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不可視の密室(The Invisible Spectrum)  作者: 冷やし中華はじめました


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ガラスの棺と夏の亡霊

 二〇二六年、八月――。  東京の夏は、もはや季節というより災害だった。  連日更新される最高気温は体温を優に超え、湿度九〇パーセントの暴力的な熱気が、中野区全体を巨大な蒸し風呂に変えていた。


 午前八時。中野駅北口のペデストリアンデッキ。  通勤客の波は、まるで逃げ場のない熱帯魚の群れのように、空調の効いた地下通路や駅ビルへと吸い込まれていく。  かつて警察大学校があった広大な跡地は、再開発によって「中野セントラルパーク」へと生まれ変わっていた。芝生の緑は人工的な散水システムによって鮮やかに保たれているが、その上には陽炎かげろうが揺らめき、低空を飛行する配送ドローンの駆動音が、神経を逆撫でする蚊の羽音のように響いている。


 その一角に、周囲を威圧するように聳え立つガラス張りのオフィスビル、「中野Mスクエア」。  最新の断熱ガラスに覆われたこの巨大な塔は、外界の熱気とは無縁の「聖域」だ。完全空調、生体認証ゲート、AIによる監視システム。そこにあるのは、行き過ぎた清潔さと、息が詰まるほどの秩序だった。


 二十階、フィンテック企業『アルゴ・スクエア』のCEO執務室前。  秘書の佐藤美紀さとう・みきは、いつものようにスマートウォッチをドア横のリーダーにかざした。 『認証しました。おはようございます、佐藤様』  合成音声とともに、重厚なドアが音もなくスライドする。


 冷気。  一歩踏み入れた瞬間、肌を刺すような冷たさに美紀は身震いした。設定温度が低すぎる。CEOの神田隆かんだ・たかしは健康管理に厳格な男だが、ここまで室温を下げることは稀だ。


「おはようございます、神田社長。本日のスケジュールですが……」


 返事はない。  広大な執務室の奥、窓を背にしたイタリア製の高級デスク。そこに、神田が突っ伏していた。  寝ているのだろうか? いや、ありえない。彼は毎朝五時に起床し、パーソナルトレーナーとのワークアウトを済ませてから出社する。一分一秒を無駄にしない完璧主義者が、始業時間にデスクで居眠りなどするはずがない。


「……社長?」


 美紀は恐る恐る近づいた。  デスクの上には、飲みかけのミネラルウォーターと、彼が常用している数種類のサプリメントケースが整然と並んでいる。  革靴の爪先が、不自然な角度で床を向いていた。  美紀の視線が、神田の顔に吸い寄せられる。


 デスクの天板に押し付けられたその横顔は、苦悶に歪み、土気色つちいろに変色していた。見開かれた瞳は、虚空の何処か一点を凝視したまま、乾ききっている。


 美紀の喉の奥から、言葉にならない音が漏れた。  スマートウォッチが、彼女の急激な心拍数上昇を検知して警告音アラートを鳴らす。  だが、その電子音さえ、彼女の悲鳴にかき消された。


「きゃあああああああっ!」


 硝子の棺のような密室に、絶望的な叫びだけが反響した。


 現場検証は、あまりにも事務的に、そして退屈なほど迅速に進められた。


 所轄である中野警察署の刑事たちが、土足で高級絨毯を踏みしめる。鑑識課員が散布する特殊な粉末が、無機質な部屋にわずかな生活感――というよりは、事件という名の非日常――を付着させていく。


「死亡推定時刻は昨夜二十三時三十分から二十四時の間。死因は急性心不全の疑い。外傷なし。争った形跡なし」  係長の男が、タブレット端末に入力しながら独り言のように呟く。 「毒物反応、簡易検査ではシロ。持病の心臓疾患による発作か……」


 神田隆、四十五歳。新進気鋭の経営者。  彼が築き上げた資産と名声は、一夜にしてただのデータと化した。


「警部、セキュリティログが出ました」  若い刑事が報告する。 「昨夜二十二時〇分、被害者本人のICカードと顔認証による入室記録があります。それ以降、今朝八時三十分に秘書が解錠するまで、ドアの開閉記録は一切ありません」


「窓は?」 「FIX窓(はめ殺し)です。破壊された痕跡もなし。空調ダクトも、猫一匹通れないサイズです」


 完全な密室。  刑事たちの間には、すでに「事件性なし」という空気が漂っていた。日本の警察は忙しい。明らかに他殺の痕跡がない限り、変死体は行政解剖に回され、病死として処理されるのが通例だ。


「防犯カメラはどうなってる?」 「確認しました。これが決定的です」


 鑑識課員が大型モニターに映像を再生する。  画面の中の神田は、デスクで書類に目を通していた。時刻表示は二十三時三十分。突然、彼は胸を掻きむしるように押さえ、苦悶の表情で椅子から崩れ落ちた。  その後、ピクリとも動かなくなるまでの数分間、誰も部屋には入ってこない。部屋には神田以外、誰もいない。


「……決まりだな。過労か、隠れ心不全だ」  係長はあくびを噛み殺しながら言った。 「遺族には気の毒だが、事件じゃねえ。仏さんを搬送しろ。調書作って終わりだ」


 冷徹なシステムに守られた部屋で起きた、あまりにも合理的な死。  誰も疑わなかった。  カメラの映像が、精巧に作られた「デジタルの幻影」である可能性など、この場にいる誰一人として想像さえしなかったのだ。


 同じ頃。  光あふれるセントラルパークとは対照的に、淀んだ空気が漂う場所があった。  中野ブロードウェイ。  一九六六年に「東洋一のショッピングセンター」として開業したこの奇妙な複合ビルは、半世紀の時を経て、サブカルチャーの聖地であり、同時に時空が歪んだ迷宮ダンジョンと化していた。


 その二階にある、昼間から薄暗いジャズバー『ウー』。  紫煙が漂うカウンターの隅で、真壁剛まかべ・ごうは琥珀色の液体を揺らしていた。  四十八歳。白髪混じりの無精髭に、何年も着古したようなヨレた麻のシャツ。その背中は、かつて警視庁捜査一課のエースと呼ばれた男の覇気を、意図的に消し去っているように見える。


「また昼からか、真壁ちゃん」  マスターがグラスを磨きがら呆れた声を出す。 「仕事はどうした? 『民間法科学鑑定所』だっけ? 名前だけは立派だが、閑古鳥が鳴いてるんじゃないのか」


「やかましい」  真壁は安物のウイスキーを一気に煽った。喉を焼くアルコールの刺激だけが、彼が生きていることを実感させる。 「仕事ならあるさ。昨日は猫探し、一昨日は浮気調査の証拠写真だ。……平和なもんだよ」


「へえ。あの『捜査一課の狂犬』が、すっかり牙を抜かれちまって」


 真壁は鼻で笑った。  狂犬。そう呼ばれた時代もあった。だが、組織の論理、上層部の忖度、そして隠蔽体質に噛みつき続けた結果、彼は警察という巨大なシステムから弾き出された。  正義とは、法を守ることではない。組織の面目を守ることだ――そう悟ったあの日、彼は警察手帳を机に叩きつけ、この混沌とした中野の街に流れ着いたのだ。


「今の俺は、ただの便利屋だ。面倒な事件は御免だね」


 そう言いながら、真壁はカウンターに置かれたスポーツ新聞に目を落とした。  一面の片隅に、小さな記事があった。


 『アルゴ・スクエアCEO、執務室で急死。病死か』


 真壁の目が、一瞬だけ鋭く細められた。  アルゴ・スクエア。中野の再開発利権の中枢にいる企業だ。そのトップが、セキュリティの塊のようなビルで孤独死?  刑事としてのノイズが、脳の奥で微かに鳴った気がした。出来すぎている、と。


「……おい、マスター。テレビ点けてくれ」 「ん? 競馬か?」 「ニュースだ」


 モニターに映し出されたのは、Mスクエアの前でマイクを向けられる遺族の姿だった。  喪服に身を包んだ美しい女性。神田の妻だ。  彼女は気丈に振る舞っているが、その目は警察の発表など微塵も信じていない光を宿していた。


「警察は……主人の死を病気だと決めつけました」  震える声が、スピーカーを通して響く。 「でも、私は信じません。あの人は殺されたんです。……私は、真実を知りたい」


 真壁はグラスに残った氷を噛み砕いた。  ガリ、という音が静かな店内に響く。


「……面倒なことになりそうだ」


 真壁はポケットからしわくちゃの紙幣を取り出し、カウンターに置いた。  予感があった。  この「あまりに綺麗な死」が、中野の泥臭い地下水脈を通って、自分の元へ流れ込んでくる予感が。


 そしてその予感は、一時間もしないうちに現実となる。  彼のスマートフォンが、無機質な着信音を鳴らし始めたのだ。  画面に表示されたのは、相棒の九条からのメッセージだった。


『依頼人です、真壁さん。どうやら、面白いオモチャを持ってきたようですよ』

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