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不可視の密室(The Invisible Spectrum)  作者: 冷やし中華はじめました


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潔癖な部屋(Clean Room)

「よお、権藤さん。精が出ますなあ」


 真壁の野太い声が、冷徹な静寂に包まれたCEO執務室に響いた。  室内の空気が凍りつく。  振り返った二人の男。一人は、中野署捜査一係のベテラン刑事、権藤三郎ごんどう・さぶろう。白髪交じりの短髪に、時代遅れのダブルのスーツを着込んだ、叩き上げの刑事だ。  もう一人は、仕立ての良いイタリア製スーツに身を包んだ、爬虫類のように冷ややかな男。CTOの東山健一。


「……真壁」  権藤が苦虫を噛み潰したような顔をした。「何の真似だ。ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ。部外者が土足で踏み込んでいい場所じゃねえ」


「部外者じゃねえよ。これを見ろ」  真壁は胸ポケットから、美咲の署名が入った委任状を取り出し、権藤の鼻先に突きつけた。 「被害者の妻、神田美咲さんからの正式な調査依頼だ。遺族には現場を確認する権利がある。……それを代行しに来ただけだ」


 権藤は書類を一瞥し、忌々しそうに舌打ちした。 「また遺族を焚きつけたのか。『NDMF』だか何だか知らんが、落ち目の探偵ごっこに付き合ってる暇はねえんだよ」


「探偵ごっこ?」  その言葉に反応したのは、東山だった。彼は真壁たちを、まるで汚物を見るような目で見下ろした。 「警察の方。この……不潔な方々をすぐに追い出してください。ここは神聖な職場です。部外者に菌を持ち込まれては困る」


 その言葉に、真壁の眉がピクリと動く。  不潔。菌。  この男にとって、自分たちは排除すべきバグかウイルスというわけか。


「……おい、東山さんよ」  真壁が一歩踏み出す。東山は一瞬怯んだが、すぐに蔑みの表情を取り戻した。 「あんた、社長が死んでずいぶんと嬉しそうだな。自分が椅子に座る準備でもしてたのか?」


「無礼な! 名誉毀損で訴えますよ」 「やめとけ、真壁」  権藤が割って入った。「東山さんは第一発見者の関係者として立ち会ってもらっていただけだ。それに、捜査は終わった。ここはもう事件現場じゃねえ」


「終わった? 司法解剖の結果も待たずに『病死』で幕引きか? 中野署も随分と仕事が早くなったもんだな」


 二人の元刑事の視線が火花を散らす。  その緊迫した空気の外側で、九条はヘッドホンを押さえ、部屋の隅へと移動していた。彼は人間の感情的な衝突ドラマには興味がない。彼の関心は、天井の隅にある「ある一点」に向けられていた。


「……ふん。これだから野良犬は」  東山は腕時計を見て、冷ややかに言った。 「私は忙しい。次の会議がある。……警部補、あとは任せましたよ。その『清掃員』たちが何も盗まないように監視していてください」


 東山は一度も真壁と目を合わせることなく、部屋を出て行った。  残されたのは、二人の元同僚と、壁の花になっているハッカーだけだ。


「……たく、相変わらず食えねえ野郎だ」  権藤が肩の力を抜き、ポケットから煙草を取り出そうとして、ここが禁煙ビルであることを思い出して舌打ちした。 「真壁。お前の言いたいことは分かる。出来すぎた死だ。俺だって腑に落ちねえところはある」


「なら、もっと調べろよ。なんで捜査を打ち切る」


「上からの指示だ。……『アルゴ・スクエア』は、来月からのスマートシティ実証実験の中核企業だ。社長の死がスキャンダルになるのを嫌がる連中がいる」  権藤は自嘲気味に笑った。「俺たちは組織の歯車だ。お前みたいに自由に噛みつけるわけじゃねえんだよ」


 それが、真壁が警察を辞めた理由だった。  真実よりも組織の理屈が優先される。その腐敗した空気に耐えられなかった。


「……十分だけやる」権藤が言った。「俺が報告書をまとめる間だけだ。好きに調べろ。だが、何も持ち出すなよ」


「恩に着るぜ、先輩」


 真壁はゴム手袋を装着し、本格的な「ガサ入れ」を開始した。  広い執務室。イタリア製のデスク、人間工学に基づいたチェア、壁一面の書棚。  どこを見ても、整然としている。整然としすぎている。


「……九条。どう思う」  真壁が這いつくばりながら声をかける。


「……エントロピーがゼロに近い」  九条は壁際でタブレットを操作しながら、独り言のように返した。「生活反応がない。ここは人間が活動していた場所じゃない。ショールームだ」


「ああ。綺麗すぎるんだよ」  真壁は床に顔を近づけた。  通常、どれほど掃除が行き届いていても、人間が活動すれば痕跡が残る。微細な皮膚片、靴底の擦れ跡、書類の紙粉。だが、ここにはそれがない。  まるで、昨夜の事件後に業者が入り、徹底的に滅菌消毒したかのような不自然な清潔さ。


「……ん?」  真壁の目が止まった。  デスクの足元。LANケーブルや電源コードが収納されている、フリーアクセスフロアの配線ダクト。  そのカバーの隙間に、胡麻粒のような黒い点が挟まっている。


 真壁はピンセットを取り出し、慎重に摘み上げた。 「プラスチック片……?」  黒い、螺旋状の削りカス。ケーブルの被覆カバーを剥いた時に出るゴミだ。  だが、オフィスの施工時に出たゴミなら、清掃で吸い取られているはずだ。それに、断面が新しい。


「……九条、見ろ」  真壁がピンセットを差し出す。「誰かが最近、ここの物理配線をいじったな。それも、正規の業者が使うニッパーじゃない。十徳ナイフかカッターで、無理やり被覆を剥いた跡だ」


 九条は一瞬だけ視線を向け、すぐに興味を失ったように天井を指差した。 「……真壁さん。床のゴミより、空気が重い」


「空気が重い? 湿気か?」 「電波だ」


 九条は脚立を引きずり出し、部屋の中央にある業務用のWi-Fiアクセスポイント(AP)の下に立った。  蜘蛛のような形状をした、無骨なルーター。


「……この部屋の広さに対して、APの出力が過剰だ。スタジアム級のハイエンド機が入ってる。しかも、指向性が強すぎる」  九条は独り言を続けながら、ラップトップを取り出し、ルーターのメンテナンスポートにLANケーブルを直結した。


 カチャカチャカチャ……ッ!  静かな部屋に、高速のタイピング音だけが響く。権藤が怪訝な顔でこちらを見ているが、九条はお構いなしだ。


「……やっぱりだ。ログが消されている」  九条の目が、モニターの光を受けて青白く光る。 「入退室ログも、カメラのアクセスログも、昨夜の分だけ綺麗にワイプされている。……でも、ハードウェアレベルのキャッシュまでは消せなかったみたいだ」


「何が見える?」


「幽霊の足跡ですよ」  九条は画面に流れる緑色の文字列ヘキサダンプを指でなぞった。 「通常、Wi-Fiルーターは通信品質を維持するために、電波の状態を常に監視しています。これを**CSI(チャネル状態情報)**と言います。……このルーターは、過去二十四時間分のCSI変動パターンをバッファに保持している」


「日本語で頼む」真壁がいつもの台詞を吐く。


「つまり、この部屋の空気中には、昨夜の出来事が『波の揺らぎ』として記録されているってことです。……カメラが嘘をついていても、物理現象は嘘をつかない」


 九条がエンターキーを叩こうとした瞬間、画面に真っ赤な警告ウィンドウが表示された。  『ACCESS DENIED(アクセス拒否)』


「……ほう」  九条の口角が、愉悦に歪んだ。 「暗号化されている。しかも、軍事レベルの多層暗号だ。……ただのフィンテック企業が、ルーターのログをここまで強固に守る理由は一つしかない」


「中に、見られちゃマズイもんがあるってことか」  真壁がニヤリと笑う。


「時間だ」  権藤が時計を見て声をかけた。「撤収しろ。これ以上は俺の首が飛ぶ」


「十分だ。収穫はあった」  真壁はプラスチック片を証拠品袋に入れ、九条はケーブルを抜いた。


 部屋を出る際、真壁は振り返った。  ガラス張りの密室。一見、何も隠しようのない透明な空間。  だが、その透明な空気の中にこそ、犯人の決定的な痕跡スペクトルが残されていたのだ。


「……権藤さん。悪いが、このヤマは俺たちがもらうぜ」 「勝手にしろ。……死ぬなよ、真壁」


 権藤の不器用な忠告を背に受け、二人は「潔癖な部屋」を後にした。  だが、彼らはまだ知らない。  このデータの解析が、予想外の「偽りの真実」を導き出し、捜査を混乱させることになることを。

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