二人だけの逃亡
◆ ◆ ◆
天に昇った神々からの啓示を、この国で初めて賜ったとされる建国王が、祖国の山の上に築いた小さな聖拝堂。それが、政教一致の神権政治を行うパゴニス神教国の中枢である大神殿、神王の御座所の始まりだと云われている。
その壮麗で広大な神殿の一角に軟禁されるように生きてきたエイレーネは独り、誰にも知られてはならない秘密を抱えて震えていた。
(ましてやあの男には、決して知られてはならなかったのに……!)
けれどそれは、最早手遅れだった。
この身に起きた、自分すらも戸惑っていた変化に侍女が気付き、報告が行った。そしてそれは悪いことに、善意とともに最悪な人間に知らされた。
七年前の十二歳から、夫となった者――夫、という立場にあるだけの、儀式の時にしか顔を合わせない、最も遠い人間に。
「あの愚か者が何をするのか、目に見えるようだわ……」
当代の神王には、王太子しか男子はいない。王弟はいるが病弱で、一度も公式の場に出ていない。
その危うい力関係の中に、新たに王位継承権を賜る人間が加われば、どうなるか。
(もう、ここにはいられない……)
あの男は、自分の子でないと十二分に承知しながら、新たな王が生まれたと吹聴して回るだろう。あの男の好物である『未来の神王の父』という権力を得るためなら、七年もの間放置してきた名ばかりの妻を、心の中では誰よりも深く愛していたと憚りなく言うだろう。
そうなれば、エイレーネはあの男の顔を毎日のように見なければならないし、何より彼との時間がなくなってしまう。
そんなことは、到底堪えられそうになかった。
(この子は、エラスティス様との子よ)
無意識に下腹部をさする。
形も温度も少しも変わっていないのに、ここ数週間のうちにすっかり癖になっていた。触れるだけで、心拍が落ち着くのが分かる。
けれど、ではどうすれば、という思考は、少しも捗らなかった。
エイレーネは王孫という立場から外交とは縁遠く、国外には一度も出たことがない。この国から逃げても、当てなど一つもない。
けれど怖いからという理由でここに居続ければ、結果は目に見えている。
「どうすれば……」
何を考えても、展望の暗さに怖気がくる。何度となく震えてしまう指を、また自分の手で押さえ付けようとした時、
「――逃げましょう」
言うことを聞かない両手を、大きく骨太な手が包み込んだ。
驚きに目を瞠る。顔を上げれば、濃い亜麻色の髪の下、毅然とした栗色の瞳がエイレーネを覗き込んでいた。
秘密が知れた今では、いつ名ばかりの夫が現れてもおかしくはないのに。
「エ……セフェリス様」
情けない顔になっていないように、慎重に笑みを作りながら顔を上げる。けれどそんな努力も簡単に無駄になるくらい優しく穏やかな瞳が、そこにあった。
「もう、エルでいいですよ」
更に目尻を下げて、故国から夫に付き従ってきた騎士が微笑む。それだけで、涙腺が緩みそうだった。
「エル様……!」
ずっと、二人きりの時にだけ、そっと空気も震わさないように呼んできた名を呼び、その筋張った手の甲に額を押し付ける。長く伸ばした青みがかった黒髪が、はらりと肩から滑り落ちた。
(ずっと、この温もりが側にあるだけで、何もかもを諦めて受け入れることができたのに)
もう、それもじきに出来なくなる。それが何よりも、エイレーネの心を怯えさせた。
「私が――いえ、俺がお供します」
エラスティス・セフェリスが騎士の仮面を捨てて、言う。その声に宿る強さと揺るぎない想いに、エイレーネの心は不思議な程潔く決まってしまった。
「……あなたには、辛いことばかりを強いてしまいます」
それが最善の選択でないことも、彼を自分の災難に付き合わせるだけだとも分かっていた。涙を堪えて項垂れれば、常に騎士の手本のように実直で誠実だった男は、しかし何故か僅かに頬を赤らめてはにかんだ。
「エイレーネ様を独り占めできるなんて、それだけで俺は幸せ者です」
そんなわけはないと知りながら、エイレーネは結局溢れてしまう涙の熱を感じながら泣き笑いの顔で応じた。他愛もないそんな言葉たちがどんなにこの孤独な心を救ってくれてきたか、きっと彼は知らないだろう。
それもまた伝えたいと思えばこそ、エイレーネの決意は更に深く確固たるものになった。
(王太子が先手を打つ前に、逃げなければ)
王女エイレーネに謀反の意あり、との報が神王の御座所を揺るがせたのは、それからたった五日後のことだった。