覚醒
◆ ◆ ◆
毎日、傷のない手の甲が頬に触れてきた。それが意志のない指を揉みほぐし、優しい声が鼓膜を震わせる。
『あなたは、わたくしの娘かしら』
問いかけながら、その手は必要もないのに丁寧に髪を梳くのだ。
見えていたわけではないけれど、そんな感覚が何年も続けば、触れるものが何か分かる程度には鋭敏になった。
何より、聞こえていても何の反応も出来ない肉体に届く温もりは、余計なものがない分、混じり気がないがゆえに直接肌に染み入るようだった。
『どうしたら、あなたは目を覚ますかしら』
『あなたの瞳は、赤ちゃんと同じ紫色かしら』
ある時は慈しむように、その声に仄かな希望を滲ませて。
『あなたが娘だったら良いのに』
『本当なら今頃、こんな風に娘の髪を梳かしていたはずなのに』
ある時は髪に差し入れた櫛を震わせて、失望と諦念を友に。
けれどその声がどんなに揺らごうと、この身を傷付けようとすることは一度もなかった。どころか、常に励ますような包み込むような温度が肌から流れ込むような気さえした。
それは、分け与えられた命が体の隅々まで吹き込まれる気配に似て。
『――愛しい……。あなたが愛しい。だから、お願い……目を覚まして』
たゆまない願いが、動けない体に満ちてゆく――
最初に感じたものは、重さだった。
瞼を震わせるのも、小指を動かすのも、唇を押し開けることさえ、億劫になるほど重かった。その次に訪れたのは鈍痛で、それは頭にも背中にも腰にもあって、全身をじくじくと苛んだ。
けれどそれはおかしなことだった。十五年前に肉体を失って以来、アリシアは肉体の感覚もまた失っていたのだから。
(どうして……)
水中というよりも土中に沈められたかのように重く、体が言うことをきかない。どうにか力を込めながら、アリシアは懸命に記憶を遡る。
(確か、逃げた二人を追って、予言者と呼ばれてる女を追い詰めて、それから……)
女が、誰かの名を呼んだのだ。
それが酷く耳障りで、ないはずの頭がガンガン痛んで。その先は……、と睫毛を揺らしながらアリシアが霞む記憶に手を伸ばそうとした時、
「……辛い?」
温かい声が耳朶に落ちた。優しいのにどこか苦しそうで、でも労りに満ちた声。
(誰か、そばにいる……?)
意識を外へと向ければ、確かに人の気配を感じた。と同時に、右手に何か温かいものが触れる。それが何かと考えるよりも前に、その声は独白のように言葉を繋いだ。
「ずっと寝たきりだったから、筋力の衰えばかりはわたくしにはどうすることもできないけれど……でもずっと力を分けていたから、動けるはず」
それはアリシアに語りかけるとか自分に言い聞かせるというよりも、どこか懇願のように聞こえた。そしてそれは、次の言葉で正しいと判明する。
「お願い、目を覚まして……!」
声に力がこもる程に、右手に触れた温もりがどんどんと広がっていく。それはまるでその場所を起点に、命の清水が体中に広がるような感覚だった。とても心地よく、うっとりとアリシアの不安を和らげていく。
そこにあるのは、柔らかなまでの懐かしさだった。
遥か昔のこととなってしまった母の温もりが、自然と呼び起こされる。
(お母様……)
突然城の庭に現れた怪しげな赤子を一も二もなく拾い、火傷の治療をし、衣食住を与えてくれたサロリナ王妃。
親が見つからないとなった後には、継承権を与えないこととルカス王子と結婚しないことを条件に、希望が通るまで何度でも宮廷に王女の立場を要求してくれた。
結局、アリシアは正式には王女ではなく客分の姫という扱いだったし、城を放り出されれば身分はないも同然。ルカス王子が行方不明になった後には目に見えて悪化した。
心がないのを都合よく解釈され、目の前で悪しざまに疫病神と罵られるのも毎日だった。殺されそうになったことも一度や二度ではない。
その度に、アリシアは不思議な偶然に――ティスに助けられた。アリシアがそうしたのだから、分かる。
けれど王妃は、ルカス王子がいなくなったあとでも変わらず、息子に向けたのと同じだけの愛情を注いでくれた。温もりをくれた。
そのことを、アリシアは魂だけとなって側にいた八年間で、誰よりも近くで見てきた。その度に、零せない涙を飲み込んだ。
(温かい……)
だから、今この身を包む温もりを同じように受け入れることに、何の抵抗もなかった。
ただ一つ、会いたいという想いが募ることだけは、身を裂かれるように辛かったけれど。
「……おかあ、さま……」
何度も呼んだ心の声が、ついに動き出した唇から零れ出た。眦が熱い。
側にいた誰かがハッと息を呑む音が聞こえ、眦の熱が拭い取られる。それでも熱は後から後から湧いては零れ、アリシアの白い頬を転がり落ちた。
何かを言わなければと思う前に、口は勝手に動き出していた。
「……ありがとう……」
何に対する礼なのか、アリシア自身判然としなかった。そして側にある気配は、意に反してどんどん呼吸を乱していく。
理由が分からなくて必死に瞼を押し上げるが、光りが強すぎるのか、ずっと闇に沈んでいた瞳には何もかもが白く映るばかりだった。
その中で唯一見付けた色は、美しい紫色――温かくて優しくて、慈しみに満ちた色だった。
(泣いている……)
その紫色が誰かの瞳で、泣いているように思えて、アリシアは重い重い腕を持ち上げようと力を込める。けれど実際には拳一つ分も持ち上がる前に、荒々しい音を立てて部屋の扉が開かれた。
ずっと触れていた右手の温もりが消え、耳元でしゅるりと衣擦れが鳴る。そしてあの優しい声が、酷く寂しそうに、それを出迎えた。
「……お待ちしておりました」
◆ ◆ ◆
「アリシアはどこだ」
遠く足音が響き、ついに扉が開け放たれた瞬間、エイレーネはその時がやってきたと覚悟を決めた。けれど放たれた第一声に、エイレーネは何を言われたのか、本当に分からなかった。
この男がここに現れたからには、サマラスに頼んだ伝言を聞いたということだろう。そして魂と心と体、という言い回しに思い当るものがあるなら、この部屋に入った瞬間に全てが理解できると思っていた。
けれど意に反して男は所在を聞いた。すぐ目の前、傍らの寝台に、そう呼ばれる少女は見間違いようもなく横たわっているのに。
「何を、言っているの……?」
アリシア――アルワード王妃に拾われた娘が、そう呼ばれていることは勿論知っている。けれどその肉体を求めてここに来たのなら、目指すものはまさに今目の前にある。
十五歳だった娘の肉体もまた再び過去に飛んだことを知っているエイレーネには、そんな質問をされる理由が分からなかった。
「……ふざけるなよ」
行き違いの理由に気付けないまま、男が満腔から怒気をくゆらす。
「何を、だと? お前が言ったんだろ。アリシアの心と魂と、体が! ここにあるって!」
叩きつけられる怒声に、最早娘を追いかけていた時の意志を失ったエイレーネは容易くよろめいた。長躯を更に怒りで膨らませたような男は、一歩近づくだけで恐ろしく大きく感じられた。
だが目の前に迫った碧色の瞳は、尽きない憎悪に埋もれて、今にも泣き出しそうに見えた。
自分でももう制御できない憎悪に翻弄されて、全てをぶちまけたいのに何かがそれを許さなくて、必死に堪えている。その痛々しい程の激情を、見たことがある、とエイレーネは思った。
(どこで……)
今にもこの首を締め上げそうな形相で睨む男の前で、場違いにも思考を過去に潜らせる。そして思い出したのは、七年前。
(そうよ。あの時の追手だわ)
隠れ家に火を放ち、家にいた人間をことごとく殺し、血塗れの凶刃を携えてエイレーネを睨み付けていた。あの男の目もまた、碧く燃えていた。
(あの時からずっと、こんな風に追い求めていたのね)
自分と同じように。そう思って唐突に、エイレーネは理解した。
エイレーネは最愛の人を故国に奪われ、結果娘とも生き別れることになった。だがそんなエイレーネもまた誰かの大切な人を奪っていたのかもしれないということに。
(彼もまた、鏡の中の自分だったのだわ)
エイレーネの身勝手と思考停止のせいで暗い地下の酒蔵に押し込められた、あの少年と同じように。
そして理解した瞬間、愕然とした。
この十五年間、こんなにも辛かったのに。それを顔も名前も知らないような誰かに無意識に強制していたなんて。
『魔法で奪われたものは、魔法で取り返す』
八年前のあの日、エイレーネは確かにそう決意した。けれどその先で同じように苦しむ誰かがいることを、エイレーネは微塵も考えなかった。
(あまりにも度し難い)
自分が不幸だから、周りも同じように不幸になればいいと思っていたわけではない。
けれどそれが意図的に犯した罪でなくとも、あまりに空虚で傲慢な愚挙であることは明白だった。思い付きすらしなかったことが、なお度し難い。
神の御座所で誰からも放っておかれた理由が、今なら分かる気がする。
(でも今は、我が身を愚かしんでいる時ではない)
男の気を宥め、娘の体について説明しなければならない。
「確かに、わたくしはそう言いました」
エイレーネは今一度気を引き締めて、そう頷いた。
だが眼前に迫った男がそれで納得するはずもない。血と泥が付着したままの腕で、感情のままに胸倉を掴まれた。
「だったら!」
エイレーネの枯れ枝のような痩躯が、その声に吹き飛ばされそうに前後に揺すられる。それに耐えて「ですから、」と説明しようとした時だった。
「――――アフィ……?」
まるで今まで何年も口を利いたことがないような細く掠れた声が、二人の鼓膜を震わせた。けれどそれは、口の中で呟かれるのが精いっぱいだった夢現のような先の二つの言葉よりも、遥かに強く明確な意思を持っていることは明らかだった。
そしてその瞬間、目の前の碧色の双眸が大きく、大きく見開かれて。
「…………アリシア?」
やっと、真実に辿り着いた。




