窮鼠猫を噛む4
徐々に意識が覚醒していく。最初に知覚したのは身体を包み込む柔らかい感触。続いて肌を撫でる心地よい風。
閉じたまぶたの向こうから明かりが差し込んでくる。初夏の爽やかな陽気。
目を開くと一面の白。自分が横たわっているベッドとシーツ、風に揺れるカーテンも壁も天井も皆白い。
見覚えはあるが見慣れてはいない部屋の様子。微かに残る薬品の匂い。
「…………!!」
慎一郎はがばりと起き上がった。白いベッドに白いカーテン。窓から差し込む陽光。今まで籠もっていた地下迷宮とは何もかも違う景色。
ここは天国か……と考え、即座に否定する。
『目が覚めたようじゃな』
頭の中に声が響いたかと思ったら、ベッドの端に腰掛ける銀髪の美少女の姿が現れた。メリュジーヌが映し出す映像の姿だ。
「おれは、いったい……そうだ、あのネズミは? 地下迷宮から出られたのか?」
『今ここにお主がおるということは、ネズミも倒したし、迷宮からも出られたと言うことになるのぉ』
まるで他人事のような物言いにメリュジーヌを睨みつけると、メリュジーヌはやれやれと頭を振ってため息をつく。
『怒るな。ネズミを倒したのはお主じゃ。覚えておらんか?』
そう言われてみれば……。ネズミの首に剣をたたき込んだのは覚えている。
『その後、勢いの止まらぬネズミの身体が勢い余って崩れた部分をぶち破り、無事外に出られた。……そうじゃ』
そうじゃ?
『うむ。恥ずかしながらわしも気を失っておったのでな。気がついたのは今し方じゃ』
忘れがちだがメリュジーヌの実体は慎一郎がいつも持っている〈副脳〉ケースの中だ。今もベッドの脇に置いてある。細かい傷や泥がついているが、へこんだり大きな損傷はない。その辺りは耐衝撃性に優れた専用ケースの面目躍如といったところであろう。
「気がついたか」
カーテンの間から姿を現したのは養護教諭の辻綾子だ。いつものように眠そうな顔をしている。実際眠いのだろう、大きなあくびをひとつ。
「まったく……。栗山達が泥だらけのお前をここに連れてきたときは驚いたぞ。細川を案内してやれと言ったが、いったいどこを案内していたんだ? しかもこんな時間まで」
返答に困ってあははとお茶を濁していると、綾子の『こんな時間まで』という言葉が気になった。
視界の隅に表示してある基本魔法アプリ――慎一郎が自分の脳だけで使用できる使える数少ない魔法でもある――のひとつ、時計アプリに意識をうつす。
時計アプリには次のように表示されていた。
聖歴2026年5月10日(日) 10:32
「十時半!? いや、日曜日!?」
驚きのあまり、思わず声に出してしまった。
「そうだ、日曜だ。お前は一晩中意識がなかったんだぞ。おかげで帰りそびれた」
そしてまたあくびをひとつ。もしかすると一晩つきっきりで看護していてくれたのだろうか。
「ま、帰りたくてもできないんだけどな……。ふわ~あ」
そう言うと頭をボリボリと掻きながら保健室から出て行った。
「……? どういうことだ?」
『さあ、わしも知らん。そういえば、外が騒がしいが……』
基本的に日曜は対外試合などがない限り登校禁止だ。ゆえに日曜に登校している生徒はそう多くはない。にもかかわらず、日曜の、しかも午前中から人のざわめきが聞こえることに違和感を覚える。
ベッドから起き上がる前に身体の様子を確かめる。見た目外傷は見当たらない。手足の感覚はしっかりしている。左右の手をゆっくり握って開く。異常なし。
『地下迷宮から運ばれてくる間じゅう、ユキナが回復魔法を施してくれたそうじゃ。あの娘、なかなか見所がある』
ベッド脇に用意された真新しい制服のシャツに袖を通すとき、メリュジーヌがそんなことを言っていた。あとで結希奈にもお礼をしないと。もちろん、徹やこよりにも。
「よし、行こう……ん?」
『どうした?』
「〈念話〉だ。……徹から?」
脳内に〈念話〉の着信音が響く。視界の隅に表示される情報窓には『栗山徹』と書かれていた。
「もしもし?」
『慎一郎か? 気がついたようだな、よかった』
「迷惑を掛けたみたいだな。すまない」
『気にするなって。俺も迷宮ではお前に助けられたからな』
徹は綾子から慎一郎が目覚めたことを聞き、連絡してきたのだという。
「というか徹。お前なんでまだ学校にいるんだ? 早く帰らないと――」
〈念話〉で直接交信できる範囲は半径2㎞ほどだ。それ以上の距離の相手とは通信会社の設備を使わなければならない。今、徹は直接〈念話〉で話しかけてきている。学校の前まで来て話しているとも考えられるが、校内にいると考えるのが自然だろう。
『それなんだけどさ……。ああ、説明するより実物を見た方が早いな。ちょっと校門まで来てくれ』
それだけ言うと〈念話〉は切れてしまった。
「どういうことだ?」
『わしにもわからぬ。外の騒ぎと関係あるかもしれんが……』
そのまま手早く制服を着て、保健室を出た。
校舎から出て、校庭を横切り、徹がいるという校門へと向かう。日曜の校内には人影もなく、普段の活気ある校内とは打って変わってまるで異世界のようだ。
校庭にはいつのように練習に励む運動部の生徒達の影はない。しかしその向こう、校庭の前に数十人の人だかりが出来ているのが見える。すべて北高生のようだ。
「慎一郎!」
やや小柄の男子生徒が声を掛けてきた。顔に絆創膏を貼っているが、徹は元気そうだ。
「もう起きて大丈夫なの?」
地下迷宮での巫女服からいつも見慣れた制服に着替えた結希奈も一緒だ。少し疲れているようにも見えたが、それ以外は大丈夫そうだ。慎一郎は無事な二人の姿を見てほっとした。
「ああ、おかげさまで」
慎一郎は結希奈に回復してくれたことについて礼を言った。
「そ、そんなんじゃないわよ! あれはただ……そう、いろいろ助けてもらったし、あんた全然動かないから、それで……」
結希奈は真っ赤になりながらあたふたと言い訳した。
「そ、それよりも……あれ! あれ見てよ!」
結希奈は誤魔化すように人だかりのほう、校門を指さす。
「?」
慎一郎は人混みをかき分け、校門へと向かった。徹と結希奈も後を着いてくる。
「はいごめんよ、ごめんよ。あ、キミ茶道部の一年生だよね。今度お茶ご馳走してよ」
徹に案内されて進んだそこには――何もなかった。
「何もないが……」
「まあ、そう思うよな、普通は。慎一郎、ここから先に進んでみろよ」
言われるままに校門へと続く道を行く。しかし三歩と歩かぬうちに――
「!?」
がん、と鈍い音と頭に痛み。何かに頭をぶつけたのだ。
「な、なんだ?」
手を伸ばし、ぺたぺたと辺りを触る。正面、三十センチほどの所に見えない壁があるのを感じる。左右、上方ともにどれくらい続いているか見当もつかない。よく見ると周囲の生徒達も皆一様に見えない壁をぺたぺたと触って壁の存在を確認している。
「な。帰りたくても帰れないだろ? 昨日からずっとこんな感じだ」
『なんじゃこりゃぁぁぁぁっ!』
メリュジーヌの一部の人間にしか聞こえない悲鳴が響き渡った。




