王都
結局、襲われたのはコリアスの町の一回だけで、旅は順調に進んだ。
そして。
「あれが王都アセノヴグラトかぁ」
緑色に輝く田園や葡萄畑が織りなす風景を横目に、なだらかな小高い丘を越えてやっと、その城壁は視界に現れた。
五年前に終結した内乱のせいか人口増加のせいか、あちこちに新旧色合いの違う城壁が続く外郭には、十以上の大小の円塔があり、それを繋ぐ城壁が環状に丘の頂を巡っている。
その中には数え切れないくらいの屋根がひしめき合い、複雑な色の波を織りあげている。その北寄り中央の一段高くなった場所には、象徴のように大きな宮殿が見えた。
「やっぱり都会は規模が違うな」
「えー、田舎者ォ~」
アフィが素直に感心すると、ティスがここぞとばかりにぷぷぷっと笑う。かっちん、とアフィが応じて走り出すのは最早通常で、二人の追いかけっこを見送りながら、イリシオスとアリシアはゆっくりと城門を目指して歩き出す。
だが記憶にある限り初めて王都を訪れたアフィの驚きも当然で、昨日から始まった祭りのせいもあり、遠目にも城門や城外地区の賑わいは見て取れた。
実際、双塔式の城門に辿り着いてから城壁内に入ることが出来たのは、小一時間もしてからだった。
待っている間の噂話を総合すると、どうやら、北の隣国パゴニス神教国の犯罪者か何かが近くに逃げ込んでいるらしく、その検問も兼ねていたかららしい。
それはともかくとして。
「こうやって見ると、やっぱり王都って広いよねぇ」
「腹減った! なんか食おうぜ!」
「色々懐かしいね! まともに入るのは、もう七年ぶり?」
「あっちから美味そうな匂いがする! あっちの通り行こうぜ!」
「この通りも変わってないし。でもお祭りだからやっぱり人出がすごいね」
「肉がいい! ここ最近ずっと野宿と保存食ばっかだったから、新鮮な肉が食いた――」
「うるっっっさーい!」
稼ぎ時とばかりに両側に並ぶ露店と人混みのど真ん中で、三人にしか聞こえない怒声がやっとアフィの口を黙らせた。
「ひとがさっきからイルとの素敵な思い出に浸ってるってのに、横で肉肉って飢えた獣みたいにぃ!」
人混みから飛び上がってアフィを見下ろしながら、ティスがぷんすか激怒する。
「あたしは! イルに! 話しかけてたのに!」
「仕方ねぇだろ! アリシアの手料理がどんなに上手くったって、素材が一、二個しかなかったら誰だって飢えるって!」
「知らないわよ!」
「鍛え方が足りねぇな」
往来を行き交う観光客の怪訝な視線にも構わず、アフィが切々と己の腹と舌の窮状を訴える。だがティスにはそもそも食事が必要ないし、イルに至っては味覚が麻痺しているとしか思えないくらい拘りがない。
「なぁ! アリシアも肉、食べたいよな?」
唯一の味方を得るため、アフィはずっと無言で人混みに抗っていたアリシアを振り向いた。
三人の視線が集中する中、アリシアははたと三人を見回す。そして、
「…………。食べたい」
ぽつりと小さく呟いた。
塊の豚肉を大きめに切り分けて串に刺し、炭火でじっくりと焼き上げた串焼きは、口の中の涎を全て奪いそうなほど香ばしい匂いを放っていた。
アフィは自分の分を露店の主人から受け取ると、他の二人を待たずに勢いよくかぶりつく。
「うめぇ!」
その横で、イリシオスも二本の串を受け取り、通行の邪魔にならない壁際に身を寄せてから、一本をアリシアに手渡す。アリシアは、イリシオスが食べるのをじっと観察してから、恐る恐るというように自分の串にかじりついた。
「アリシアの気遣いに感謝しなさいよ!」
その頭上ではティスがまだぷりぷりと怒っていたが、肉欲求が満たされたアフィにはもうどこ吹く風だった。
「次はあっちの店にしよう!」
「こらー! ひとの話を聞きなさいって!」
そうしてアフィが五つの露店の肉料理を堪能する間、アリシアは無言であむあむと一本の串を平らげた。
「美味かったか?」
肉にがっつくアフィを眺めながら、イリシオスは隣に並んでいたアリシアにそう声を掛けた。
「…………」
アリシアはイリシオスを真っ直ぐに見上げると、こくり、と首を縦に振った。その瞳は心なしか今までで一番きらきらと輝いているように見え、イリシオスは満足そうに頷く。
「それは良かった」
「良くなーい!」
それに反論したのは、アフィの食欲に見切りをつけて戻ってきたティスだった。
「アフィの奴、イルが稼いだお金で散々食べ漁って!」
「あいつも程ほどに稼いだ。こんな時くらい、許してやれ」
道中の路銀は、野盗狩りをはじめとする万屋の体で稼いでいた。その半分以上は荒事で、イリシオスは剣の実践に丁度いいからと、いつもアフィを真っ先にけしかけていた。それで死にかけたのも一度や二度ではないのだが、そのせいかアフィの食への欲求はいつも爆発していた。
「食った食った! アリシアも食ったか?」
「……うに」
やっと満足して戻ってきたアフィの問いに、アリシアが変な声を上げて答えた。
どうやらアリシアが「うん」と頷くのと、その口元をイリシオスがさりげなく布で拭うタイミングが重なったためらしい。
「…………」
「…………」
突然の可愛さに、一瞬押し黙るアフィとイリシオス。
「さ、さぁ、行くか!」
「顔が赤いわよ?」
「うるせっ」
ティスが茶化す声に簡単に翻弄されるアフィ。それに溜息を吐きながら、イリシオスもアリシアを促して歩き出す。
「さぁさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」
「王都アセノヴグラトに来て、うちの店を見ていかなきゃおのぼりだよ!」
食欲が満たされれば、左右から途切れることなく流れ込んでくる呼び込みの声が、人混みの喧騒を割ってどこまでも響く。
「このパエストゥム王国産の刺繍を見ていって! 気の遠くなるような細かさ、絢爛豪華な配色、上町の貴族様も御用達の一級品だよ!」
「うちの銀細工は特別だよ! ヴェルギナ王国の職人がイチから手掛けた逸品だ! ここでしか手に入らないよ!」
肩を寄せ合うようにひしめく民家の壁にそって、元気な露店がどこまでも伸びている。都市の外周は下町と呼ばれ、特に庶民が多く、内郭に囲まれた上町と呼ばれる貴族街とは活気が違う。
それでも、今日ばかりは貴族街も一様に賑わっていた。その理由は。
「一昨日は、王様が即位五年を迎えたお祝いをしてたらしいぞ」
イリシオスの先導で緩やかな坂を進みながら、アフィが訳知り顔で言った。ティスがイリシオスの横から首だけで振り返る。
「何でそんなこと知ってるの?」
「肉屋のおっちゃんに聞いた」
「そんなことだと思った」
「ティスには言ってねぇよ」
再び始まった二人の口論は軽やかに放置して、イリシオスは後ろのアリシアの隣に並ぶ。
下町から中心へと進み、旧城壁の名残である塔門をくぐると、先程までの喧騒は僅かに緩む。往来も半分程度になり、代わりに白地に青色の縁取りをした前合わせの軍服を着たパゴニス神教国の神兵や、見慣れない白い祭服を着た人間が目に留まった。
人々の話す内容も、祭りのことから昨日の記念式典や、パゴニス兵に対する意見に代わっている。それらに聞くともなく耳を傾けながら、イリシオスは僅かに声を落として隣に呼びかけた。
「アリシア。七年前の内乱のことは知ってるか?」
内乱、という言葉に、アリシアの肩がぴくり、と跳ねる。その強張った白い頬を隠すように、アリシアはこくりと頷いた。
「……少しだけ」
「先代の国王が急死した時、王家には行方不明の王子の他には、八歳になる王女しかいなかった。だが教会は王女の継承権を認めず、唯一の王弟も亡くなっていたから、その息子である三歳の甥と、西の隣国パエストゥム王国に嫁いだ王姉が王位請求者として上がったんだ」
だがパエストゥム国王が両国の君主として力をつけることを恐れた東の隣国ヴェルギナが、王妃の故国であることを理由に前国王の甥を支援した。静かに始まった継承戦争は次第に泥沼化し、二年も続いた。
その内乱を終わらせたのは、北の隣国パゴニス神教国だった。
パゴニス神教国はその長い歴史の中で、何度も他国との政略結婚と半鎖国とを繰り返してきた。そして内乱が始まる前年にも、王妹の一人娘に前国王の従弟を夫として迎えていたことを理由に、前国王の甥を支持することを表明したのだ。
「元々、百年程前まではアルワードとヴェルギナとパエストゥムは一つの国だった。パゴニス神教国にとっては、揉めて潰し合った結果再び三国が統一されるよりは、今の状態を維持させる方が安全だと考えたんだろう」
「じゃあ、今の国王は」
「前国王の甥だ。即位時にはまだ五歳だったから、今年で十歳になるはずだ」
「十歳……」
「さすがに親政をするにはまだ幼すぎるから、政治のことはほとんど母親が摂政として取り仕切っているはずだがな」
「国王の、母親」
珍しく積極的に尋ねたアリシアは、噛み締めるようにそう繰り返した。その横顔を黙って見詰めながら、イリシオスは言葉を続ける。
「内乱が終わってまだ五年だが、国としてはもう十分建て直したことを見せつけたくて、即位記念の祝いをしたんだろうな。もしかしたら、憂いも片付いたのかもしれない」
「憂い?」
「前国王の王妃と、その王女だ。内乱が激化した頃にこっそり亡命したらしいが、王母はずっとその抹殺命令を出していたという噂がある」
この言葉に、アリシアは明らかに動揺した。整った白貌は蒼褪め、その小さな唇は小刻みに震えてすら見える。
憂いが片付いた、それはつまり。
「殺したの、ですか」
初めて感情が現れたかのように、アリシアの声は震えていた。射るような烈しい眼差しで長身のイリシオスを見上げ、息を呑むように答えを待っている。
イリシオスはそれを亜麻色の前髪で隠したバンダナの下から十分に観察してから、「さぁ」と答えた。
「それを知っているのは、王母と、王母からの密命を賜った暗殺者くらいだろう」
「……それって――」
アリシアが、濃紫の瞳を大きく見開いて震える唇を押し開く。
けれど言葉はそれ以上続かず、視線は弱々しく彷徨った。