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不可視の密室(The Invisible Spectrum)  作者: 冷やし中華はじめました


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偽りの容疑者(The False Suspect)

 午後六時。中野の空が茜色から群青色へと変わる頃。  真壁と九条は、中野駅南口の雑居ビル街にいた。  再開発が進む北口の「セントラルパーク」とは対照的に、南口の裏路地には、昭和の闇を煮詰めたような猥雑な空気が残っている。


「……ここか?」  真壁が古びたアパートを見上げて問う。築四十年は下らない、外壁の塗装が剥がれ落ちた木造モルタルだ。


「座標は間違いない」  九条はスマホの画面を見つめたまま答える。彼は周囲の酔っ払いや客引きの声を遮断するため、ヘッドホンを深く押し付けている。 「現場のルーターが『呼吸』していた同期先。信号の発信源ソースは、この二〇三号室だ」


「俺の情報とも一致する」  真壁は手元のメモを確認した。『デジ・マニア』の店主が言っていた、ケーブルを購入した男の特徴。そして、その男が配送を依頼した住所。 「佐久間洋二さくま・ようじ。三十八歳。アルゴ・スクエアの元ネットワークエンジニアだ。半年前に『業務上の重大なミス』を理由に、施設管理課へ左遷されている」


 左遷された元エリート。会社への恨み。そして、物理的なアクセス権限。  動機、手段、機会。三拍子揃っている。


「……突入するぞ」  真壁がアパートの錆びた階段に足をかける。  九条は嫌そうな顔で、ハンカチで鼻と口を覆った。 「……臭う。カビと、酸化した油の臭いだ。人間の生活反応が強すぎる」


 二〇三号室の前。  真壁はインターホンを押さず、ドアノブに手をかけた。鍵がかかっている。当然だ。 「レン、開けろ」 「……物理錠シリンダーは専門外だ」 「電子ロックだろ。後付けの安物だ」


 九条はドアに近づき、スマホをかざした。Flipper Zeroを起動し、Bluetoothのブルートフォース(総当たり)攻撃を仕掛けるまでもなく、彼は鼻で笑った。 「……デフォルトパスワード。『0000』だ。セキュリティ意識が低すぎる」


 ピロリ、という間抜けな解除音。  真壁は音もなくドアを開け、室内に滑り込んだ。


 六畳一間の室内は、ゴミ屋敷寸前だった。  コンビニ弁当の空き箱、空のペットボトル、そして脱ぎ捨てられた作業着。  その奥、遮光カーテンで閉ざされた闇の中に、青白い光が浮かんでいる。  四枚のマルチモニター。その前に、猫背の男が座っていた。


「……へへ、すごいぞ。完璧だ。誰も気づかない……」  男――佐久間は、ヘッドセットをつけ、ブツブツと独り言を言いながらキーボードを叩いている。  モニターの一つには、アルゴ・スクエアの社内カメラ映像が映し出されていた。リアルタイムの監視映像だ。


 真壁は無言で背後に忍び寄り、男の肩を掴んだ。 「……楽しそうだな、覗き見か?」


「ひいっ!?」  佐久間が悲鳴を上げ、椅子ごと転倒した。 「だ、誰だ! 警察か!?」


「まあ、似たようなもんだ」  真壁は警察手帳……のような黒い手帳ケースを一瞬だけ見せ(中身は見せない)、佐久間の胸ぐらを掴んで引き起こした。 「佐久間洋二だな。神田社長殺害の件で話を聞かせてもらう」


「さ、殺人!? 違う、俺じゃない! 俺はただ……!」


「ただ?」  真壁が視線をモニターに向ける。そこには、アルゴ・スクエアのサーバールームや廊下の映像が映っていた。 「不正アクセスに盗撮。これだけでも十分ブタ箱行きだぞ」


 その時、九条が部屋に入ってきた。彼は散らかった床のゴミをつま先で避けながら、佐久間のパソコンデスクに近づいた。 「……真壁さん、このPC。スペックが低すぎる」


「あ?」


 九条は、佐久間が怯えているのも無視して、勝手にキーボードを操作し始めた。 「GPUが三世代前だ。メモリも16ギガしかない。……これじゃ、あのトリックは実行できない」


「どういうことだ」


「あの部屋で行われた『リアルタイム・セグメンテーション(人間消去)』は、膨大な演算能力を必要とする。このボロPCじゃ、処理落ちして映像が止まる。……こいつは『実行犯』じゃない。ただの『中継地点リレー』だ」


 九条は冷徹な目で、床に座り込んだ佐久間を見下ろした。 「あんた、誰にやらされてる? この程度の機材でハッカー気取りか? ……スクリプトキディ(他人の道具を使うだけの子供)にも劣るな」


 その言葉は、佐久間のプライドを粉々に砕いたようだった。  彼は震えながら、涙目で叫んだ。 「……ち、違う! 俺は頼まれたんだ! 『東山専務』に!」


 佐久間の自白は、あまりにも情けなく、そして詳細だった。


 半年前、ミスをでっち上げられて左遷された佐久間は、東山から密かに接触を受けた。  『社長が会社を私物化している。証拠を掴むために、監視カメラを設置してくれ』  そう言いくるめられ、恩赦と復職を条件に、彼は東山の手足となった。


「あの日……僕は東山さんに言われた通り、CEO執務室のルーターに特殊なチップを仕込みました。あなたが拾ったケーブルの切れ端は、その時のものです」  佐久間は鼻水をすすりながら証言した。 「でも、殺すなんて聞いてない! 東山さんは『社長の不正の証拠映像を撮るだけだ』って……!」


「……で、あの日。お前は何を見た?」  真壁が問う。


「何も……見てません」  佐久間は首を振った。 「犯行時刻の三十分前、東山さんから連絡があって、システムを『メンテナンスモード』に切り替えろと言われたんです。その間、僕のモニターは真っ暗でした。……映像が戻った時には、社長はもう倒れていて……」


 真壁は舌打ちをした。  トカゲの尻尾切りだ。  東山は、この使い捨ての元社員に物理的な細工(汚れ仕事)をやらせ、犯行の瞬間だけは彼をも遮断して、自分だけで実行したのだ。  佐久間は共犯者ですらない。ただの便利な道具だ。


「……真壁さん」  九条がモニターを指差した。 「佐久間のPCを経由して、東山のプライベートサーバーへのアクセスログが残っている。……ここからなら、東山が隠している『本丸』のデータが見えるかもしれない」


 九条の指が走る。  佐久間のPCを踏み台にして、アルゴ・スクエアの深層領域へと侵入していく。  だが、エンターキーを押した瞬間。


 プツン。


 部屋中のモニターが同時にブラックアウトした。  PCのファンが異音を上げ、焦げ臭い匂いが漂い始める。


「な、なんだ!?」佐久間が叫ぶ。 「……キルスイッチだ」  九条が素早くキーボードから手を離した。 「外部からの侵入を検知して、自己破壊プログラムが作動した。……東山め、最初からこの部屋ごと証拠を消すつもりだったな」


 シュウウウ、とPCから白煙が上がる。ハードディスクが物理的に焼き切れる音だ。  証拠が消えていく。


「くそっ、手回しのいい野郎だ!」  真壁は佐久間の胸ぐらを離した。この男を警察に突き出したところで、東山は「元社員が勝手にやったことだ」としらを切るだろう。  決定的な証拠がない。


「……でも、収穫はありましたよ」  煙の中で、九条だけは涼しい顔をしていた。彼は自分のスマホをひらひらと振った。 「破壊される直前の数秒間、東山のサーバーから一つのファイル構造ツリーだけは引っこ抜いた。中身のデータは消えたけど、ファイル名とタイムスタンプ(作成日時)は残ってる」


「それが何になる?」


「『パズル』の完成図ですよ。東山がどうやってあの密室を作ったか、その設計図のありかが分かった。……それに」  九条は、震える佐久間を一瞥した。 「この男の証言は、法的には弱くても、東山を『引きずり出す』ための餌にはなる」


 真壁はニヤリと笑った。  状況証拠は揃った。実行犯も特定した。  あとは、あのガラスの城に籠もる爬虫類を、こちらの土俵に引きずり込むだけだ。


「……佐久間。お前の罪は消えねえが、減刑のチャンスはやる」  真壁は名刺を投げ渡した。 「警察じゃねえ。俺たちの言う通りに動け。そうすれば、お前を利用した東山に一泡吹かせてやれる」


 佐久間は涙を拭い、何度も頷いた。  偽りの容疑者は、今、強力な証人ジョーカーへと変わった。


「帰るぞ、レン。……罠を張る」  真壁が踵を返す。  物語は、最終的な決着――不可視の密室を暴くための、危険な賭けへと動き出そうとしていた。

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