ノイジー・エア(Noisy Air)
1
中野ブロードウェイ、NDMFラボ。 外の喧騒を遮断したこの部屋は、冷却ファンの低い唸り音だけが支配する、深海のような空間だ。
「……硬い。硬すぎる」
九条レンは、三枚のモニターに囲まれたコクピットのような席で、身体を前後に揺らし続けていた(ロッキング)。 画面には、アルゴ・スクエア社のルーターから引き抜いたデータ・ダンプが流れている。だが、それは無意味な文字列の羅列にしか見えなかった。
「AES256ビット暗号に加え、独自のハッシュ関数で多層化されている。……これは民間のセキュリティじゃない。軍事レベルだ」
九条はブツブツと独り言を漏らす。 彼にとって、暗号解読はパズルではない。ノイズとの戦いだ。整然としたデータの流れを堰き止める、醜い暗号化の壁。それが彼の神経を逆撫でする。 彼はヘッドホンのノイズキャンセリング機能を最大にし、外部の一切の音を遮断した。世界には今、彼とコードしか存在しない。
「……鍵がないなら、鍵穴ごと爆破するしかない。ブルートフォース(総当たり)じゃ百年かかる。……サイドチャネル攻撃? いや、電力消費のログから秘密鍵のパターンを逆算して……」
高速でキーボードを叩く指が、残像のように揺らぐ。 その背中で、真壁剛はタバコをくわえ――火を点けずに箱に戻した。精密機器の塊であるここで紫煙を上げれば、九条が発狂することを知っているからだ。
「……難航してるみたいだな」 真壁が声をかけるが、九条は反応しない。完全に没入している。
「ま、期待せずに待つさ。俺は俺のやり方でやらせてもらう」 真壁はポケットから、小さな証拠品袋を取り出した。 現場の配線ダクトで見つけた、黒いプラスチック片。ケーブルの被覆の切れ端だ。 真壁はそれを光にかざし、ニヤリと笑った。
「デジタルが通じないなら、アナログの出番だ」
2
真壁はラボを出て、ブロードウェイの迷宮へと足を踏み入れた。 エレベーターを使わず、階段で三階へ下りる。 そこは、四階の静寂とは打って変わって、混沌とした熱気が渦巻いていた。
フィギュアショップ、古本屋、そして電子部品のジャンク屋。 真壁が向かったのは、通路の奥まった場所にある、一坪ほどの小さな店舗『松本無線』だ。 店先には、埃を被った真空管や、何に使うのか分からない基板、そして古びた工具が無造作に積まれている。
「よう、爺さん。生きてるか」 「……チッ。死神が来たか」
カウンターの奥で半田ごてを握っていた店主、松本が顔を上げた。油にまみれた作業着に、分厚い老眼鏡。この道五十年の電気屋だ。
「客に向かって死神とはなんだ」 「お前が来るときは、ロクな用事じゃねえ。……どうせまた、警察沙汰の鑑定だろ?」
松本は口が悪いが、腕は確かだ。中野中の電気工事や修理を一手に引き受け、このビルの配線を知り尽くしている「配線の主」でもある。
「鑑定じゃねえ。知恵を借りたいだけだ」 真壁は袋に入ったプラスチック片をカウンターに置いた。 「こいつを見てくれ。何の被覆だ?」
松本は老眼鏡を押し上げ、ピンセットで欠片をつまみ上げた。 「……ほう。こりゃあ、今は珍しいな」 彼はルーペで切断面を覗き込む。 「カテゴリ5eのLANケーブルだ。しかも、耐ノイズ用のシールドが入った産業用だな。……最近のオフィスならカテゴリ6か7を使う。こんな古い規格、今はもう売ってねえぞ」
「古い規格?」真壁の目が光る。「じゃあ、現場にあったのはおかしいな。あそこは最新鋭のスマートオフィスだ」
「ああ、ちぐはぐだ。それに……この切り口を見ろ」 松本がルーペを真壁に渡す。 「断面がギザギザだ。専用のストリッパー(被覆剥き)じゃねえ。カッターナイフか何かで、素人が無理やり削ぎ落とした跡だ。……プロの仕事じゃねえな」
真壁の中で、違和感が確信へと変わっていく。 最新のオフィスに、場違いな古いケーブル。そして、素人くさい加工痕。 これは、CEO執務室の正規の設備ではない。 誰かが、後からこっそりと「何か」を仕込むために持ち込んだものだ。
「爺さん、もう一つ聞きたい。この『カテゴリ5e』ってやつ、このビルで扱ってる店はあるか?」
「新品はねえよ。だが……」松本が顎をさする。「三階の奥にある中古パーツ屋の『デジ・マニア』なら、在庫を抱えてるかもしれん。あそこの店長は、ジャンク品を集めるのが趣味だからな」
「恩に着る」 真壁は缶コーヒー代として小銭を置き、店を出た。
3
一方、四階のNDMFラボ。 九条の戦いは続いていた。 モニター上の文字列は、依然として鉄壁の防御を崩さない。だが、九条の指の動きが変わっていた。
「……おかしい」 九条のリズム(ロッキング)が止まる。 「暗号化のアルゴリズムに、微細な『揺らぎ』がある。……0と1の羅列の中に、意図的な遅延が混じっている?」
彼はヘッドホンを外し、画面に顔を近づけた。 通常の暗号化なら、データはランダムに見えるはずだ。だが、このデータには、ある一定の間隔で、極めて小さなパケットの遅れが生じている。
「……まるで、呼吸だ」 九条は呟いた。 「このルーターは、ただデータを守っているだけじゃない。……外部と『呼吸』している。リアルタイムで、どこかのサーバーと同期しながら、暗号鍵を動的に書き換えているんだ」
ローリング・コード。車のキーレスエントリーなどで使われる技術の、超高度版だ。 現場にあるルーターは、単体で動いているのではない。外部からの制御信号を受け取り続けている。
「……逆探知できる」 九条の瞳孔が開く。狩人の目だ。 「暗号を解く必要はない。この『呼吸』のリズムを逆流させれば、信号の発信源――つまり、この部屋を監視している『飼い主』の居場所が分かる」
九条は新しいターミナルウィンドウを開き、攻撃用のスクリプトを書き始めた。
4
真壁は『デジ・マニア』の店先で、店長を締め上げていた。 いや、正確には「熱心な聞き込み」を行っていた。
「お、思い出しました!」 気弱そうな店長が、真壁の顔の近さに怯えながら叫ぶ。 「先週です! その古いケーブルを50メートル分、まとめて買っていった客がいました!」
「どんな奴だ? 防犯カメラはあるか?」
「カメラはダミーです……すいません。でも、特徴は覚えてます。作業着を着ていましたが、手だけは妙に綺麗で……左手首に、高そうなスマートウォッチをしていました」
「スマートウォッチ?」
「ええ。あと、領収書の宛名。『個人でいい』って言われましたが、チラッと見えた社員証のストラップ……あれは『アルゴ・スクエア』のロゴでした」
繋がった。 現場に残された異質なケーブル。それを購入した、アルゴ・スクエアの関係者。 作業着で偽装しても、染みついたエリート臭さまでは消せなかったようだ。
真壁のスマホが振動した。九条からの通知だ。 『真壁さん。飼い主の尻尾を掴んだ。……信号の発信源は、アルゴ・スクエア社内じゃない』
真壁はスマホを耳に当て、ニヤリと笑った。 「奇遇だな、レン。俺の方も、面白い『尻尾』が見つかったところだ」
アナログとデジタル。 二つの線が、一つの点へと収束しようとしていた。 だが、彼らはまだ気づいていない。 その点が指し示す人物が、彼らの予想を裏切る「偽りの容疑者」であることを。




