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不可視の密室(The Invisible Spectrum)  作者: 冷やし中華はじめました


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2/12

未亡人の賭け(The Widow's Bet)

 神田隆の死から三日が過ぎた。  告別式は、彼の社会的地位にふさわしく、青山葬儀所で盛大に執り行われた。政財界からの供花が並び、マスコミのカメラが列をなす。だが、妻である神田美咲にとって、それらは全て空虚な儀式でしかなかった。


 式が終わったその足で、美咲は中野警察署を訪れていた。  生活安全課の相談室。パイプ椅子の冷たさが、喪服越しの肌に染みる。


「奥様、お気持ちは分かりますがね」  対応した刑事は、露骨に面倒くさそうな顔をしていた。 「検死の結果、事件性を疑う所見はありませんでした。薬物反応も陰性。完全な病死です。これ以上、何を調べろと言うんですか」


「夫は健康でした」美咲は膝の上で拳を握りしめる。「人間ドックの数値も完璧でした。それが、あんな……何かに怯えたような顔で、突然死ぬなんて」


「急性心不全とはそういうものです」  刑事は手元の資料を閉じた。「それに、現場は密室だ。防犯カメラにも誰も映っていない。……まさか、幽霊が夫を殺したとでも?」


 その嘲笑混じりの問いに、美咲は唇を噛んだ。  警察は動かない。彼らにとって、夫の死は「処理済みの書類」でしかないのだ。  美咲はハンドバッグから、一枚のメモを取り出した。夫の遺品であるスマートフォン。その検索履歴の深層に残されていた、奇妙なURLと住所。


 ――民間法科学鑑定所(NDMF)。中野ブロードウェイ4F。


 藁にもすがる思いだった。美咲はタクシーを拾わず、午後二時の猛暑の中を歩き出した。


 中野サンモール商店街を抜け、突き当たりに見えるその「魔窟」に入ると、空気は一変した。  中野ブロードウェイ。一九六六年に開業したこの複合ビルは、スマートシティ化が進む中野において、唯一取り残された昭和の亡霊だ。


 エスカレーターで四階へ上がると、人の気配は消えた。  シャッターが閉ざされた店舗と、無機質な倉庫が並ぶ薄暗い回廊。空調の効きが悪く、淀んだ空気が肌にまとわりつく。  美咲は迷路のような廊下を彷徨い、ようやく奥まった場所にある鉄扉を見つけた。看板はない。QRコードのステッカーが無造作に貼られているだけだ。


 インターホンを押すと、しばらくして電子錠が解除される乾いた音が響いた。


 重い扉を開けると、そこは別世界だった。  外の蒸し暑さが嘘のように、室内は冷蔵庫のように冷え切っていた。  二十畳ほどの空間を埋め尽くすのは、壁のように積み上げられたサーバーラックと、基板が剥き出しになった電子機器の山。無数の冷却ファンが低い唸り声を上げている。


「どうぞ。そこら辺の椅子を使ってくれ」


 部屋の奥、革張りのソファに深々と腰掛けた男が言った。  真壁剛。四十八歳。無精髭に、着古した麻のシャツ。手元には安酒のボトル。うらぶれた中年男だが、その眼光だけは鋭かった。


「あんたが神田美咲さんか。……美人の未亡人が、こんなゴミ溜めに何の用だ?」


「夫の死について、調査をお願いしたいのです」  美咲は震えそうになる声を抑え、毅然と言った。「警察は病死で処理しました。でも、私は信じません。夫は殺されたんです」


「警察がシロと言ったなら、それはシロだ」  真壁はグラスを煽り、吐き捨てるように言った。「俺は元刑事だが、今はただの便利屋だ。警察サツの決定を覆すのがどれだけ骨か、あんたには分からんだろう。……帰りな」


 拒絶。だが、美咲は動かなかった。バッグから分厚い封筒を取り出し、テーブルに置く。 「着手金です。成功報酬はこの三倍支払います。……お金の問題ではありません。プライドの問題です」  美咲は真壁を見つめた。「あなたは警察組織に絶望してここを作った。警察が見ようとしない真実を、あなたなら見てくれると信じて来ました」


 真壁の手が止まる。その言葉は、彼の古傷を刺激したようだった。


「……ブツブツブツ……」


 その時、部屋の隅から、低い呟き声が聞こえた。  ジャンクパーツの山に埋もれるようにして、一人の青年が座っていた。  九条レン。三十二歳。  巨大なノイズキャンセリングヘッドホンを装着し、美咲の方を一切見ようとしない。彼の視線は、三枚のモニターを高速で行き来する文字列だけに注がれている。身体を前後に揺らす独特のリズム(ロッキング)を刻みながら、彼はうわ言のように繰り返していた。


「……エントロピーが低すぎる。綺麗すぎる。不自然なほど自然だ。……真壁さん、このデータ、気持ち悪い」


 美咲が驚いて視線を向ける。「あの方は……?」


「気にしないでくれ。うちの相棒だ」真壁が溜息をつく。「レン、挨拶くらいしろ。依頼人だぞ」


 九条は反応しない。聞こえていないのか、聞く気がないのか。彼は画面を指差し、早口でまくし立てた。 「真壁さん、この画像データ。警察のサーバーから抜いた現場写真。ヒストグラムが平坦すぎる。これは『撮られた』映像じゃない。『作られた』可能性が高い。確率九四パーセント」


 九条は壁に向かって話している。そこにいる美咲の存在など、まるで認識していないかのようだ。


「あの、もしもし?」美咲が声をかける。


 ビクッ、と九条の肩が跳ねた。  彼は怯えたような目で一瞬だけ美咲の方を向きかけ――すぐに視線を逸らし、さらに深くフードを被った。 「……真壁さん、外部入力がうるさい。遮断して」


「悪気はないんだ」真壁が美咲に向かって苦笑する。「あいつは、人間よりもデータと話す方が得意なんでな。……つまり、あいつはこう言ってる。『警察が押収した防犯カメラの映像は、偽造された可能性が高い』と」


 美咲が息を呑む。「偽造? でも、警察は編集の痕跡はないと……」


「ハッシュ値は正常。ファイルの整合性は完璧」  九条がモニターに向かって独り言を続ける。「だが、クラウドのログに欠損がある。死の前日、被害者はあるファイルを外部送信しようとして失敗している。宛先は……H。I。G。A……」


東山ひがしやま、か」真壁が補足する。


「……東山健一」美咲が叫んだ。「やっぱり! 夫は東山に殺されたんです!」


 美咲の叫び声に、九条が不快そうに顔をしかめ、ヘッドホンの位置を直した。 「……真壁さん、音圧レベルが高い。非論理的な感情ノイズは解析の邪魔。……追い出して」


「おいおい、追い出したら金にならんだろうが」  真壁は呆れながらも、美咲に向き直った。その目は、先ほどまでの「やる気のない便利屋」のものではなかった。


「聞いた通りだ。あいつが『気持ち悪い』と言うデータには、必ず裏がある。……あんたの夫の死は、警察が言うほど綺麗なもんじゃなさそうだ」


 真壁は封筒を手に取り、中身を確認もせずにポケットにねじ込んだ。 「引き受ける。レン、準備しろ。現場へ行くぞ」


「……現場」九条が初めてキーボードから手を止めた。「物理空間へのアクセス? 許可されていないアクセスポイント? ……非推奨。でも、このノイズの発生源を特定しないと、僕が眠れない」


 九条は立ち上がり、足元のバックパックを掴んだ。中には改造されたWi-Fiルーターやスペクトラムアナライザが詰め込まれている。  彼は美咲の横を、まるで障害物を避けるように大きく迂回して通り過ぎ、扉の方へと歩き出した。


「行きましょう、真壁さん。……『見えない指紋』を拾いに」

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