黒猫のアラシと二度の嵐3
聖歴2026年8月13日(木)
猫は十分な食事と乾いた寝床、そして安心できる環境を得てそこを自分の居場所と規定したようだ。
結希奈に『アラシ』と名付けられたその黒猫は、持ち前の好奇心から高橋家を我が物顔で歩き回り、瞬く間に女子生徒達のアイドルに、そして唯一の“男”の住人となった。
時々家の中のものをひっくり返したり、洗濯物をぐちゃぐちゃにしたりして怒られたりもしたけど、その愛嬌に女子生徒達は皆アラシにメロメロだった。
「アラシ、ご飯だよ~」
アラシの朝ご飯を用意するのは結希奈の仕事だ。毎日の探索のついでに作っていたアラシの朝食は、いつしかアラシの朝食のついでの弁当になってしまっていたが、メリュジーヌに一瞬で看破されてからはどちらにも手は抜けなくなっていた。
夏の朝、まだそれほど気温が上がらないうちにアラシは自分のテリトリーでもある高橋家の周りをパトロールしている。結希奈がアラシを呼ぶとどこからともなく彼はやってきて、結希奈の足元で「にゃあ」と鳴いた。
「おはよう、アラシ」
結希奈の足元にまとわりつくアラシの頭を撫でると、アラシは喉をごろごろ鳴らしながら結希奈の手に頭を擦りつけてきた。
しかし、それもすぐに飽きたのか、アラシはちょこんと行儀良くおすわりをしてじっと台の上にあるアラシ専用のお皿をみつめている。
「はい、ご飯だよ。いっぱい食べてね」
結希奈が嵐の前に皿を置くと、アラシはそれが置かれるよりも早く皿に飛びついて勢いよく餌を食べ始める。この勢いの良さは最初に拾ったときから全く変わらない、メリュジーヌも真っ青な食べっぷりだ。
「早く大きくなるんだよ」
食事に夢中なアラシの背中を結希奈が撫でると、アラシは迷惑そうに身体をよじり、「うるる」と唸った。
「あはは、ごめんごめん」
結希奈は笑いながら謝るが、その手は止まらない。アラシがかわいくて仕方がないのだ。
今まで結希奈は動物を飼ったことがなかった。神社という場所柄ということもあるが、今まで動物を飼いたいという気持ちにすらなったことがなかった。
こんなにかわいいなら、もっと早くから飼えば良かったな……。
そんなことを考えながら食事中のアラシの背を撫でる。アラシはもう抗議しても無駄だと悟ったのか、食事に夢中になっているからなのか。されるがまま食べている。
そんな結希奈にも、ひとつ困ったことがあった。
「おはようございます、結希奈さん」
「巽さん」
台所に入ってきたのは巽だ。高橋家で一番の早起きのこの巫女は、朝一番に庭の掃除をしてから朝食を済ませる。この時間に戻ってきたということは、庭の掃除を済ませたのだろう。
「おはよう、巽さん」
アラシを撫でながら言った。そんな結希奈とアラシの様子を見て、巽も笑顔で、
「影之進もおはよう」
「もう! この子は影之進じゃなくてアラシだってば! 巽さん、いい加減覚えてよ!」
「えぇ? でも、この子には影之進という名前の方が似合ってると思いますけど……」
結希奈のアラシに関する困りごとはこれであった。
誰もこの子猫のことを“アラシ”と呼ばず、皆好き勝手に呼んでいるのだ。
巽は“影之進”と呼んでいるし、別の女子は“ニャー先生”とか“チビ”とか、“クロ”とか、変なのになると“グリモワール三世”などという、由来不明のものもある。
「そんな忍者みたいな名前、かわいくないよ……。ね、アラシ」
結希奈がアラシに話しかけると、すでに食事を終えて皿を舐め回していたアラシは結希奈の方を向いて「にゃー」と鳴いた。これは結希奈に同意してるのか、もっと餌を寄越せと言っているのか。おそらく後者であろう。
「ふふふ。かわいいですね」
結希奈の腕にじゃれついているアラシを見て、巽が目を細めている。
「竜人でも猫はかわいいの?」
巽はこの〈竜海神社〉建立のきっかけとなった“鬼”を封じた伝説の竜である。それから四百年、巫女として人の姿を取り、この地を見守ってきたのだという。
「竜の姿だったときは違いましたけど、人の姿を取るようになってからは好みも人に似てくるみたいですよ」
黒猫の様子を見ながらおっとりした様子で話す巽は普段の凜々しい姿とも、地下迷宮で“寅”の〈守護聖獣〉と対峙したときの決意に満ちた表情とも異なる、優しそうな顔をしていた。
「そうなんだ……」
人と好みが似てくるということは、もしかして……。
そんな考えが頭に浮かんだ。
「ねえ、巽さん。巽さんには……」
好きな男の人っているんですか? そう聞こうとしたが、途中で突然恥ずかしくなって言葉が出なくなった。そのままうつむいてしまう。きっと顔が赤くなっている。恥ずかしくて巽の方を見ることができない。
「……? どうしました? 私が何か?」
そう問われて、咄嗟に思い浮かんだ言葉を投げかけてみた。
「この子、“猫”の〈守護聖獣〉だったりして」
思わず口を突いて出た疑問に巽はくすりと笑った。
「猫は十二支ではないですから」
巽は猫を撫でながら「ねー」と話しかけていた。
「私が結界を作るときに十二支を選んだのは、この地の人々の文化と深く結びついているからです。意味のある組み合わせというものは魔術的に大きな力をもたらします。だから、猫は〈守護聖獣〉にならなかったんです」
「へぇ……」
「この子は紛れもない、ただの子猫ですよ」
巽の言葉がわかっているのかいないのか、アラシは「にゃー」とひと鳴きして、結希奈の膝の上に乗った。そしてそのまま丸くなる。
「ふうん……」
生返事をしたが、でも、と言葉を繋いだ。
「確か十二支って、昔神様に呼ばれたときに集まった順番だって聞いたことがあるよ」
「へぇ、そうなんですか……?」
どうやら、この昔話を巽は知らないようだ。
「牛は歩くのが遅いから早めに出て、一番に着いたと思ったら、その頭の上に乗っていた鼠にひょいと一番乗りを取られちゃったとか、十二匹の動物たちごとにお話があるの」
「ふふ、人間は楽しいことを考えるのですね」
「それでね、猫は一日後の集まりだって鼠に嘘を教えられたせいで十二支に数えられなかったんだって。猫はその時のことを今でも怒ってて鼠を追いかけるっていう話」
「そうなんですか……。鼠が悪さをしなければ猫が十二支に入っていて、この子が〈守護聖獣〉だったかもしれないですね」
そこで結希奈が「あ」と何かに気がついたように声を発した。
「でも、あたし猫のモンスターと地下迷宮で戦えないよ。今の十二支でよかった」
「私もです」
ふふふ、と結希奈は巽と笑う。
その時、女子生徒達の声が聞こえてきた。そろそろ朝食当番が起き出してくる時間だ。ここにいては邪魔になる。
「それじゃあたし、部屋に戻るね」
結希奈が立ち上がるとアラシはひょいと膝から降りて結希奈を先導するように台所から出て行った。すれ違う女子達からめいめい別の名前で挨拶される。
「アラシなんだけどなぁ……」
そうは言うものの、どの名前でも呼ばれるたびにアラシは反応して「にゃー」と答えてしまう。おそらくこれはもうこのままなんだろう。
「あたしも準備しなきゃ」
アラシのあとをついて行くように台所を出て玄関前まで来たとき、外からこよりが入ってきた。
「おはよう、結希奈ちゃん」
「おはよう、こよりちゃん」
こよりも朝の日課のランニングと花壇の薬草畑の手入れを終わらせて戻ってきたのだろう。肩から掛けたタオルで汗を拭いながら靴を脱いで下駄箱に片付けた。
「遅くなっちゃった。今シャワー浴びてくるから、少し待っててね」
「うん、あたしも朝ご飯まだだから、あとで一緒に」
「うん、ありがと」
靴を脱いでこよりは奥の風呂場へと向かっていく。その途中でちょこんと廊下の隅に座っていたアラシを見つけた。
「ばいばい、ラッシーちゃん」
こよりはアラシに手を振りながら奥へと歩いて行った。アラシはそれにも反応して「にゃー」と答えた。
そうだった。こよりはアラシのことを“ラッシーちゃん”と呼ぶのだった。アラシだと何度教えても「それならラッシーちゃんだよね」と呼び方を変えようとしない。
もう笑うしかない。
肩をすくめる結希奈。階段の途中ではいつの間に移動したのか、アラシがこちらを見ていかにも「早く来い」と言っているようだった。