2話 不公平な神様の贈り物
(夜長さんの幸せを尊重してみたけど、具体性に欠けるよな……)
恵まれた晴天模様。
新しい朝の景色。影が伸びる頃、草臥れた僕は目の前の赤信号に捕まる。
戸締まりを確認してマンションを出る。いつもの登校時間。
眩しそうに見上げると太陽の日差しが溢れており、群青色の世界は始まりを告げるかのように明けていく。独特の澄んだ空気はどこか特別感があって、呼吸をする度に錆び付いた意識が冴える。
気分転換には丁度良い。朝焼けには到底敵わないけれど。
薄暗がりの路地裏を越えて、視界の片隅に現れる摩天楼の光景。大都市は喧騒に包まれていて、通勤時間が重なり、混雑はピークに達していた。
数分程度の信号待ち。
現代人は気に留めずスマホにだけ視線を落とす。
そんな曇天みたいに曇る群衆に紛れ込んだ僕は思案に暮れている。あまりの窮屈さに嫌気が差して、落胆した溜め息を吐く。
優柔不断。
一時の感情の揺さぶり。独占的な価値観。
迷惑極まりない。傍迷惑過ぎる。計画性皆無の夢物語に翻弄されている。
頭の中に自問自答を繰り返す。
本当に。
夜長愛歌という少女が『幸せ』になれるのだろうか?
(過保護というか、ストーカーっぽくてなんか嫌だな……。無関係のくせに)
馬鹿馬鹿しくて微笑んでしまう自分がいる。
赤の他人に時間を費やす余裕はない。学生身分の自分で精一杯だ。
けれど、彼女だけは根底を覆す。
美少女=夜長愛歌であり、夜長愛歌=美少女であることを。
要するに。噛み砕いて説明すると、夜長愛歌こそ正真正銘の美少女なのだ。
―――自分は一体何を言ってるんだ???
ふざけていると思われるかもしれない。鼻で笑われるかもしれない。
事実だ。入学式を終えて、クラス分けの際に彼女の姿を目撃した途端、女子達に対する固着観念が瓦解したような、歯車が狂い始めた原因だった。
1年A組は容姿の整った女子が多く、『四天王』と呼ばれるグループが席巻するものの、彼女の存在感だけは決定的に違う。絶句を覚えるほど美しい光芒を見て、僕は無意識の内に心を奪われてしまう。
霞む。
クラスメイトの女子達の笑顔が。魅力が薄れていく。
恋愛感情が湧かない。興味がないというか、正直心がときめいていない。
心ここに在らず。
空白を埋めるのは、居場所のない虚無感と不思議な清々しさだけ。
一目惚れが生じた原因を解消するためには。
他人の恋を成就させるしかない。夜長愛歌の幸せを応援することでしか、解決策はないのかもしれない。
所詮自分は部外者だ。使い捨ての端役に青春は不必要だ。
雑念を消せ。
(……アイドルの背中を追いかけるって、こんな気色悪い感覚と一緒なのかな)
曇る瞳と共に僕はゆっくりと見上げた。
相変わらず飛び交う雑音だったが、スクランブル交差点に設置している新型液晶搭載の大型ビジョンに遮蔽されて、その画面に映る超国民的アイドルの天野川衣の新曲、『The Imaginary Stardust』が流れると、スマホに視線を落としていたハズの群衆は彼女の姿を見て一目散に視線を奪われた。
惹き付ける完璧な振り付け。
彼女の茜色の瞳を誇張するMV映像。唯一無二の女性ソロアイドル。
スポットライトを集めて、踊る至高の笑顔。
息を呑む人々。十人十色の期待の眼差しは彼女が超国民的アイドルという理由を決定付ける、そんな圧倒的な存在感。
夢を与える人間として、彼女は前向きになれる歌を披露していた。
当然目に止まる。
「可愛い。美人さんだ……」
紛れもない。天野川衣は別世界の住人だ。
アイドルという憧れの娯楽に一切興味ない類の僕が認知するほどの知名度。
公共放送やソーシャルメディアなどの過剰な演出さえも翻す彼女の驚異的な活躍は日本中の老若男女の賛否両論を称賛に変えてしまうほど。
新世代。黎明期の千両役者。
けれど、部外者の僕は彼女のことを知る術はない。
全身に伝う音楽の衝撃。込み上げる感情の正体は恍惚に似ていて、透明な彼女の歌声に視界は酔いそうになり、麻痺した意識が高揚感に染める前に―――。
―――僕は『違和感』を覗いてしまった。
(……そうか)
消える感情の沸騰。脳裏に迸る灰色のノイズ。
泥々の重油に浸かる感覚。苦虫を踏み潰す感触。吐瀉物を浴びて、淀んだ視界は世界が暗転していて、混濁した雑音はマドラーに掻き回されるような。
嘘の欠片。
(見えている景色そのものが、幸せに繋がるとは限らないのか)
時折思う。自分の直感が嫌いになる。
現実を認めてしまえば、真実を理解してしまえば、画面に映る彼女の存在理由を否定しなければならない。
所詮、他人の絵空事なのに。
血紅の宝石なんて、価値の知らない自分には接点がないというのに。
実力は本物だ。明白に彼女は天才だ。
それでも超国民的アイドル、天野川衣の捏造の光だけは。
僕だけが否定する。
(……勘違いをしていた。期待の眼差しは身勝手な都合なんだ。自分の主張を他人に押し付けることだったんだ。これは応援なんかじゃない。願望に応える彼女の姿は、まるで客寄せパンダ……)
娯楽の消耗品。眼精保養。
活躍が浸透する度に浴びる黄色い声。歓声とは程遠い甲高さ。
苦悩を知る人物は雀の涙程度。努力の糧など露知らず、目の前に映る現実だけが真実になる世俗に、天野川衣は苦しんでいるに違いないと。
そう思い込んでいた。
「いや、まさか。期待に応えていたのは、彼女の方じゃなくて……」
言葉の意味を並べようとした時。
見えている景色が、真実に繋がるとは限らないように。
―――朱殷色に染める、狂気狂乱の光が彼女の瞳の奥に蠢いていたことを。
欺瞞が僕だけを覗いている。
違和感の正体。真相は液晶画面の向こう側に。
「これが、超国民的アイドルが望んでいた景色なのか……?」
星屑を連想する旋律を乗せて。怒濤の転調にテンションは加速させていく。
彼女の描く独特の世界観に触れた老若男女は恍惚な目をしており、肝心のサビの部分に入るとボルテージは画面を越えて、虜になった人々の狂喜の声が広場に震え上がる。余韻冷めやらぬ軽快なメロディに痺れる群衆とは違い、唯一僕だけが静かに身構えていた。
偽装した景色なんて、僕は肯定できない。
(夢物語の投資も。一方通行の傍惚れも。全て現実逃避をする為の拡大解釈だと、そう考えていた。けれど実際、彼女の場合は……)
猟奇的な世界の中心で踊る、超国民的アイドルのシルエットが。
暗転する。強烈なノイズが脳裏に過る。触れるという感触はないハズなのに、拒絶に似た苦痛が全身に駆け巡る。
睨んでいないと、体が蹌踉けてしまいそうな気がして。
(……ある意味で)
天野川衣は嘘をついている。しかし。
意味が理解出来ていない。彼女の抱いた真意に納得が辿り着いていない。正解に届かないかもしれないけれど、推察だけは可能だった。
(僕は……、天野川衣のことを知らない。アイドルの天野川衣のことも知らない)
透き通る歌声も。弾けた百点の笑顔も。新曲に込めた本音さえ。
全て、憶測の域に過ぎない。
触れそうな距離にある現実を前に。臍を噛む僕は静観するだけで。表情を隠しているものの、拳には行き場のない悲憤と愕然が溢れていく。
何者なんだ。
みんなの期待を応える為にアイドル活動をする彼女。業界に新たなアイドル革命をもたらした張本人の活躍の裏側は、老若男女の心を完璧に欺き、真実とは程遠い天野川衣はほろ苦くて甘酸っぱいパステルな世界観で人々を騙し、称賛だけの景色を築いた超国民的アイドルはステージ上を踊る。
浮かべる笑顔は欺瞞に満ちていて。
夢を与える人間は徹底的に残酷なまでに嘘つきなのだと。
正直、知りたくなかった。
(彼女が超国民的アイドルだから応援するのか、それとも天野川衣だから期待するのか。真実は両方のどちらでも無かったんだ)
意識を魅了する彼女の瞳が。吸い込まれそうになる魅惑的な輝きが。
他人の心を欺く虚像のスポットライトが。
狂う。何もかも。歪む視界と揺れる感情を置き去りにして、過剰な熱狂と盲目的な声援。ファンと呼べるには相応しくない、まるで同調を繰り返す首振り人形だ。そこに彼女の真意は注目されていなかった。
超国民的アイドルの本音は届かない。天野川衣の本音も届かない。
周りに群がるのは刺激に飢え、退屈を満たすだけの。
傍観者の姿だ。
(僕という例外を除いて、彼女の瞳を見た人達は、茜色の瞳に焼かれていたんだ)
彼女の知る世界は色褪せていた。
応援以前の問題として、期待以前の問題として、根本的に間違っている。
本心は古蝶の夢の中に。
「それでも、僕は君のアイドルを否定する」
誂え向きの詭弁を吐く。彼女の偶像自体を否定することにした。
日永湊は部外者。視聴者でもなければ視聴者でもない。
アイドルの彼女は別世界の住人だ。同年代の人間だろうと能力のヒエラルキーが縛る限り、対等の天秤は矛盾に傾ける。矛盾こそが僕の存在証明になる。
特別になる必要はない。
当たり前の事が出来る人間。正しいことが出来る人間。
自分の信念を貫くことが出来る人間。
―――優しい人に僕はなりたいだけなんだ。
前に進む意味。生きる意味。答えの行く末は青信号の向こう側に。
「どんなに欺いたとしても、君は真実に暴かれる。お天道様が見ているように」
チャイムは鳴る。
自動車の走行音を一蹴して、沈む静寂の合間。
スクランブルの交差点を支配する拡声器のお陰でハッと我に返る群衆。
彼女の洗脳に近いおまじないが解けたことによって、当たり前の日常に戻る人々を他所に、顔を見上げる僕は通学路である路地裏に消えていく。
途中、交差点で擦れ違う人達の中に。
黒い靄を纏う人が視界の片隅に。矛盾が生じた違和感の証拠について。
言及はしない。
流石に見当違いだろう。まさか本物の彼女に会うなんて。
夢物語だ。時に幻想を抱くこともある。いいや、仮にいたとしても多分話すことはない。何せ、僕は都合の良い理解者ではなかったからだ。
ある意味自虐的で。日常とは程遠い肩書きが。
普通の男子高校生じゃない理由。
相手の『嘘』が見える素質。これこそが、僕だけの神様の贈り物だった。
不公平な神様の仕業だ。
「月陽高校の人間、か……。ふーん」
フードを深く被り、眼鏡を掛けて、笑顔で欺く少女の瞳は茜色に輝かせていた。
「親切そうだし、ちょっと気になるかも? まあ、興味ないんですけど」