す。  賽は投げられた。  目に見えない電波の網と、泥臭い刑事の罠。  二つの糸が絡み合い、亡霊を捕らえるための「蜘蛛の巣」が、静かに張り巡らされようとしていた。

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