王都の死神①
西の強国ヤーレンと対をなす東の大国、エッサ。
英雄の末裔が率いる『伝統のヤーレン』に対し、海に面した港町であるエッサは経済の中心として栄えていた。それぞれ異なる繁栄の道を歩みながらも、両国は深い同盟の間柄にある。
アデッサが入国したことを知ったエッサ国王は『世界を魔王から救ったヤーレンの第十三王女』の来訪を心から歓迎し、至急、パレードと晩餐会の用意を命じた――だが、その命令はすぐに取り消されることとなる。
エッサ王城、王の執務室。
エッサ国王は驚異的な集中力で目の前の書類と格闘している。積み上げられた書類に次々と目を通し、コメントを書き添えサインを記してゆく速度は尋常ではない。何も考えずにサインだけをしろと言われても、同じ速度ではこなせそうにない速さだ。そんなエッサ国王の働きぶりを、アデッサはソファで見守っている。
しばらくのあいだ書類をめくる音だけが執務室に響いていた。一区切りついたのか、ようやくペンを置いたエッサ国王は『ふうっ』と息を吐き、緊張を解くとアデッサへ人懐こい笑顔を向ける。
「よく来てくれたアデッサ。久しぶりだ。魔王を倒した英雄の顔をよく見せておくれ」
エッサ国王は両手を広げてアデッサを招いた。国王は四十代で中肉中背、浅黒い肌に短く切り揃えられた黒髪。上唇を濃く覆うひげ。
ゆったりした紺色の服はひと目で上質とわかる生地が使われており、胸元に輝く金糸の刺繍と相まってただものではない威厳を放っている。
だが、ここが大陸きっての経済大国の王城、その国王であることを考えれば、この執務室の内装も国王の服装もかなり質素で機能的だ。そのへんの貴族や大商人の方がよほど、庶民が考える『煌びやかな王族』のイメージに近い生活をしているだろう。
アデッサはエッサ国王の呼びかけに応じてソファから立ち上がると、エッサ王の執務机の前へと歩み寄り頭を下げた。エッサ王は前歯を見せて笑顔をつくる。
「美しくなったな、アデッサ。そう言えば……パレードや晩餐会は好きではなかったかな?」
「申し訳ございません、殿下。いまは一人の旅人として扱って欲しいのです」
エッサ国王はアデッサの表情から形式的な遠慮ではない意思を感じ取り、『うむ』と頷くと側近へ耳打ちをした。
「安心してくれ。余計な行事はすべてキャンセルしたよ。まったく、何もせずに俸給を貪るだけの輩ばかりだというのに……アデッサ、君のように偉業を成し遂げても驕らず、更なる人々の幸せのために尽くす者を見ると心が洗われる」
アデッサは少し照れ臭そうにはにかむ。
「なのに、ヤーレン王……あの石頭め、こんなに素晴らしい娘を勘当など――まったくけしからん奴だ」
エッサ国王は少し冗談めいた口調で言った。
「いえ、父を悪くは思わないでください。それに、勘当はすでに――」
「うむ、聞いてはいるよ……アデッサ。事情は聞いているのだが……」
エッサ国王は表情を曇らせ、視線を伏せるとため息をついた。
「困ったときはいつでもこのエッサを頼ってくれ。それと、宿と護衛だけは用意させてもらうよ。たとえ『お忍び』であったとしても同盟国の姫に何かがあってはエッサの名折れだ」
当初、アデッサはそれさえも断る気持ちでいたのだが、激務のさなかに謁見の時間をとり、優しく語りかけてくれるエッサ国王の申し出をこれ以上無下にすることはできなかった。
アデッサは深く頭を下げて礼を述べた。そして――
「殿下。ダンチョネ教、女教皇カトレアにご注意ください」
そう提言する。
「ダンチョネ教……あそこまで極端な教義には誰もなびくまいと高を括っていたのだが。貧民を中心にかなり広まっているようだな。詳細は掴めていないがエッサにも支部がある。だが――」
エッサ国王は言葉を区切り、背もたれへ深く寄りかかった。
「――アデッサ。ヤーレンが女神への忠誠を誓うように、エッサにとっては自由こそが正義なのだ」
エッサ国王の低い声。
「我々には多種多様な勢力との共存の上に繁栄を築いてきた歴史がある。過激な教義を持つというだけで、特定の宗教を弾圧することは出来んのだ。もちろん、国民へ害を為すのであれば私は彼らを許さない。だが、ここエッサでのダンチョネ教の動きは緩やかなのだよ……」
アデッサの心がざわめく。
――聞いたことがある。エッサは金のため、魔王とさえ取引をしたことがある、と。ならば、おそらく……ダンチョネ教とも。
問いただせばエッサ国王は隠さずにその事実を認めるであろう。だが、アデッサにはそれを責めることはできない。エッサにとっては経済こそが生命線だ。この大都会の膨大な数の人々がそれを支えとし、その恩恵にあやかっているのだ。
――エッサ国王の、お父様とは少し違うけど、国を背負う者の眼差し。魔王も、こんな眼差しをしていた。多分、自分とは違う、守るべきもののために戦う者の目。
アデッサは自分の正義だけを信じ、剣を振ることができる己の身の軽さを痛感する。
――どれだけ理想が高くとも、私には守るべき国はない。
時とともにいずれ消えゆく漂泊者なのだ。
「――アデッサ?」
エッサ国王が声をかけると、ぼうっとしていたアデッサは我に返った。
「すみません、少し考え事を」
「疲れているのだろう? ゆっくり休んでくれ。今日は遅い。明日、警備の者を向かわせよう……うむ、なかなか似合うと思うぞ」
「似合う……ですか?」
「はははは! まあ楽しみにしておれ!」
エッサ国王はそう言って笑うと側近を促し、書類との格闘を再開した。
◆
エッサ国王がアデッサとダフォディルのために用意したのは高台にある貴族の別荘だった。母屋や庭園はもちろんのこと、周囲の道に至るまで、質素であった王城がくすんで見えるほど煌びやかな造り。柱という柱に彫刻が施され、縁という縁は金色、布という布は吸い付きたくなるほど上質、脚という脚はすべて猫足で、メイドがずらりとお出迎えしていた。
何はともあれ、生まれながらにしてお姫様のアデッサはこの程度の豪華さなど気にもとめず、場末の宿屋と変わらぬ様子でズカズカと館へ入り込んでゆく。一方、名家とはいえ庶民出身のダフォディルはあまりの豪華さに目を丸くして肩をこわばらせ、汚したり壊してしまわないようにギクシャクしながらそれに続いた。
二人にはひと部屋ずつ広い部屋が用意されたのだが……到着するなりアデッサはダフォディルの部屋に入り浸り、自分の部屋に入る気配すらない。
そしてよほど疲れていたのか、いつものようにすべてを脱ぎ捨て裸でベッドへ横たわり、すぐに寝息をたてはじめた。
――気をゆるしてくれているのは嬉しいけど……無防備すぎ。
ダフォディルは眠ってしまったアデッサの髪をそっと撫で、羽根布団をかけた。いくら旅慣れているとはいえ、やはりアデッサはお姫様だ。こういう、少し豪華な部屋の方が落ち着くのではないだろうか。柔らかな布団につつまれて、いつもより深い眠りに落ちているように見えた。
開け放たれた窓から海風が部屋に吹き込み、ダフォディルの黒髪を揺らす。
ダフォディルはベッドを離れ窓辺まで歩くと、眼下に星空のように広がるエッサの街灯りと、その向こうに見える黒々とした夜の海をながめた。胸いっぱいに夜気を吸い込み、街の輝きへ『フッ』と吹きかけ、鎧戸を閉める。室内では魔法仕掛けの灯りが揺れていた。
――チョイトでは羽を伸ばせなかったけど、これならばお釣りがくるわね。
ダフォディルは服を脱ぎ、少し戸惑ってから下着も脱ぎすててベッドへ上がり、アデッサの横で半身となった。
そして、起こしてしまわぬようにアデッサのブロンドをかきあげ、額へそっと口づけをする。そのまま首筋から肩へ、肩から背中へと手をまわすがアデッサは目覚めない。ダフォディルはそれ以上は求めずに、アデッサの胸元へ額をつけた。
ふと、自分の腕に刻まれた【鉄壁の紋章】が目に入る。
――あのとき、アデッサから受け取ったこの紋章。
もし、この腕にこの紋章がなかったら……
もし、この紋章が他の誰かの腕にあったのならば……
あなたは……その誰かと、手を繋ぐのだろうか。
ダフォディルはぼんやりと、アデッサが見知らぬ男と手をつなぎ、指を絡めている様子を想像する。
青年のように凛々しいアデッサの笑顔。だが、その視線は、隣に立つ誰かへと向けられている。何もできずに、ただその様子を見守っている自分。
いや、そのまま見守っていられる訳などない。もし、そうなってしまったのであれば、遠く――忘れしまうほど遠く、アデッサから離れてゆくしか、ないではないか……。
他愛のない想像に、涙がこぼれ頬をつたう。いちど涙がこぼれると、涙が涙を呼ぶ。感情の流れをおさえることが出来ない。
自分が世界を救った勇者と、ヤーレンの王女と、こうして隣あっていられる。その理由は、この紋章があるから。二人の絆はそれだけしかない。こうして無防備な寝顔を見られるのも、こうして腕のなかに抱きしめられるのも、すべてはこの紋章があるから……でしかない……。
独り暗い考えに浸り涙する。
そういうのは好きではない、筈だ。
――わたしも、疲れているのかな。
薄暗闇のなか、ダフォディルはぼんやりと天井をながめ、感情の波が去るのを待った。落ち着きと共に睡魔が訪れる。眠りへ落ちる間際に、ダフォディルはもう一度薄目を開き、アデッサの寝顔を見た。
――アデッサ、あなたの正義は脆い。
灰色のものを白や黒だと言い切れてしまう、カトレアやソイヤのような強さを、あなたは持ち合わせていない。
けど、アデッサ。
たとえあなた自身が見失ったとしても、
私の……、私の正義は、あなた。
◆
エッサの某施設。書斎に据えられた大きな机にだらしなく突っ伏す、白い修道着の男が一人。その修道着にあしらわれた赤いライン。
男はのそりと上半身を起こすと大あくびをした。身長は人混みで頭ひとつ出そうなほど大柄。肩幅も広いのだが、体はやや細身だ。
男はしばらくのあいだ、ぼんやりと天井の隅へ、意味もなく視線を巡らせる。すると今度は長い脚を伸ばして椅子を二本脚で立たせ、背をそらせて顎をあげ、自分の真上の天井をぼんやりと眺めはじめた。見るからに暇そうだ。
男が反った姿勢をとったので、中途半端に頭にかかっていたローブのフードがはだけた。黒い巻き毛があらわとなる。やや面長で、ぼんやりとした表情に無精髭。頼りない雰囲気ではあるものの、どこか隙の無さも感じられる。
そこへノックの音。
巻き毛の男は『ああ』とぞんざいに応えると、『失礼します』と丁寧な返事が返る。そして、巻き毛の男と同じ白い修道着を着た男が部屋へと入ってきた。そして――
「支部長、サザンカ僧兵長から伝言です」
と、切り出した。巻き毛の男は天井を眺めたままつまらなそうにつぶやく。
「……あぁ、今度はなんだ?」
「ヤーレンの第十三王女、瞬殺姫アデッサがエッサに来ている可能性がある。見つけ次第確保せよとのことです」
「ふうーん、確保、ねぇ……」
「はい。確保が難しければ殺害もやむなし……と書かれてます。エッサで瞬殺姫をつかまえて、ヤーレンとの同盟にヒビを入れる作戦……だそうです」
「ほぉ……」
まるで興味なし。
支部長と呼ばれた巻き毛の男は弾みをつけ、二本脚で立たせた椅子を深く傾けて机の上へ脚を投げ出した。そしてもう一度あくびをすると、ようやく、少し気の入った声を出す。
「サザンカめ。エッサ支部は『浄化の日』まで大人しくしてる計画じゃなかったのかよぉ。たく、相変わらず面倒くせぇことばかり押し付けやがって」
「あのう、支部長……流石に瞬殺姫が相手となると……」
巻き毛の男は揺らしていた椅子の動きをピタリと止め、鋭い目で睨みつける。
「あーんッ?」
「あ、い、いえ! アデッサと言えば魔王を倒したあいつですよね……現に、ホイサ支部を全滅させ、サザンカ僧兵長さえ――」
男が弁明を始めると巻き毛の男は視線を逸らせ、再び興味を失ったような間延びした声を出した。
「ばーか。テメェ、俺をナメてんのかぁ? サザンカみたいなシロウトと一緒にすんなよ。『瞬殺野郎』がなんだってんだ。だいたいなぁ、魔王ぐらいなら俺にだって倒せたんだぜ?」
「は、はあ……」
「あッ! テメェ信じてねぇな! いいか、俺が怖いのはカトレア様だけだ! 『瞬殺野郎』なんざぁ目じゃねぇんだよ!」
巻き毛の男は興奮して立ち上がった。
「よっしゃ。そんじゃあ正義の味方面をした小娘によーく教え込んでやろうじゃねぇか。
力こそが正義だ、ってな」
巻き毛の男がそういって右手で胸をドンと叩く。
すると、修道着の袖がめくれ、右腕に刻まれた【死神の紋章】があらわとなった。




