親愛
二人して目を真っ赤に腫らして、声もなく泣いていた。
どうにか落ち着いたのは、随分してからだった。
互いに顔を見あって、アリシアは微笑み、アフィは照れくさそうに下を向いた。
それは、互いに三十歳にもなる男女がするには随分と初々しいものだったが、初恋をこじらせたアフィは勿論気付いていない。
代わりに脳裏をよぎったのは、場違いもいいところの感想だった。
(さすがに、兄妹でこの抱擁は……変、だよな)
これは兄妹としての家族愛だ。
と、誰でもない自分に言い訳して、やっとついでのように冷静さも戻ってくる。
そして思考が回りだせば、次にアフィがしたのはアリシアの背中と膝裏に両腕を伸ばして抱き上げることだった。
「行くぞ、アリシア。まだ体はきついかもしれないが、」
「待って」
だがそれは、アリシアの拒否によって阻まれた。意図が読めずに瞳を見返すと、ふるふると首を横に振られた。腕を押し返される。
「ここで決着、ちゃんとつけなきゃ」
「!」
その言葉に、アフィは少なからず驚いた。
確かに、アフィは今日という日に全ての片を付けようと決めていた。だがそれをアリシアに相談したことは一度もない。手紙も衛兵も、全てはアフィ一人の手回しだ。だというのに。
「気付いて、いたのか」
思わずという風に問うと、当たり前でしょ、という風に微笑み返された。
それでもう、アフィは観念したようにアリシアを寝台の縁に座らせるだけに留めた。
代わりに、背後でずっと見守っていたエイレーネに向き直り、身の内に渦巻いていた疑問を一つずつぶつけることにした。
「……そもそも、どうして予言者がアリシアの体を隠してたんだ」
恨みがましい目付きで睨む。
エイレーネは逡巡というには長い時間言葉に迷っていたが、ひたとアリシアに視線を止めると、一つ頷いてその口を開いた。
「魂は記憶に惹かれ、肉体は血に惹かれる、という言葉をご存知ですか?」
初めて聞く言葉に、アフィは険しい顔で首を横に振る。
「これはパゴニスの古い予言者の言葉で、一般にはその人をその人たらしめるもの、という意味で使われます。ですが、むす……彼女の状態を見て、わたくしはそこに象徴的ではなく現実的な意味合いがあったのではないかと思っています」
「あんたたちの信仰なんかどうでもいい。単刀直入に言え」
まどろっこしさにそう言うと、エイレーネが苦笑するように眉尻を下げて、そうですねと頷いた。
「つまり、心という結び付きを失っていた状態で時間を超えた影響で、過去に現れた時に体と魂が別々の場所――つまりそれぞれに最も結び付きの強い場所に惹かれてしまったのではないかと、わたくしは考えました」
なるべく感情を差し挟まないように、エイレーネが淡々と説明する。だがそれはおかしい、とアフィは即座に思った。
魂が記憶に惹かれるという現象が事実と仮定するなら、アリシアの中でアフィとの記憶が最も重要だったと言い換えることもできる。それは嬉しいからいい。
問題は、肉体の方だ。
「その理屈だと、肉体は家族の――王宮に現れるはずだろ」
「それは、その……」
アフィの当然の指摘に、それまでの弁舌を翳らせてエイレーネが視線を泳がせる。何度も迷った挙句紫の瞳が向いたのは、静かに二人を見守っていたアリシアだった。
そこに敵意がないと分かっていても、ついアフィは二人の視線を邪魔しようとしてしまう。
だが、それを止めたのは他でもないアリシア自身だった。
「あたしが、あなたがずっと探していた娘だったから、でしょう?」
「!」
「――はぁっ!?」
アリシアの迷いのない言葉に、両者が同時に驚いた。
但し、エイレーネはあえて口にしなかった言葉を言われたために。アフィは、娘という単語と、その齟齬に。
「ま、待ってくれ。娘って、アリシアはサロリナ王妃の娘だろ? なんでこんな女なんかが、」
「やっぱり、聞いてなかったのね。随分考え込んでいて、返事もないなぁとは思ったけど」
混乱をきたすアフィを見上げ、アリシアが呆れたように溜息をもらす。それは微笑ましさを伴ったものではあったが、アリシアを実の妹だと思っているアフィには訳が分からなかった。
「過去に飛んですぐ二人で王宮に見に行ったあと、説明したでしょ? ルカス王子の誕生が祝われて、王女の存在が公表されていなかった理由を」
確かに、過去に飛ばされた事実を中々理解できず、二人で確証を得るために王宮に忍び込んだ。だがそこで見たのは、火傷を負った赤ん坊と、それに薬を塗らせていた王妃の姿だけだ。
見て分かるはずの理由は、直後に現れた赤子の自分のせいで、ほぼ吹き飛んだ。
「いや、説明って……見に行けば分かるって言っただけで」
「だから、分かったでしょ?」
「…………は?」
それ以上は説明不要だとでも言うように、アリシアがきょとんと小首を傾げる。
だがアフィの方は益々訳が分からなくなった。
(あの一場面だけを見て分かることって……何だ?)
どんなに頭の中であの日のことを思い出しても、アフィにはさっぱりだ。という思いが、如実に顔に出ていたのだろう。
アリシアはやっと、あれ? という顔をして「もしかして、」と続けた。
「気付いてないの?」
「だから、何にだよ」
不服そうに問い返す。と、今度は盛大に呆れられた。
「同時期に生まれたはずなのに、髪も目の色も全然違う、双子じゃない男女……どちらか一方は血が繋がっていないと思うのは自然な推論でしょ?」
「……まさか」
「言っておくけど、アフィ、お母様にそっくりだから。あと、子供の頃は多分絶対お父様似だから」
刹那の内に過った疑念を、アリシアの一言がバッサリ両断する。
そうなると、もうそれに対してどうこう言うのはアリシア自身に対し失礼なだけだと、鈍いアフィにも分かる。
だがそれでも、今アフィが受けた理解と衝撃は、筆舌に尽くしがたかった。
アリシアは王妃の娘ではなくて、妹ではなくて、アフィとは血が繋がっていない。
それは、つまり。
(俺は、アリシアを、好きでいていい、のか?)
導き出された最も重要な事実。それはまさに青天の霹靂だった。
この瞬間、アフィは敵の本拠地に乗り込んだことも、目の前にずっと憎んできた女がいることも忘れて、ただただ好きな人を好きでいていいことの事実に困惑した。
それは薄い実感ではあるがじわじわと脳に浸透し、と同時に、それを知っていた上でのアリシアの今までの態度と考えると、哀しい真実もまた浮き彫りになる気がした。
(全然、脈無しと、か………………駄目だ!)
軽く戦慄したので、全力の力任せで話題を切り替えた。
「だが、そうだとしても、年齢がおかしいだろ?」
色々と複雑な感情はこの際脇に置くとして、アフィはアリシアの言を信じた場合に発生する疑問を口にした。
エイレーネは確かに白髪で、意志薄弱さと疲労も相まって、随分と老け込んでいるようには見える。けれどさすがに五十歳には見えない。
「正確には、教会で消えてしまったアリシアが、ということだと思うけれど」
私情で眉間に盛大な皺を寄せるアフィを宥めるように、温かな指が腕に触れる。それで不承不承ながら思考が落ち着いた。
確かに、予言者が追っていたのは、過去に消えたアリシアだ。十五歳の娘というなら、目の前のエイレーネの年齢でも無理はない。
何より、その理由があれば導きの友愛の救世主がなぜアリシアだったのかにも説明がつく。
だがそれは同時に、やっと制御できるようになった嫌悪感が再燃するには十分なほど、利己的で独善的で。
「……最低だな、お前。神様しか信じるものが残されていない奴らに、娘を救世主だと嘘を教えて利用して、届かないと分かった途端にその希望をぶち壊したのか」
虫唾が走る、とアフィは吐き捨てた。
そう仕向けたのはアフィだが、それを淡々と行えたという事実が、この女の言い分を聞く価値すらないように思わせた。
それを引き留めたのはひとえに、アフィの服をつまんで離さないアリシアの指だけだ。
そしてそれを受けたエイレーネは、反論も言い訳も口にはしなかった。痛みを堪えるような色を押し殺して、ただ一言、
「……その通りです」
そう言っただけだった。
その表情にも態度にも文句は無数にあったが、先にアリシアが話を本筋に戻したことで、アフィは仕方なく口を噤んだ。
「そしてあなたは、自分の娘ではないはずの女を、事情も分からないのに拾って、手当てまでした」
その問いに、けれどエイレーネは初めて首を横に振った。
「……いいえ。娘ですもの。年が違っても、事情が分からなくても、何年離れていても……分からないなんてこと、あり得ません」
それは、今までアフィが見てきたか弱く芯のない無気力な様子とは違う、強く迷いのない言葉だった。
その我執が今まで二人を苦しめてきたのだと分かっているのに、すぐには言葉が出なかった。
何より、アリシアがそれをどう受け止めるのかが、アフィには気がかりだった。
ずっと仇のように追ってきた相手が実の母だと言われ、大切だと言われても、アフィだったらそれを額面通りに受け取ることはきっと出来ない。
もし、慮るように盗み見たアリシアの瞳が一片でも曇るようなことがあれば、すぐさまアリシアを抱きかかえてその場を飛び出していただろう。
けれどそんな心配を穏やかに蹴散らして、アリシアは睫毛さえ震わせず、前を向いていた。
「あたしは、あなたを母とは呼ばない」
決然と、アリシアが言う。
二人の紫の瞳が確かに一瞬交差し、次にはエイレーネの方が、耐え切れないという風に悄然と瞳を伏せた。
けれどそこに、今までのような拒絶も憎悪もないと、アフィは気付いていた。
アリシアが続ける。
「あたしの母はサロリナ王妃様だけだし、拾われ子だと知っても、本当の母を探そうと思ったことも一度もない。それくらい、サロリナ王妃様はあたしを実の子と同じように愛してくれたし、守ってくれた。あたしは、そのことに心の底から感謝している」
まるで独白のようなそれは、アリシアがティスとして王妃の側にいた時、ずっと伝えたくても伝えられなかった想いそのものだった。
思えば過去に飛び、再び両親にまみえた時、アリシアは二度目の人生を生きている気分だった。
四歳で心を失ったせいで見えていなかった出来事が、母の懊悩と苦境が、それでも最後まで手放さずにいてくれたことが、二度目の人生でやっと知れたのだ。
父の死も、母の辛苦も、目の前でまざまざと見なければならないのは苦しかったが、それでもちゃんと感じられることが、同じくらい嬉しかった。
「だから、幼い自分の心を奪ってしまった時は自分が心底嫌になったし、あなたが母親かもしれないと気付いた時、自分を呪ったわ。あたしがみんなを……お母様も、アフィも、傷付けているんじゃないかって」
「そんな……違うの、違うのよ……」
自虐的に微笑むアリシアに、エイレーネが堪らず両手で顔を覆う。いやいやと子供のように首を横に振る姿は、まるで彼女の方が娘のようだった。
けれどその理由を、アリシアは漠然と察していた。
女はきっと、子供を産んだだけでは、母親にはなれない。女が母親になるには、子供を育てる時間が要る。それが彼女には、たったの二か月しかなかった。残る十五年間は、応えない心と、息をするだけの肉体ばかりが相手だった。
けれどそれが、アリシアにとっては良くも悪くも大きな意味を持った。
だから、慰める代わりに、違う言葉を贈る。
「でも、あたしの心は、違うと言った。そして今日、あたしの体もまた、違うと言ったわ」
「……フィ――」
エイレーネが、震える声で言葉を飲み込む。アリシアが呼ぶなと言った、彼女の愛し子の名を。
「だから、あたしはあなたに、感謝してる。心があなたの声を覚えているように、体もまたあなたの温もりを覚えているから」
魂で一つ目の人生を歩き、心で二つ目の人生を辿った。
そして大切に大切に守られた体で、アリシアは三つ目の人生を知ったから。
「あなたが、とても愛情深い人だということを」
それは、アリシアなりの手向けでもあった。
エイレーネを母とは呼ばないし、認めないし、共に過ごすこともしない。彼女は衛兵に引き渡し、罪を償わせる。
それでも、彼女が自分に害意を向けたことは一度たりとなかった。アリシアの心に、体に語りかける彼女は、ただただ夫と娘の喪失に喘ぐ、憐れで寂しい女だった。
許すとも許さないとも言えないアリシアにとって、それが精いっぱいだった。
けれど、アリシアは知らない。
「――――ぁ、あぁ、……」
その言葉が、どれほどエイレーネを救ったかを。
愛に導かれ、愛のために生き、愛の本質が分からずに苦悩したエイレーネを、優しさや気遣いのためでなくそう評したことが、どれほどにエイレーネの心を慰めたかを。
「あぁ――……」
先程とは違う理由でエイレーネが顔を覆い、膝を折る。
狭い部屋に満ちた涙声はけれど、不思議と染み入るような温かさを持っていた。
 




