初デートと約束
待ち合わせの五分前に駅の時計の真下に着いた。
人の流れは切れない。
床に落ちた灯りが、誰にも気づかれない速さでかたちを変えている。
私は立ち止まり、背筋をひとつ伸ばした。
鞄の口から折りたたみ傘の先が少しのぞいていて、手の湿りをハンカチで押さえた。
通路脇のガラスで輪郭だけ確かめる。
髪も口元も乱れていないのに、笑い方が固い感じがする。
それでも名前を呼ばれる場面を思い浮かべると、デレデレで顔が崩れてるなぁという感じだった。
肩に小さな触れ。振り向いた。
服装は、白いブラウス、薄いグレーのカーディガン。
髪は耳の後ろでまとめられていて、耳たぶにだけ体温の色が残っている。
私にとっては世界で一番の美少女がそこにはいた。
お互い顔が赤いので、緊張しているのは、たぶん二人ともだよね。
「待った?」
私の言葉は、昔のドラマの台詞だなぁって思いながら伝えた。
「今来たところ」
声が重なって、目元がやわらぐ。張りつめていたものが、そこで少しほどけた。
並んで歩いて、構内の小さな喫茶へ向かった。
二人席に腰を下ろすと、奥で挽かれる豆の香りが遅れて届き、鏡の壁が窓のない店に余白をつくっていた。
私はレモンティー、彼女はアイスのカフェオレを注文した。
少しして、湯気の立つ私のカップと、冷たいグラスがそれぞれ置かれる。
私はその湯気をひと吸いして、喉の力が抜け、声が出しやすくなる。
「ここ、よく来るの?」
「一人で落ち着きたいときに。静かで、助かる」
この場所は彼女の好きなお店なんだ。
これはいい情報をゲットしたと心の中でガッツポーズを取ってしまった。
その言い方の柔らかさに合わせて、スプーンでレモンの輪を沈める。
背の高いグラスの氷が軽く触れ合い、合図みたいに話が転がっていく。
学校のこと、最近読んだ本、好きなパン。
急がなくていい話は先に置いたまま、知りたい気持ちだけが少しずつ増えた。
飲み終えて、エスカレーターで二階の本屋へ。新刊台のにぎわいは横に見て、自然と詩の棚に向かう。
背表紙に指を滑らせ、一冊を抜く。
紙のやわらかな匂いが立って、肩の力が静かに落ちる。
彼女が目を細めて「それ、好き?」と聞いてきた。
「うん。言葉がまっすぐで、後からじんわり残る」
彼女は微笑んで本を指さしてきた。
「じゃあ、今日の記念に」彼女が本を受け取り、レジへ向かった。
私は歩幅を合わせた。
袋を渡す瞬間、指先が触れ、胸がわずかに締まる。
彼女が受け取って、レジまでの短い距離を歩く。
その背中に歩幅を合わせる。袋が渡される瞬間、指先がふっと触れて、胸の奥に小さな印がついた。
言葉にはしない。しまっておく。
外に出ると、駅ビルのガラス越しの空がさっきより暗い。
風は思ったより冷たくて、鞄の口をそっと確かめる。
予報は晴れのまま。それでも、今日は降るほうに傾いている気がする。
「少し歩こっか」
頷いて、駅前の小さな公園へ。昼過ぎのベンチは空いていて、頭上の葉が静かに揺れる。
地面には細い縞の影。買ったばかりの詩集を袋から出し、指の腹で紙の端を押さえて一枚めくる。
「一行だけ、読んでいい?」
「聞きたい」
喉に力を入れず、短い一節を小さな声で読む。今日の自分に合う高さで、ちゃんと着地したと思う。
紙面に丸い輪がひとつ落ちた。顔を上げると、小雨。鞄から紺の折りたたみ傘を出して広げる。
布の内側で肩が寄る。香水ではない、洗い立ての髪の匂い。
雨は細かく当たって、音は平らにそろっていく。
「続き、読もうか?」
「帰ったら電話で。ゆっくり」
「それ、いいね」
ひとつの約束を、今日の余白の中に置いた。
並んで歩く。水たまりを避ける動きが重なるたび、彼女の手の甲が私の腕に触れて、別の言葉はいらなくなる。
公園の出口で雨は弱まり、薄い灰の空の下、遠くのガラス面だけが少し明るい。
「手、繋いでいい?」
言葉になる前から胸の内側で形ができていて、その形のまま口にする。
差し出された指先を受け、最初は浅く、次に少しだけ力を足す。
掌のかたちはすぐに馴染み、小さな笑いが生まれる。
傘の中に、さっきまでなかった広さができる。
それだけで私は、幸せが広がっていた。
公園の出口で雨が弱まり、空のグレーも柔らかくなっていた。
ビルのガラスに映る影が、ぼんやり重なる。
「手、繋いでいい?」
心臓の音を抑えながら言うと、「うん」って指を差し出してくれる。
恐る恐る絡めて、軽く握る。形がぴったり合って、二人で小さく笑う。
傘の中が、急に温かくなった。駅に戻る途中、雨上がりの空気が清々しくて、足取りが軽くなる。
繋いだ手が、言葉以上に多くを語ってる気がした。
「次、どこ行きたい?」
「夜の水族館。人が少ない平日とか」
「いいね、来週空けとくよ」
水族館か。想像しただけで、胸が少し膨らむ。
予定が決まった瞬間、また素敵な未来が少し形になる。
私は雨の止んだ傘を畳み、その音を聞く。
改札まで手を繋いだまま。のんびりと駅まで歩いて行った。
「今日はありがとう」
もう別れる時間が来て少しだけさみしいなぁ。
「私こそ。いい一日だった」
「詩の続き、電話でね」
私は先ほどの約束を確かめるためにもう一度だけ伝えた。
「うん、約束」
指が離れる瞬間、ちょっと悲しいと思った。
もしかしたら悲しい顔を出しちゃったかな。
風が通り抜けて、彼女が振り返って手を振る。
私は頷きながら、私も負けじと大きく手を振った。
駅のホームに降りると、握ったスマホが震えて、「またね」のメッセージが画面に届く。
朝の固い表情から少し変わった自分の顔が、チラリと映り込んで、目元が柔らかくなってる気がした。
デートの余韻で嬉しい気持ちが心の底から湧いてきていた。
電車が入ってきて、ドア前に並ぶ。
私はそのまま返事を返し、送信音が今日の終わりを告げる。
乗り込んで吊り革に捕まった。
膝に当たる詩集の袋をそっと撫でると、ページのどこかで読んだ一行が浮かぶ。
「ここから」
駅の灯りが遠ざかる窓の外を眺め、息を吐いた
手の温もりをもう一度思い出す。
次は、きっとまた、こんな一日を望みながら。




