竜は長崎の海に②
次の日、少し雲が多い午前。
ボロボロで穴の開いた体育館の天井から、カンコンカンコンという音がする。
「うぁっぢぃ~」
長袖シャツの袖をまくってトンカチを握りしめるクルミは、額を流れる汗を拭った。
太陽が登り始めてる東を見れば、緑に覆われた山が見える。反対側は青い海だ。山と海に挟まれた狭い平地、森と田畑に囲まれた村が見える。
村と言っても、まだ倒壊してない幾つかのマンション…とかいうコンクリートの建物に住み着いた百にも満たない人々の、小さな集落だ。
クイクイッと半ズボンをはく腰の命綱が引かれた。
天井への登り口近くにある鉄骨に巻き付けられた紐の根元を見たら、ネフェルが紐をペシペシと弾いたり腕に巻き付けて遊んでいた。
「…おい、遊ぶなよ」
「だって暇なんだもん」
「なら、板を持ってきてくれよ」
「ふぁーい」
頼まれたネフェルは、自分の身長ほどの板を頭上に掲げて天井を歩きだす。あちこち穴の開いた天井を、命綱も着けずに。
「お、おいネフェル。ちゃんとヒモをつけろよ」
「めんどくさーい。猫族は人みたいに鈍くさくないからダイジョーブよ」
確かにネフェルは猫らしい身軽さで、軽やかに天井を音も立てず歩いてくる。足の裏にもついてる肉球が音を吸収してしまうようだ。
「ま、そうかもだけど。でも足の裏、熱くないのか?」
「これくらいヘーキだってば。別に熱くないわよ」
言いながら、ネフェルはヒョイッとクルミの横にしゃがんだ。兄の横に板を置き、ジャラジャラ音を立てて釘を広げる。
「ありがとな」
一言礼を言って、板を天井の穴に打ち付け始める。その姿を妹が興味深そうに眺めている。
釘を打ち付け終えた兄は、額の汗を拭いながら妹の方を見た。
「…ンだよ」
「ね、トンカチ貸してよ」
「ほれ」
ヒョイッと差し出されたトンカチの柄を握りしめようとしたネフェルだが、どうも上手く行かない。毛に覆われた手は肉球が邪魔で握りしめられない。親指が人ほどには自由自在に動かない。そのせいでしっかり掴めない。
「やっぱ無理かー」
「当たり前だろ。ほら、返せよ」
ネフェルからトンカチを受け取ったクルミは、再び釘の頭を叩き始める。金髪が汗に濡れて光る。
「やっぱ、人族って器用よねー。さすがかつて地球を支配した種族ってヤツ?」
「そうなのかな?どうみても、じーちゃんみたいな竜族の方が支配者っぽいんだけど」
「だよねー」
そんな話をしながらもクルミは手を休めない。ネフェルはボンヤリと兄の作業を見守っている。
太陽が真上に来た頃、ようやく体育館の穴が一通り塞がった。
「ぃよーっし!これで嵐が来ても大丈夫だぜ!」
「お疲れ様ー」
一仕事終えた二人は、立ち上がって大きく背伸びする。
そして天井から降りようかと振り向く。
すると、足下を何か大きな影が通り過ぎたのに気がついた。
二人が上を向くと、太陽を背にして竜が飛んでいた。
緑色の大小二頭と、赤の一頭。合わせて三匹の竜が、バッサバッサと羽ばたきながら運動場に着陸しようと降下を始めている。
ネフェルが空を眩しそうに見上げながら手を振った。
「あっれー?ラプターおじさん達だよ」
「ホントだ。ひっさしぶりだなー。小さい竜は…誰だろ」
「早くいこ!」
猫の妹は長い尻尾で器用にバランスを取りながら天井の上を走りだす。その後ろで人の兄は抜き足差し足、出入り口へおっかなびっくり歩き出したところだった。
「ま、まてよー!置いていくなー!」
「もー、兄貴ったら」
戻ってきた妹に手を引かれて、命綱も握りしめて天井を歩き続ける。
「ラプターおじさん!ひっさしぶりー」
「おーう、クルミとネフェルか?大きくなったなぁ」
「へへー、ようやくネフェルより大きくなれたぜ」
広場には既に集落の人々が集まっていた。
久しぶりに戻ってきた緑と赤の竜、ラプター達三頭の竜に再会と初対面の挨拶をしている。
特に猫族と犬族は小さな竜を興味津々で囲み、体の臭いを嗅いでいる。小さいと言っても、大人の猫族と同じくらいの大きさなのだが。
隣にいる赤い竜も人々に囲まれている。
「タマナおばさん、元気そうで何よりだ。こちらの子竜は、新しいお子さんか?」
壮年の男にタマナと呼ばれた赤い竜は、嬉しそうにまぶたを細める。
「ええ、そうなんですよ。ようやく遠出が出来るくらいに大きくなりましたので、連れてきたのです。ほら、自己紹介をしなさいな」
赤い母竜に促され、緑の子竜はペコリと頭を下げた。
「あ、あの、初めまして。僕、スクモ。
シコク産まれ、で、その、初めて父さんと母さんの、あの、故郷のナガサキに来ました、です。よ、よろしくお願いします」
紹介された人々もペコリと頭を下げる。それぞれに名を名乗り、「よく来たねえ」「いやあ、四国に移った連中も元気なようで安心したよ」「まだ小さいのに、賢いな」とスクモを歓迎する。
ラプターは首を伸ばし、キョロキョロと遠くを見渡す。
「ところで、父はいないのかな?」
ラプターの体のカゲに隠れる大きなカゴに興味が移っていたネフェルが、上の空で答える。
「青竜のじーちゃんなら、今日も漁に行ってるよ…それ、おみやげ?」
「こら、ネフェル。はしたないぞ」
クルミに頭を軽くこづかれ、妹は頬を膨らます。それを見下ろしているラプターはクックッと笑い声をこぼす。
「いかにも、お土産だとも。サトウキビが豊作でな。孫の顔を見せるついでにお裾分けに来たんだ」
タマナも自分の後ろに置いていた大きなカゴを前に出す。中にはサトウキビの束がギッシリと詰まっていた。
夕方の運動場。
サトウキビの絞り汁をバケツで飲む青竜が目の前の子竜を嬉しそうに眺めていた。
「ほうほう!そうかそうか、お前がスクモか。話には聞いておったが、こりゃ賢そうな子じゃの」
「は、はい!
僕も、セイリュウお祖父様の、お話は、その、父さんと母さんと、他の兄弟からも沢山聞いています!お会い出来て、嬉しいです」
「ほほ、そりゃ恥ずかしいの。
にしても…お祖父様などと、むずがゆいわい。そんな肩肘はらんでいいぞ」
「え?でも、その、昔の戦争を生き残り、皆を導いた英雄だって…」
「なぬ?ラプターめ、またそんな話を」
青竜がチラリと見る先では、運動場の真ん中で緑竜の息子が皿に盛られた生のイワシをヒョイヒョイと口に放り込んでいる。
隣にいるのは妻である赤竜。
そしてそれを取り囲む人と猫はサトウキビの茎をかじりながら、竜の夫婦の話に花を咲かせていた。
「わしは英雄なんかじゃないし、皆を導いたわけでもない。単にワシより長く生きてるヤツがいなくなっただけじゃ」
「え?そうなんですか?」
「そーじゃ。
全く人も猫も犬も、もう少し長生きしてくれりゃいいのに…。竜達にしたって、女房には先立たれ、友達も死んでしもうた。
というか、あんなの戦争でも何でもないし、英雄なんかおりゃあせん」
戦争でもなく英雄もいない、そう吐き捨てるように語る老いた竜。
だが、スクモはキョトンと首を捻っている。
セイリュウは誤魔化すように咳払いをした。
「ま、そんな昔話よりも、四国の様子を教えてくれ」
「あ、はい。分かりました。あのですね…」
スクモはたどたどしいながら、前足を振り回したり翼を精一杯広げたりしながら元気に語った。
彼が小さい頃は荒れ果てていた山々では、植えた木々が健やかに育っていること。
海に沈んだ街に広がり続けるサンゴは美しく、色とりどりの魚が暮らしていること。
波打ち際では犬族がいつも遊んでいること。
山に森が育つにしたがって鳥たちも戻ってきていること。
川の水も豊かになり、土砂崩れや鉄砲水も減ったこと。おかげでサトウキビだけでなく、小麦や大豆も今年は豊作だったこと。
海の魚も増えて猫族は大喜びしていること。
人族は集落を直したり醤油や味噌を造るのに忙しい。
みんな、そろそろ他の作物も育てたいと話し合っている…。
「…四国の地には、他に人族はおらんかったのか?」
セイリュウの問いに、スクモは首をフルフルと横に振った。
「僕らの村に住む人で、ナガサキから来た人以外は…うーん、知らないです。村の外から誰か来たっていうのは、ヤマグチとか、シコク以外に移った人くらいですよ」
「そう…か。
誰か、ワシら以外にも生き残ってたヤツがいるかと思ったんじゃが…。もっと北か東に移ったかもしれんな」
「僕も不思議です。あんな凄い街を作れる人族が、ナガサキの人達だけになっちゃうだなんて」
「それだけ酷い有様じゃったんじゃよ。億を超える人が居た大国が死に絶えるほど、な。百年も昔のことじゃ」
老竜は目を閉じ、一世紀も昔を思い出してため息をつく。スクモの緑のたてがみが大きく揺れるほどの、深い溜め息を。
「そんなに、凄い戦争だったんですか?」
「いや、だからの…あれは戦争なんかじゃなかったんじゃ。
というても、実際に見た者にしかわからんことだが」
話を聞くスクモは、ますます考え込んでしまう。
「あの、このニホン以外にも、沢山の国があったそうなんですけど。世界地図を見ると、地球って凄く広いですよね?」
「ああ、そうじゃな」
「他の国の人達って、どうしてるんでしょうか?」
「さてのぉ…」
セイリュウは西の空を見る。
遙か彼方、海から林立するビルの向こう、水平線に赤い太陽が溶け込もうとしていた。
「あれから百年。大きな船も飛行機も使えなくなり、広い海を安全に渡る術が無くなってしまった。
わしら竜は、そんな長距離を飛び続けられんし。
今さら小舟で危険を冒してまで大陸へ行く理由も無し」
「ヒコーキ?」
「おお、そうか、飛行機を知らんか。人族が作った巨大な鉄の鳥、と思えばよい」
「へ~、そんなのがあったんですか」
「うむ。
だが、大陸から船や飛行機で渡ってくる連中も見なかった。ま、ワシらみたいに生き残った連中が、細々と暮らしているじゃろ」
「ふ~ん…どんな人達かな?会ってみたいなぁ」
セイリュウは孫に目を向け、頭にポンッと手を置いた。
「いつか、その時は来る。
だが、心せい…出逢いは嬉しい事も悲しい事も等しくもたらすんじゃ」
「はーい!その時は、お祖父様みたいな英雄になります!」
「英雄になんか、ならんでいい」
緑の子竜の頭を青い竜の手が優しく撫でる。
「生きろ。格好なんか気にするな。相手も含めて、みんなが生き残れる方法を考えるんじゃ」
「はぁ…でも」
「今はわからんでいい。
だが、その時が来たら思い出せ。
一番大事なのは、争う事ではない。皆が生きる事だ、とな」
「は、はい」
青い大きな手が緑の小さな頭をなで続ける。
―――我ながら偉そうな事を言うわい…。そんな方法があったら、苦労はせんかったよ―――
そんなセイリュウの想いは、言葉になることはなかった。
次の日は、朝から嵐だった。
緑の竜が入り口から外を眺めると、叩き付けるような雨の向こうで稲光が光った。
「やれやれ、嵐の季節ですね」
ラプターより大きな体のセイリュウが天井を見上げる。天井からは、たまに雨粒が落ちてくる。だが気になるほどではない。
「そうじゃな。クルミの修理が間に合ってよかったわい」
体育館の中ではラプター一家とセイリュウが体を丸めてくつろいでいた。
赤い竜のタマナがセイリュウの方を見て、おずおずと口を開いた。
「…ところで、その、お義父さま」
「ん、なんじゃ?」
「実は…私達と一緒に、四国へ来ませんか?」
「なに?」
老竜は少し驚き、タマナの目をまじまじと見返した。もちろん彼女の目は真剣そのものだった。
「お義父さまも、とうの昔に百歳を超えているはずです。そうですよね?」
「…ま、百は軽く超えとる」
「ええ…。
ですので私達としても、そろそろお体が心配です。今後を考えると、やはり私達が近くにいた方が良いかと思うのです」
その話を横で聞いていたラプターも頷く。
「そうですねぇ。
私達は四国の、伊予の村の開発が途中ですので、あそこを離れるわけにはいきません。
ですから、まだ体が元気なウチに、父さんが伊予に来て頂けないかと」
「あーよせよせ。いらん気遣いじゃ」
セイリュウは長い首をブルブル左右に振る。
「わしはまだまだ体は衰えておらん。
それに人も猫も犬も、皆がわしの面倒を見てくれておる。別に困る事はない。
第一、この長崎はワシが生まれ育った土地じゃ。ここを離れて死ぬ気はない」
「えー?お祖父様は来てくれないのですか?伊予はとっても素敵な海なんですよ」
心から残念そうに言う孫に、祖父は目を細める。
「ほほ、そう言われると迷うのぉ。じゃが、住み慣れた土地を離れるのは、この老体にはきついわい」
「え?でも、父さんと母さんとか、ヤマグチやキリシマの叔父さん達とか」
「あー、お前達は若いからの。
竜が生きるには広い土地と海が要るし、まだ荒れ果てたままの土地を蘇らせにゃならん。
若い連中は人も猫も犬も一緒に、どんどん外へ行ってもらわんと」
「そうですか…残念です」
「んむ、すまんな。
それに、この長崎とて、まだまだ荒れ地は多い。仕事は山ほど残ってる。
わしも隠居するには早いじゃろて」
思い出したようにラプターが「あっ」と声を上げた。
「そうそう、その仕事の事なんですけど。
植林するのに良い、新しい苗はないかと探しに来たんでした」
「おお、そうか。もう足らんか」
「チークやラワン、ブナやマホガニー、ヤシにドリアン…。
色々と増やしてはいます。ですが種類は多いに越した事はないですから。
それに山だけでなく、海の森とかいうマングローブがないかと。
人も猫も漁に行くたびに探してますが、やはり四国では見つかりませんね」
「ふむ、懐かしい名じゃ…。
明日、晴れたらあちこち探すとしようか。もしかしたら南の方なら新しい苗も見つかるかもしれん」
「ええ、お願いします」
そんな話をしながら、竜の家族は嵐が過ぎるのを待っていた。
「…と言われても、見あたらないわね」
大きな黒犬にまたがったネフェルが波打ち際を眺めている。
「まんぐろーぶ…って言ったっけ?こんなの見た事ないけどなぁ」
背中にネフェルと荷物を載せた黒犬のコクライを後ろに従えて歩いているのは、リュックを背負い肩に弓を担いだクルミ。
彼の手には、ボロボロになった紙がある。それは植物図鑑の1ページで、海から直接生える植物の群、マングローブ林の写真があった。
「サンゴやヤシみたいに、南の海から流れ着いてるかも、って言ってたわ。ここまで南にくればきっと…て、ここはどこかしら?」
「うーんと、看板ないかな」
キョロキョロするTシャツにショートジーンズ姿の子供達に、コクライの大きな黒い鼻が倒れた電柱を指し示した。
クルミが顔を近づけ、手でホコリと土を払う。そこにはうっすらと『熊本空港』という字が見て取れた。
「まだあんまり南じゃないなぁ」
「じーちゃん達は霧島のおばさんの所まで行ったそうだけど…あんな灰だらけの所じゃ、何もみつからないわよね」
「サクラジマってヤツか?俺まだ見た事無いな。連れてってもらえばよかった」
「すっごいわよー。島が煙をモクモク吹き上げてるの!昔は、ほら、あの山」
ネフェルが西の海を指さす。その彼方にはうっすらと島が見える。
「あのウンゼンって言う島も凄かったらしいわよ。大噴火して、人が沢山死んだって」
「へ~。あんな小さな島にも沢山の人がいたんだな」
「やだぁ、バカね。昔は島じゃなかったわよ」
「あ、そか。沈んだだけか」
雲一つ無い昼。
一面を草に覆われた平地を二人と一匹が歩いていた。
周囲には廃墟も少なく、高いビルも一つ二つが遠くに見える程度だ。
この辺の植林はまだのようで、木はまばらに生えてる程度。
嵐はとうの昔に過ぎていたが、土やアスファルトに寄せては返す波は少し荒い。波風で更に破壊された水中の街が、破片となって大量に流れ着いている。
「それにしても、何にもないねー」
「だよなー。役に立たなそうな草ばっか。木も少ないし。
あるのは流れ着く瓦礫と人の骨ばっかり」
クルミは足を止め、波打ち際で崩れている家屋の残骸の中をのぞいてみる。
薄暗い瓦と木材の隙間に見えるのは、フナムシや小さなカニ、そして人の骨。
暑い風に吹かれて揺らめく草の海と塩水の海の中、多くの崩れ去った家や車の残骸が見える。それら全てが似たようなものなのだろう。
いや、よく見れば草むらの中にも白骨が見える。
ネフェルはコクライの背を降り、草むらの中に落ちていた骨を一本拾い上げる。それは多分、大人の人間の太ももの骨。
「昔はここも、たっくさんの人族がいたんだろーね」
猫族の女の子は骨に鼻を近づけ、臭いを嗅ぐ。でもすぐに興味を無くしてポイッと草原の中に投げ捨てた。
「ま、そろそろお昼だし、ご飯でも捕まえるか」
言いながらクルミはリュックをおろし、中からナイフを取り出す。
「おっけー!ここならすぐに魚が捕まえれるわよ」
ネフェルはコクライの背に載せた荷物から、釣り具を取り出した。
クルミは、その辺に落ちてた棒の先にナイフをくくりつけて簡単な槍にする。
柄には簡単な取っ手もつける。
それを受け取ったネフェルは取っ手に手を通し、海に沈みかけてる瓦礫に登る。そして水面近くを泳ぐ魚を、瓦礫の上から次々と突き刺していく。
「さすが、猫族のパワーとハンシャシンケーって凄いなぁ」
クルミの方は竿を握りしめて釣り糸を垂らしていた。
それを横目でチラリと見たネフェルはフフンと鼻で笑う。
「そんな棒きれ握って座ってても、獲物は来てくれないわよ」
「…みたいだな。網も持って来てればなぁ」
引きが全然来ないクルミを尻目に、ネフェルの横には魚がうずたかく積まれつつある。それをコクライがじぃ~っと見つめていた。
大きな口からバリバリと音を立てて、魚を数匹まとめて噛み砕くコクライ。
その横では、クルミがさばいた刺身の山を二人がパクパク食べていた。
お腹が大きくなり、午後のお昼寝を決め込んで草むらの中に寝っ転がっている二人。
その二人が食べ残したものも綺麗に平らげていたコクライの鼻が一瞬ひくつく。
まだ鱗や小骨がついた頭を上げ、大きな耳が周囲の物音も注意深く拾いだす。
バウッ!
「わひゃ!」
「な、なによコクライ!どうしたの?」
突然吠えた大犬に驚いて二人が飛び起きる。
コクライの目は飛び起きた二人ではなく、遙か彼方の海岸線を見つめていた。その鼻はひっきりなしに臭いを嗅いでヒクヒク動いている。
「行こう」
「うん」
コクライは身を伏せ、二人が背に飛び乗ったのを確認すると、割れ目から草が生い茂るアスファルトの道路を駆け出した。
腰まである草むらの海を分け入って、瓦礫と錆びた金属とプラスチック製品が積もる廃墟の街へ入っていくコクライ。
背に乗る二人は首を伸ばして大きな犬が向かう先をみやる。だが波にもまれる瓦礫の山があるばかり。
アスファルトの波打ち際に立ち止まった黒犬は、水面から僅かに顔を出すコンクリートの建物へ向かって一声吠えた。
「何だろ?クルミ、見える?」
数十m程先の海面から見えるのは、建物の屋上部分。二人とも目をこらして見つめるが何かいるようには見えない。
「うーん、よく分からない。行ってみるか」
言い終わると同時にクルミは海へ飛び込み泳ぎだした。
「気をつけなさいよ~」
声をかけるネフェルに手を振って答えつつ、ほどなくしてクルミは屋上部分に泳ぎ着いた。するとすぐに慌てた様子で大声を張り上げた。
「人だー!知らない人族が流れ着いているよー!」
ネフェルはすぐにコクライの背から飛び降りる。
「コクライ、助けに行って!」
大きな黒犬は大きな水しぶきを上げて海に飛び込んだ。
背の高い木の下、草むらの上に寝かされているのは、長い黒髪とヒゲを持つ男。
衣服はボロボロで痩せ、体に無数の細かい傷がある。
だが、幸い呼吸は確かで大きな怪我もしていなかった。
コクライがしきりに鼻を近づけて臭いを嗅いでいる。
ネフェルの茶色い髪から飛び出す猫耳がピコピコとしきりに動き続ける。
「誰だろう。初めて見るわ」
「この前の嵐で流されてきたみたいだね」
クルミはペットボトルから真水を手に取り、少し口に付けてみた。男は「うぅ…」と少し呻き、舌で水を舐めとる。
少年は手にためていた水を彼の口の中に注いでみる。すると、あっという間に全部飲み干してしまった。
「う…あ」
「あ!目が覚めるぞ」
「ねぇ!ちょっと、大丈夫?」
男はゆっくりと、眩しそうに細い目を開ける。そして、弱々しく口を開いた。
「…你是誰?」
いきなり聞いた事もない言葉を語られ、二人はキョトンと顔を合わせてしまう。
「…里是哪里?太白?」
二人の様子を見た男の方も少しキョトンとしながら言葉を続ける。
「えっと…何を言ってるの?この人」
「あ!もしかしてこれって、ガイコクゴってヤツなんじゃ!…て、あー!」
ポンッと手を打ったクルミが、さらに頭を抱えて大声を叫んだ。
「ということは!この人、大陸から来たんだ!」
「大陸って、まさか、海を渡って来たって言うのぉ!」
頭の上を飛び交う二人の話を聞いていた男が、驚いたように目を見開いた。
「・・・そ、の、言葉…もしや、日本語ちゃうん?」
草むらに寝かされたままの男は突然、クルミやネフェルと同じ言語を口にした。
「…あれ?クルミぃ、やっぱり同じ言葉を話したよ?」
「…だね。あの、あなた、誰?どっから来たの?」
尋ねられた男は、必死に力を振り絞って体を起こす。そしてクルミが持つペットボトルをひったくるように受け取って、水を一気に飲み干した。
「んぐっんぐっ!…ぶふぁ~。
得救了、謝謝!我的名字…っと、すんまへん。ウチらの言葉はわからへんわな。
今しゃべってるヤツなら分かるか?」
急に元気に話し始めた男にビックリした二人が、ともかくコクコクと頷く。
「そらよかった!
これは、ウチらの部族に伝わってた言葉やねんけど。
この日本語が通じるゆーことは、もしかして…?」
男は二人の顔を交互に見つめる。
そして探るように、恐る恐る小さな声を出す。
「ここて、日本か?」
聞かれたのはネフェル。だが、彼女は聞かれた瞬間にクルミの後ろへ隠れてしまった。
前に押されたクルミが、しょうがなく話を続ける。
「そ…そうだよ。
確かに、ここは昔、日本って言う国の、熊本っていう地方だったそうだよ」
その言葉を聞くや、男は突然立ち上がる。そして拳を握りしめて天を突いた。
「やった…やったでぇ!助かったわぁ!
しかも、来れたンや!わいらの故郷に帰って来れたンやぁ!」
男は目に涙を浮かべながら、故郷に帰れたと叫んで喜び続ける。
それを見つめる兄妹はキョトンとしたままだ。
「何だろうね、兄貴?」
「うーん…大陸から来たらしいけど、変な言葉だよな」
標準語と呼ばれる一般的日本語を話す彼等には、それが日本語の訛りの一つである関西弁だという事は分からなかった。