第二十五話 覆水不返
夕飯の時刻になり、お母さんはみんなに聞こえるように声を掛ける。
「ご飯できたわよー」
「はーい」
僕は返事をして食卓に向かった。
今日はトンカツだ。美味しそう。
みんな席につき、手を合わせて斉唱する。
「いただきます!」
みんなが美味しそうにご飯を頬張る中、僕はなかなか箸が進まなかった。
それでも悟られまいと必死でご飯を食べた。話にもついていった。
「ごちそうさまでした!」
みんなで斉唱した後、お父さんが食器を片付けようと席を立とうとしていたので、僕は意を決して口を開いた。
「ねぇ、お父さん」
お父さんだけでなく、みんなが僕を見る。
家族が僕を見ているだけなのに、どんどん緊張が高まっていく。
ドクンドクンと、心臓が太鼓のように鳴り響く。
「ん? なに?」
お父さんは柔和な表情で僕を見つめる。
僕は震える手をぎゅっと握りしめ、単刀直入に言った。
「もう試合に来ないでほしいんだ」
穏やかな食後の弛緩した空気が、一瞬で張りつめた。
お父さんは目を見開き驚いた表情をしたが、すぐに真顔になって僕を見据えた。
僕は目を逸らしそうになる。
でもここで逸らしてはいけないような気がして、僕もお父さんを見据えた。
見合っていたのはわずか数秒。それでもその数秒は、今までになくとても長く感じた。
永遠にも感じられる数秒の後、お父さんは目を逸らした。
ふぅっと息を吐き、「分かった」と一言だけ告げて席を立ち、食器を片付けに行った。
お父さんはその足で玄関へと向かい、「ちょっと出てくる」と言い残し、家を出ていった。
緊張が解け、安堵でどっと力が抜ける。
良かった、ちゃんと言えた。これで自由だ。
でも、なぜか心から喜ぶことができなかった。
今までずっと望んできたことが叶ったというのに。
残された三人はその後、何事もなかったように過ごした。
何か言われるかなと思っていたけれど、お母さんは何も言ってはこなかった。
就寝時間になり、僕は布団に入る。
寝ようと思って布団に入ったはずなのに、なかなか寝付けなかった。
どうも考えてしまう。これでよかったのかと。
すると、コンコンとドアをノックする音がした。
「翔、入るわよ」
お母さんだ。僕はなぜか恥ずかしくて、布団を被って寝たふりをした。
ゆっくりと足音が近付いてくる。
僕の隣で足音が止み、数秒の沈黙が訪れる。
お母さんは、僕が本当に寝ているか観察しているのかもしれない。
僕は寝ているはずなのに、お母さんは小さい声で言った。
「お父さんは大丈夫よ。だから気にしないで。おやすみ」
そう言って、ゆっくりと部屋を出ていった。
なぜお母さんがそんなことを言うのか分からなかったけれど、心が軽くなった気がする。
布団をかけ直し、再び眠りに集中する。
僕はいつの間にか、睡魔に夢の中へ連れていかれていた。




