隻腕の剣士1
聖歴2026年5月17日(木)
「結希奈――っ!」
突如として現れた靄のようなものに包まれた結希奈は次の瞬間、跡形もなく消え去った。慎一郎が咄嗟に手を伸ばすが、その時にはすでに結希奈はもちろん、靄でさえも跡形もなく消え去った後だった。
一瞬の呆然もつかの間、目の前に立つローブの男に剣を向ける。
「結希奈を返せ!」
しかしローブの男は首元に剣を突きつけられているにもかかわらず、全く動じることはなく、
『ご安心を。お連れの方々は我が主が用意したおもてなしを堪能なさっている頃です』
そしてくるりと後ろを向き、漆黒の中に不気味に瞳が光る顔だけを向けた。
『あなた様には特別なおもてなしを用意させていただきました。どうぞこちらに』
そのまますたすたと歩き始めた。今まで気がつかなかったが、ローブの裾からはトカゲのような太い尾が顔を覗かせていた。
「くっ……」
慎一郎は舌打ちをして〈ドラゴンハート〉を剣に収めた。ここでこのローブの男を斬ってしまっては結希奈に繋がる手がかりを失ってしまうからだ。
ローブの男の後ろに隻腕の剣士がついて歩く姿は一種異様な光景だった。かたや地球に攻め込み侵略しようとしている種族の一員。かたやそれを阻止するために相手の本拠地に乗り込んだ高校生。それらが剣を交えることもなく、言葉も交わすこともなくただ歩いている。
ローブの男は靴などは履いていないのだろうか、ぺたぺたと柔らかいものが石の廊下を踏みしめる音が聞こえる。
ぺたぺた、コツコツ。
そのまま城の中の廊下を歩く。廊下には一定間隔で大きな窓が開けられている。ガラスがはめられていないその窓の向こうには〈ネメシス〉の真っ黒な空と真っ黒な大地が広がっている。今は夜の時間なのだろうが、それを差し引いても暗い。
対照的に城の中は一定間隔で置かれた燭台のおかげで明るく照らされている。燭台のろうそくだけでここまで明るくはできないだろうから、魔法で光量を増しているのだろう。
ローブの男に連れられて幾つかの角を曲がり、そのまま奥へと進んでいくうちに、慎一郎は違和感を覚えた。
城に入ってからここに至るまでの間、このローブの男以外の誰とも顔を合わせていないのだ。ここは敵の本拠地であるにもかかわらず。
どこかに身を潜めているのかもしれないとも思ったが、他人の気配が一切漏れ出てこないことから、本当に誰もいないのかもしれないと思い始めた。
(どういうことだ? 城に入る前はあれほどの軍勢を出して阻止しようとしていたのに……)
魔王ベルフェゴール――と、菊池は言っていた。かつて地球で魔界を率い、人類との六度もの戦いを経て討ち取られたはずの魔族の王。
ヴァースキと戦った奥の部屋で目にしたあの男がそうなのだろう。この奥に待ち構えているのはそういう存在だ。
「何を考えている……」
それは独り言だったのだが、前を歩いているローブの男は自分に話しかけられたと思ったようだ。歩きながら後ろを振り返った。
『何を考えているかなどと、畏れ多い。私はただ王に仰せつかった役割を果たすのみ』
そして再び無言で歩いて行く。
それからいくらか経たないうちに扉の前へとたどり着いた。廊下も広かったが、この扉も庶民である慎一郎は見たこともないほど大きくて豪奢な扉であった。
ローブの男は扉の前に立つとこちらを向き、一礼した。
『魔帝ベルフェゴール陛下でございます』
「まてい……?」
それに男は答えることとなく扉の方に向き直り、扉を軽く押した。
扉はその大きさにそぐわないほど簡単に、そして静かに開き始めた。ゆっくりと扉が開き、その向こうが明らかになってくる。
とても広い部屋だ。城に入ったところのエントランスも広かったが、この部屋はそれに輪を掛けて広い。体育館が縦横二つずつ入るのではないかと思える大きさだ。
部屋の中は城にしては質素であった廊下とはうってかわって精緻で豪奢なつくりになっていた。柱の一本一本、窓の一枚一枚、そしてそこに取り付けられている飾りが恐ろしいほど緻密で手がかかっていることが察せられた。
しかし、そのどれもが地球人である慎一郎から見て不気味という一言で表わされるデザインであった。
部屋の最奥部に一段高くなっている場所がある。高さは三メートルほどだろうか、それなりに高い。入り口から伸びる赤いカーペットはまっすぐ伸び、階段を経由してその部分へと至る。
そこには背もたれの高い、黄金の椅子が置かれていた。肘掛けには小さな髑髏があしらわれている。
玉座だ。
そこに足を組んだ一人の男が腰掛けていた。
『魔帝ベルフェゴール陛下でございます』
階段のすぐ横まで移動した男は再びそう言った。そして玉座の方を向いて膝をつき、
『陛下、お連れいたしました』
その言葉を聞いた男は鷹揚に頷き、口を開いた。
『よく来た。竜王メリュジーヌ』




