王城
「アリシア? どうした?」
イリシオスが、心配するように少女の顔を覗き込む。アリシアが、迷うように面を上げ、怯えるように足を一歩引いた時、
「イリシオス! 今日まで城の前庭を開放してるって!」
いつの間にかとっとと先に進んでいたアフィの元気な声が、本人よりも一足先に戻ってきた。
「即位記念祭だからって、一般市民も入っていいって。行ってみようぜ!」
「こらアフィ! お城なんて、そう気軽に行くものじゃないのよ。遠くから見るだけでいいでしょっ」
「って、ティスが珍しく渋るんだ。いっつも真っ先に飛んで見に行くくせに」
歩く真似もやめ、ぴゅーっと飛んで追ってきたティスを親指で指して、アフィが文句を垂れる。どうやら近くで噂話を聞いて、またひと悶着してきたあとらしい。
「イルも、入らない方がいいと思うよね?」
イリシオスの隣に戻ってきたティスが、同意を求めるように顔を覗き込む。しかし紫水晶の瞳が期待するような答えは、残念ながら返されなかった。
「いや。丁度いい機会だ。行こう」
「えぇー!?」
「やった!」
オレの勝ちっ、とアフィが拳を握る。と同時に再び城へ向けての道を走り出す。それを怒りながら追いかけるティスと、悠揚と歩き出すイリシオス。
その背を見送りながら、アリシアが続く一歩を踏み出せないでいると、不意に目の前に影が落ちた。
「!」
一瞬、イリシオスが戻ってきたのかと思って、アリシアは慌てて顔を上げた。だがそこにいたのは、まるで温度の違う明るい笑顔だった。
「アリシア、行こうぜ」
アフィが、手を差し出して促す。その顔と手を交互に見比べて、アリシアはけれどまた一歩足を引いていた。
道の向こうから、イリシオスとティスがこちらを観察している視線を感じる。口を開いて、閉じ、そしてまた開こうとした時、
「怖いのか?」
「!」
唐突にアフィがそう聞いた。アリシアが何かを言う前に、更に続ける。
「そう言えば、ティスがそんなこと言ってたな。でも一人でここで待ってるのも嫌だろ?」
そして言うが早いか、戸惑うままのアリシアの手首を掴むと、そのまま走り出した。
「オレが手を繋いでてやる。絶対放さないから!」
「あっ」
アリシアはそれだけ言うのが精いっぱいで、気が付けば引きずられるように坂道を駆け上がっていた。
少しずつ人が増え始め、都市を囲う外郭よりも新しい城壁がやっと途切れた頃、その威容は現れた。
ひしめく観光客を迎え入れてもまだ広大な城壁内に、どこまでも整然と刺繍花壇が広がっている。
幾何学の庭園をドレスのように纏って建つその城は、古式ゆかしい列柱と三層構造の正面を持ち、見渡す限り全ての石材や壁のいたるところに浅浮彫や渦巻き装飾が施されていた。
その手の込みようはしかし派手というよりも繊細で、アフィは嫌いではない。
だがそんな造形への感想よりも、アフィの頭では一つのことが占めていた。
(似てる)
それは、奇妙な既視感だった。
アフィは、王都にいた記憶などない。あまつさえ城など、見たことすらないはずだ。
けれど知っている、と思った。
この本館の造りも、左右に広がる翼棟も、記憶にある。正面入り口を抜けて広がる広間に、両手を広げても全然足りない大階段、天井画には古代神話の世界を再現しただまし絵が広がっているはずだ。
(ここが……)
半ば存在自体を疑っていた城。アフィがずっと忍び込んで救い出せと命じられてきた、救世主のいるカロソフォス城なのか。
「あの中に……」
気が付けば体が震え出しそうで、思わずアリシアの手を握っていることも忘れて両手をきつく握り込む。いつの間にか、掌にはぐっしょりと汗をかいていた。
「……?」
「アフィ?」
アリシアが無言でアフィを窺い、居心地悪そうに身を引いていたティスが心配そうに呼びかける。
だがアフィが振り返って見つめたのは、どちらの少女でもなく、遅れてやってきた青年だった。
「あの中に、救世主がいるのか」
城の入口で衛兵と何やら話してきたらしいイリシオスに向けて問う。
けれどそれは、十五歳のアフィのものというよりも、名前すら忘れてしまった八歳の少年の、渇望のような独白に近かった。
『こんな冷たくて暗くて狭い場所に閉じ込められているのは、我らが救世主を奪った国のせいだ』
『救世主さえ取り返せば、お前は自由になれるのだ』
毎日毎日、かじかむような石牢の中で、眉間に深い皺を刻んだ男にそう言われ続けた。顔も知らない予言者のために、泣きながら様々なことを覚えた。
全ては、この城の中に閉じ込められた、哀れな救世主を救い出すために。
けれどそれに返事をしたのは、イリシオスではなかった。
「あんたもあの宗教のひとか?」
「!」
ふらりと近寄ってきたのは、前庭を好き勝手歩き回る観光客の一人だった。驚くアフィは気にせず、その男は勝手に話し続ける。
「救世主って言えば、新興宗教の導きの友愛だろ? 多いよなぁ、ここら辺。町でちらほら見かける白い祭服は、全部そうなんだろう?」
「……オレもさっき聞いたばっかりなんだ。そんなに多いのか?」
他人には見えないティスがそっとイリシオスの側に戻ったのを確認してから、アフィが自身も観光客に見えるように問い返す。
男は会話相手を得たことが嬉しいらしく、隣町から来たことや、白い祭服を着た人間が道行く人々に説法していたことを話してくれた。
「内乱のせいで一時期は随分数が減っていたらしいけどな。ここ数年でまた増えたんだって。神様との契約を守って清く正しく生活して、敬虔な祈祷者になれば、救世主が現れて神の楽園が地上に出現するって」
「胡散臭い」
「は?」
「って誰か騒いだりしないのかな?」
声の調子をころりと変えて、アフィは無知な田舎者のように愛想よく笑う。一度目を瞬いた男はけれど、すぐに「うーん」と思い出すように首を捻った。
「そういえば、見かけなかったなぁ。それだけ浸透してるってことだよな。予言者様はなんでも未来を視てきたかのように話すというし、街頭では祈祷者らしき人がお札を持ってて、魔法みたいなことをしてたのは説得力あったもんなぁ」
それは恐らく『恩寵』と呼ばれる呪符だろう。祈祷者になると予言者から呪符を授かることができ、予言者の代行者としての力を持つ。
呪符には古代の魔術か何かが込められているらしく、善なることに使えばその者を繁栄に導く、というのが導きの友愛の言い分だ。
(ひとを襲うのは『善なること』じゃないけどな、絶対)
コリアスの町で受けた襲撃の第一波も、恐らくその呪符だ。しつこい残党がいる程度だと思っていたが、復活していたのか。
(この町には、奴らの拠点があるのか)
今まで人探しと称してあちこちの町や国を放浪してきたイリシオスだが、思えばアルワードの王都にだけは一度も近寄なかった。その危険を冒すくらいには、手掛りがないということだろうか。
国内で最も大きく美しく整えられた庭園はもはや見向きもせず、アフィは自身の思考に沈み込む。考えれば考える程、連中のことが忌々しく頭を占めた。
額の痣が、ずくずくと痛む。
(今も、あいつらの目的は救世主を連れ出すことなんだろうか)
だが、連中が王都を悠々と闊歩している現状を見れば、何か仕掛けているとは考えづらい。
「でも魔法と言えば、今はパゴニス神教国の王族ぐらいしか使えないものでしょう。選民思想が強いあの神教国が、そんな変な宗教を容認しているとはとても思えませんがね」
あやうく八歳の頃の思考に戻りかけたアフィを現実に引き戻したのは、代わりに男に答えたイリシオスの声だった。珍しく外面を使っている。
「やっぱりそこだよなぁ。下町で見かけた時も何やらパゴニスの兵隊さんに声かけられてたし、注意されてたのかもな。危ない危ない。こういうのは話半分に聞いとかないと」
それじゃあ、と男が手を上げて城を後にする。
その後、最初に声を上げたのは、少し離れた所でアリシアに寄り添っていたティスだった。
「ああやって、使える信者を増やしているのね。……最低」
ティスには珍しく、吐き捨てるように小声で呟く。それだけでも、ティスがあの宗教団体を嫌悪していることは見て取れた。
しかし目の前のイリシオスからは、そんな感情も読み取れない。
真っ直ぐに見下ろしてくる碧色の瞳がいたたまれず、アフィはふいと視線を外す。追ってきたのは、呆れたような小さな溜息だった。
「あそこに、王女はいないぞ」
「はっ?」
それは、アフィにすれば青天の霹靂だった。
四歳からの四年間、この城にいる王女を誘拐するためだけに生かされてきたのに、それがもういないと言われても、湧くのは戸惑いばかりだった。
イリシオスについて各地を回り、探していたのは指輪の持ち主――本当の母親だ。決して、救世主ではない。
けれどそれがいないと言われても肩の荷は少しも下りない。むしろ考えるのは、最悪の事態だった。
「まさか、連中はもう救世主を手に入れたのか?」
だがこれに返されたのは、当たり前の指摘だった。
「だったら、お前が追われる必要はないはずだろ」
「あ、あぁ、そうか」
アフィは、あの石牢の中で、道具だった。救世主を得るためだけの道具。
救世主を得た奴らが、それでもアフィを捕まえる必要があるならば、あんなにも酷い仕打ちをされることはなかったはずだ。
(オレは、道具なんかじゃない)
噛み締めるように胸中で呟き、服ごと指輪を握り締める。その感触だけが、アフィの荒ぶる気持ちを鎮めてくれる。
「なら、救世主は――その王女は今どこにいるんだよ」
一度大きく深呼吸をしてから、もう一度イリシオスを見上げる。その表情が、どこか痛ましげに歪められた、と思った時、
「それは……」
そう、躊躇いがちに声を上げたのは、ティスだった。自然、そちらに視線を滑らせる。けれどティスを見たはずの目は何故か、アフィに手を握られたままのアリシアの前で止まってしまった。
先ほど城に入る前に見た僅かな怯えなどまるで嘘だったかのように、濃紫の瞳は何も映していない。
「ア――」
アリシア、と名を呼ぼうとした。けれどそれを遮るように、イリシオスが口を開いた。
「さぁな」
それが先程の問いに対する答えだと理解するのに、アフィは少しの時間を要した。その間にイリシオスは歩き出し、ティスと、アリシアもまた従順にその背についていく。
アフィは、背後のカロソフォス城を最後に一度だけ眺めやると、迷いを断ち切るように走りだした。