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体温

 罠にかけられたのだと思った。


 伝言にあったアリシアの心と魂、そして肉体など、その部屋にはどこにも見当たらなかったから。


(気配は、確かにこの部屋に続いていたのに)


 アフィの役立たずの目が見つけたのは、二人の白い女、それだけだった。


 一人は部屋の中央に立ち、アフィを出迎えた三十代半ばの女――白髪に紫の瞳をした予言者。そしてもう一人は、左の壁際に置かれた上等の寝台に横たわる二十代後半と思しき女性――こちらは女の真っ白な髪と比べ、青みがかった灰色をしている。肌は一度も日に当たったことがないように白く肌理細やかで、寝台の上に広がる長髪も艶やかで、遠目にもよく手入れされているのが分かる。


 娘というには年が近すぎるようだが、他人というには鼻筋や雰囲気は似ている気がした。姉妹だろうかと、その時には思った。


 だが。


「――――アフィ……?」


 その声が聞こえた瞬間、そう思ったことをアフィは酷く後悔した。


「……アリシア、なのか?」


 そしてそう問いかけることに、酷く体力を消耗した。今すぐ走って駆け寄りたいのに、雷が落ちたように体が硬直し、指を一本動かすのさえ痺れて思うようにいかなかった。


 そう思っていたのに、目の前に立っていたはずの女は気付けば横に退き、アフィは自分でも知らぬ間に寝台の傍らで床に膝をついていた。


「本当に、ここにいるのが、アリシアなのか……?」


 絞り出した二度目の問いは、肯定と否定のどちらを求めてのことか、アフィ自身にも判然としなかった。

 小刻みな震えが止まらない両の指のすぐ先には、透き通る程に白い肌に、青い血管が見える華奢な――けれど子供らしい丸みはどこにも見えない右手がある。


(この、手が……ここに、寝ているのが)


 触れるのが怖かった。それは玻璃(ガラス)で作られた美術品のような繊細さのせいだけでなく、あまりの白さに命の温もりがないように思えたからだ。


(もし、この手が冷たかったら……)


 それはきっとアフィのせいだ。


 今ここに横たわる女性がアリシアだとして、今この時代に十五歳の少女の肉体がもうないのだとしたら、それはつまり肉体も魂と同じように過去に飛ばされていたということだ。そしてその肉体は、アフィこそが見付けねばならなかった。


 けれどアフィは、目の前の自分の事ばかりに気を取られ、アリシアの肉体を探し出すことを蔑ろにした。そのせいでアリシアは十五年もの間、敵の手に捉えられていた。

 たとえその肉体に魂も心も宿っていなかったとしても、たった四年間囚われていただけのアフィの苦しみを思えば、それは取り返しのつかない罪と言えた。


(とてもではないが贖いきれない、罪)


 その重さが二人の間に底の見えない深淵のように横たわるから、アリシアの細い指先に翳すようにした両手を、それ以上進ませることが出来なかった。

 意志に反して、指の震えがどんどん大きくなる。それを止めたのは、


「!」


 たった一粒ほどの、指先に触れた温度――魂だけの時とは違う、熱い程に圧倒的な存在感を持った、それは体温だった。


 ハッと顔を上げれば、瞳が――青灰色の長い睫毛の下からゆっくりと現れた、夜明け前の空を思わせる深い紫の瞳が、じっとアフィを見上げていた。


「ア、フィ」


 先程よりもはっきりと強い意志を宿して、薄桃色の唇が震える。その声があまりに優しくて、間違えようもなくアリシアのそれで。


「アリ、シア……」


 自然と名を呼んでいた。それに精一杯の力で応じるように、表情筋が使われていないために一つも皺のない目許が、ゆっくりと柔らかに緩められた。それが酷く嬉しそうで、それだけで、あぁ、と吐息が漏れた。


「……ごめん」


 そして次には、許しを請うようにその温度を握り返していた。


「俺は……俺はいつも自分の望みばかり追いかけて、いつもアリシアの苦しみに気付けない……」


 アリシアが魂のみの姿になった時も、目の前で父の死を見ることになってしまった時も、そうだった。アフィは自分のことばかりを思い悩み、アリシアが支えてくれた十分の一も返せていない。

 果てはこんな山奥の、忘れ去られたような館の中の小さな寝台一つ分の世界に押し込めることになってしまった。


「俺が救わないといけないのは、子供の俺でも君でもなく、今のアリシアだったのに……」


 言葉にすれば、それはなんと当たり前のことかと思う。けれどアフィは自分の憎しみにばかりに振り回されて、その当たり前が出来なかった。アリシアは、この世で最も大切で、最も愛しい人なのに。


(痛い)


 子供の頃の自分に出会ってからはめっきり痛まなくなっていた額の痣が、ずくずくと痛む。だがそれ以上に、胸が痛んだ。言葉を重ねれば重ねる程に、後悔ばかりが募るから。


 そしてその出口のない後悔を止めてくれたのは、やはりアリシアの優しいばかりの声だった。


「泣か、ないで」


 口を開くのも辛そうなのに、アリシアは自身の痛みも辛さも飲み込んで、笑う。嬉しそうに、愛しそうに。迷子の幼子のように情けない顔をしたアフィを、その美しい瞳に映して。


「アフィ……ッ」


 名を呼びながら、アリシアが腕に力を込める。けれど肩が敷布から離れる前に、痺れるように震えて咳きこんだ。


「アリシア!」


「フィリア!」


 思わず腕を伸ばして肩を支える。その横から、更に別の手が背に触れようとした。それが悪意のあるものではないとすぐに分かっていても、アフィは反射的に跳ねのけていた。


「触るな!」


「ッ……」

 振り返って睨み付けると、エイレーネがまるで傷付いたように眉根を寄せる。それが酷くアフィの罪悪感を呼び起こしたが、無視した。「……はい」と、後頭部に遠慮がちな返事が返る。


「ですが、お水だけでも」


 おずおずと差し出された器も、やはり無視した。敵が用意したものをアリシアの口に入れるなど言語道断だ。

 そう、思ったのに。


「……もらうわ」


「ッ!? アリシア、それは」


 戸惑うアフィの目を真っ直ぐに見つめて、アリシアが一度ゆっくりと瞬く。それだけで、アフィは引き留めることが出来なくった。


 エイレーネのすることなど一片たりとも信用できないが、そもそもアフィはアリシアが今までどうやって過ごしていたのか、どれ程の時間眠っていたのかも分からない。

 最初に見たアリシアは、日に当たっていないためのひ弱さこそあったが、健康を害している様子はなかった。事実、アリシアは問題なく目を開け、会話も出来た。


 それが絶対に敵の企てだと断言できても、では何のためにと問われれば、答えは見付けられなかった。


「飲めるか?」


「ん……」


 渋々エイレーネから受け取った水を、アリシアの僅かに起こした口元に運ぶ。飲み下せたのはたった一滴程だったが、それだけでもアリシアの頬に赤みが差したようで、アフィはやっと気が落ち着くのを自覚した。


「アリシア。他にして欲しいことはあるか?」


 それをまず第一に聞かねばならなかったと、今更に自分の身勝手さに恥じ入りながら問う。と、徐々に力のこもってきたアリシアの指が、ぎゅっとアフィの腕を引いた。ん、と応じるように濃紫の瞳を覗き込む。


「アフィ」


 水を含んで滑らかになった声で、アリシアが呼ぶ。その声があまりに艶やかで、アフィは一瞬どきりと胸が高鳴った。そんな戸惑いも、アリシアは全部見透かしたように微笑んで。


「――さわって」


「!」


「ぎゅって、抱きしめて」


 その甘えたような声音は、けれどずっと深い意味を持っていることを、アフィは知っていた。それはずっと、苦しい時も哀しい時も、望みながらも決して口にできない言葉だったから。


「……あぁ、勿論だ」


 力強く頷いて、アリシアの骨と皮ばかりの薄い背中に両手を回す。青灰色の髪が流れる首筋に顔を埋めると、アフィの首にも熱いほどの吐息がかかる。その重さと、湿っぽさが、つまりは肉体を持つということを示していて、それだけでアフィは泣きそうだった。


「っ」


 堪らず力を込める。上等な絹の服越しに、細い骨と脈打つ肌の温かさがある。アフィの無骨な指の一本一本から、腕の内側から、胸の真ん中から、それは確かに伝わってきて。


(いる。アリシアが、ここにいる)


 それは実に十五年ぶりの、あの教会で初めて抱きしめた時以来の質感と温度だった。そして更にアフィの涙腺を緩めたのは、肩を濡らした熱い雫――アリシアの涙。


(取り戻した……全て……全て)


 その心根がどんなに優しくとも、奪われたために伝わることのなかった心も。どんなに哀しみがその身を飲み込もうとも涙すら零せなかった体も。全て。


「アリシア……!」


 やっと腕の中に取り戻した大切な女性を、互いの体の真ん中で確かに脈打つ甘やかな二つの鼓動を、アフィはいつまでも抱きしめていた。


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