果たされた約束
「やはり、ご存知でしたか」
男の声に、エイレーネはハッと我に返った。一瞬、今がいつの時代のどの場所なのか分からなかった。
けれど次の言葉に、エイレーネはやっと状況を飲み込んだ。
「あなたが殺したのですか?」
「!」
その問いが酷い侮辱であると、エイレーネは真っ先に理解した。それが男の意図の外のことでも、エイレーネには我慢ならない問いであることには変わらない。
「違います」
怒気もあらわに否定する。と、意外にも男は「そのようですね」とあっさり引き下がった。
「国境付近の川縁で引っかかっていた所を拾ったと聞きました。あなたに見せれば身元だけでも分かるのではと連れてきたと言われてね。最初は隠蔽しようとしているのかと思ったのですが……どうやら、見るのは初めてのようですね」
男の説明に、エイレーネは益々混乱した。
サマラスはエイレーネとエラスティスの関係など知らない。サマラスの性格であれば、見付けたのが死体でも、念のためエイレーネに報告するはずだ。死体を見せたら悲しむ、などと考えるとは思えない。
(一体どうして……?)
疑問が頭を巡りながらも、体は知らず震えだしていた。頼りない動作で寝台の傍らに屈みこみ、言うことを聞かない手を伸ばして掛布を更に引き下ろそうとする。
「無理はしない方がいいですよ」
「……ッ」
それを止めたのは、男の冷めた忠告だった。ハッと振り返る。顔を見なくても、それが優しさからでないことは分かった。
「この男の体は剣や矢を受けた傷が無数にある。左腕は大弓ででも捥がれたようで、無残に取れている。あなたが殺したのでないなら、見ない方が賢明でしょう」
「な……!」
男の皮肉のこもった説明に、エイレーネは言葉を失った。
パゴニス神兵の中でも特に精鋭と言われる神の僕に追われていた彼が、囮として残ったのだ。その体が綺麗なままなはずはないと頭では分かっている。
それでも、それを目の前に突き付けられれば、平静でいられるはずもなかった。
震えの激しくなる手を伸ばして掛布を掴むが、肩が見えたところでもう恐ろしくて、エイレーネの動きは止まってしまった。
(怖い、のは……自分の罪を目の当たりにすることだから……?)
だがそれならば尚更、エイレーネは見なければならない。エイレーネが逃げたためにエラスティスに訪れた、その無残な結果を。
「ちょっと待て」
それを引き留めたのは、それまで黙して成り行きを見ていたアフィだった。
「本当に国境で拾った死体なら、そんなに綺麗な状態なのはおかしいだろ……でしょう。運んでくる間に腐乱が始まるはずだ」
それは、冷静に考えれば当然の疑問だった。エラスティスが亡くなったのは二か月以上前。何の処理もしていないはずの遺体が腐らずにいるのは奇妙だ。
しかし目の前の男性がエラスティスであることは間違いなく、その肌は擦り傷などはあるものの、眠っているだけと言われれば信じてしまえるほどに綺麗だった。
「それがな、腐らなかったんだと」
「は?」
「運んでる間も、ここに着いた後も、この死体はまるで変化しなかったそうだ。だから埋葬するのを止めて、血を拭きとり体を清めたのだと、サマラスは言っていた」
しかしそれを確かめる術はないから、エイレーネにカマをかけたのだと、男は続けた。だがエイレーネには、最早それは些末なことだった。
(死後も朽ちない遺体、なんて……)
聞いたことがない、わけではなかった。
パゴニス神教国の歴史には、死後も肉体が腐らず、当時の状態を維持した予言者がいたという記録がある。神王の御座所の奥深く、聖なる宝物とともに保管されているため見たことはないが。
「彼が、奇跡を賜ったと言うの……?」
奇跡はある、とパゴニス神教国は断言している。魔法とは違う様々な不思議は国内のどこかしらで起こり、それはいつも敬虔で真摯な深い祈りによりもたらされると信じられている。
神王が奇跡と認めるものこそ数は少ないが、その予言者のことは間違いなく奇跡とされている。だがそれも、人心が乱れ賄賂が横行し、腐敗しきっていた教会を改革し、今の政治的基盤を整えた偉大なる予言者の身に起きたことだ。
敬虔なパゴニス教徒でもないエラスティスの身にそのような奇跡が起こるとは、とても信じられなかった。
信じられなかったし、何より。
「……いと高きにまします我らが神よ。奇跡を施して下さるのならば、なぜあの時彼をお救いくださらなかったの!」
何より、恨めしい、と思う気持ちを止めることが出来なかった。
いつも、いつもそうだ。
神はどんなに祈っても応えてくれない。
故国を逃げ出した時も、彼と逃げている時も、娘と離れ離れになった時も、神は助けてはくれなかった。
それでも、自分の魂のために善く在り続けることに意味があるのだと、頭では分かっている。
けれどだからと言って、迷い戸惑う弱さを克服することなど出来るはずもなかった。
「こんな……死んだあとの彼に会えたって……」
意味などない、とまでは言わない。
けれど喜びなどよりも虚しさや憤りが胸を占めるのはどうしようもなかった。
涙腺が壊れたように、涙がぼろぼろと零れて膝に力が入らない。頭が木槌で殴られたみたいにガンガンと痛み、世界が暗転したように視界が濁った。とても立っていられなくて、その場に蹲る。
「……返して……」
目の前の掛布を握り占めると、敬虔なる神の信徒にあるまじき恨み言が零れていた。
「返して……ッ、あの人を返して――!」
「……何を言ってるんですか」
「!?」
頭上からの冷めた声に、エイレーネは涙を散らして振り仰ぐ。
男が、無理解な者を見る目でエイレーネを見下ろしていた。
「帰ってきてるじゃないですか。この男じゃないんですか?」
「…………な、にを……」
意味が分からなかった。男が何を言っているのか、何を理解できていないのか、エイレーネにはまるで分からなくて、掠れた問いを上げる。
男は、不遜なまでの声音で応じた。
「死んでも会いたいから帰ってきたんでしょう。まさか、本気で神様の奇跡とかいう不確実なものを信じてるんですか? パゴニスの宗教がどんなもんかは知りませんけど、戦場じゃ、こういうのはただの執念って言うんですよ」
「しゅう、ねん……?」
男の滔滔とした話しぶりに、けれどエイレーネの思考はろくに追いつけなかった。執念、という言葉の意味を何度も何度も噛み砕いて、脳裏に並べて、飲み込んで。
そして最後に辿り着いたのは、あの日の言葉だった。
『きっと、抱きしめにいきますから』
凛とした囁きが、勃然とエイレーネの胸を締め付ける。
二度と思い出したくないと思っていた川の水の冷たさが、体中の痛みが、唇の蕩けるような熱さが蘇る。あの日も、エラスティスに縋って泣きじゃくるばかりで、エイレーネは何もしなかった。
けれどもし、エラスティスが今ここにいるのが神の奇跡でも好意でも何でもなく、ただ彼があの約束を――叶わないと知っていた約束を果たしに戻ってきたのだとすれば。
「……もし、これが本当に、彼の想いの強さの表れだというのなら」
男を見上げたままの瞳をゆるゆると伏せ、淡い期待を込めて言葉を続ける。
「一つ、お願いを聞いて頂けないでしょうか」
あの気丈で優しい嘘を、エイレーネだけが真実にできる。
そう気付けば、不思議と覚悟は定まった。
男がエイレーネを敵視していることも、自分の不用意な言動が残された者たちに悪影響を与えることも、重々承知の上だ。それでも、胸を焦がすような一つの予感が、エイレーネの中に兆していたから。
(わたくしは、この時のために娘を探していたのかもしれない)
それは、偶然にも全ての駒が揃った今だから言えるこじつけだと分かっている。
それでも、あと一歩踏み出せば叶えられるのならば、もう臆病なままではいたくなかった。
「……内容によります」
果たして短い沈黙ののち、男はそう応えた。エイレーネは「感謝します」と述べてから、アフィの横で静かに状況を見守っていたアリシアに視線を滑らせた。
「……?」
「――、アリシア」
どちらの名で呼ぼうか、僅かに逡巡した。彼のためには娘の名で呼びたかったが、それはもう彼女の尊厳を頭ごなしに否定することだと理解している。
「ここに来て、この方の手を握ってあげてくれませんか」
「え……」
アリシアが意想外の言葉に軽く瞠目する。男もまた、拍子抜けしたような声を上げた。
「それだけですか?」
「いいえ。その間、あなた方には部屋の外で待っていていただきたいのです」
「……それは、」
「分かった」
一瞬渋った男の声を追い越して、意外にもアフィが快諾の声を上げた。
「五分間だけ。――それならいいでしょう」
「お前、勝手に……」
男に向き直って独断で期限をつけたアフィに、男は呆れたようにぼさぼさの髪を掻く。だがそれもすぐに諦めの溜息が追いかけた。
「分かりました。三分なら」
「……ありがとうございます」
頷いて早速背を向けた男と、そして憑き物が落ちたように静かな表情になったアフィに、エイレーネは深々と頭を下げた。
これでやっとけじめがつけられる、とエイレーネは感慨深く思った。




