監視される自由
倉庫街の非常照明が、埃っぽい空間を赤く染めている。 遠くから、サイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。
「……遅い到着だな。ヒーローってのは、いつも最後に来やがる」 真壁はタバコをくわえ、火を点けた。今回ばかりは、九条も文句を言わなかった。 足元には、手錠をかけられた東山健一が、抜け殻のように座り込んでいる。プライドも、完璧な計画も、すべて叩き壊された男の顔だ。
ガチャリ、と防火扉が開く。 雪崩れ込んできたのは、中野署の制服警官たち。そして、その後ろから苦虫を噛み潰したような顔の権藤三郎が現れた。
「……派手にやったな、真壁」 権藤は、破壊されたドローンの残骸と、転がっているスタンガンを見下ろした。 「不法侵入、器物損壊、傷害……。現行犯で挙げてもいいんだぞ」
「正当防衛だ。それに、こっちは市民の義務を果たしただけだぜ」 真壁は東山を顎でしゃくった。 「神田社長殺しのホシだ。凶器のスタンガンと、殺害実行プログラムが入ったドローン。……全部揃ってる。あとは煮るなり焼くなり好きにしろ」
権藤はため息をつき、部下に東山の連行を指示した。 連行される際、東山は一度だけ真壁を振り返った。 「……なぜだ」 その声は掠れていた。 「なぜ、あんな不確定な『電波』のデータなんかに賭けた? 裁判で負ければ、君たちは終わりだったはずだ」
「賭けじゃねえよ」 真壁は紫煙を吐き出した。 「俺の相棒が見えたと言ったんだ。なら、そこには間違いなく『ある』んだよ。……理屈じゃねえ、信用の問題だ」
東山は呆然と目を見開き、そして力なくうなだれた。 論理と数字だけで構築された彼の世界には、「他者への無根拠な信頼」という変数は存在しなかったのだろう。
「……行くぞ」 権藤が真壁の横を通り過ぎる際、ボソリと呟いた。 「……貸しイチだ。この始末書を書く俺の身にもなれ」
「出世払いで頼むぜ、警部補殿」
警察の波が引いていく。 静寂が戻った倉庫街で、九条がポツリと言った。 「……真壁さん。心拍数、血圧、共に正常範囲に復帰。アドレナリン分泌も低下しました」
「あ? なんだそりゃ」
「つまり、『もう大丈夫』ということです」 九条はヘッドホンを首にかけ、初めて真壁と目を合わせて――すぐに逸らした。 「……ナイスダンスでした、相棒」
*
一週間後。 事件は予想以上の早さで収束した。 東山が逮捕されたことで、アルゴ・スクエア社の株価は暴落したが、同時に彼が隠蔽していた神田前社長の「不正の証拠(実際には東山が捏造したものだったが)」も明るみに出た。 警察は、九条が佐久間のPCから吸い出した「ファイル構造」を手がかりに、東山の秘密サーバーを押収。そこには、過去数年にわたる盗聴・盗撮のログと、神田殺害の完全な計画書が保存されていた。 もはや、電波の証拠能力を議論するまでもなく、彼の有罪は確定した。
夕暮れ時。中野セントラルパーク。 うだるような暑さは少し和らぎ、茜色の空が高い。 芝生広場では、オフィスワーカーたちがビールを飲み、子供たちが走り回っている。平和な光景だ。
真壁と九条は、キッチンカーで買ったアイスコーヒーを飲んでいた。
「便利な世の中になったもんだ」 真壁が、ビル群の谷間に沈む夕日を見上げて言った。 「スマホ一つで何でも買える。空飛ぶドローンが荷物を届ける。……そして、目に見えない電波で悪党が捕まる」
九条はスマホを操作しながら、冷ややかに笑った。 「便利? 逆ですよ、真壁さん」 彼は芝生でくつろぐ人々、スマホを見つめるカップルに視線をやった。 九条の目には見えている。彼らの周りに、無数のWi-Fi、Bluetooth、GPSの電波が飛び交い、個人の行動履歴、位置情報、バイタルデータが、絶えずどこかのサーバーへ吸い上げられている様が。
「僕らはもう、壁の向こうからでも、暗闇の中でも監視されている。カメラを避けても無駄だ。呼吸をしているだけで、心臓が動いているだけで、その振動は記録され、解析される」
九条は、空を指差した。 「この美しい公園も、あの硝子のビルも、すべては膨大なデータストリームによって構成された『透明な檻』です。……僕たちは、その檻の中で自由だと思い込まされているだけの、実験動物かもしれない」
シニカルで、絶望的な世界観。 だが、真壁は笑い飛ばした。
「……ま、檻の中だろうが何だろうが、俺たちは生きていかなきゃならねえ」 真壁は飲み干した紙コップを、ゴミ箱へと放り投げた。美しい放物線を描いて、カップは吸い込まれる。
「それに、どんなにシステムが完璧でも、人間ってやつは必ずバグを起こす。……東山みたいにな」
「……そうですね」 九条は眼鏡の位置を直した。 「バグがある限り、僕の仕事はなくならない。……そして、それを物理的に叩いて直す、あなたの仕事も」
「叩いて直すってのは語弊があるが……まあ、いい」
真壁は立ち上がり、背伸びをした。 「さあ、帰るぞ。ブロードウェイのジャンク屋に、いい真空管が入ったらしいんでな」
「またガラクタですか。経費では落としませんよ」 「うるせえ。あの温かいアナログのノイズが良いんだよ」
二人は、光あふれる清潔なスマートシティ「中野セントラルパーク」を背に、混沌としたアナログの迷宮「中野ブロードウェイ」へと戻っていった。 東京の空には、目に見えない無数のデータが、今夜も星のように瞬いている。
不可視の密室は破られた。 だが、この街にはまだ、数え切れないほどの「見えない謎」が潜んでいるのだ。




