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悲しい拒絶

前話と繋がりが強いので、特別にもう1話投稿します。

「フィリア……」


「あたしはフィリアじゃない」


 名を呼ぶことしか出来ないエイレーネを、けれど少女はそれすら許さないと否定する。


「あたしはあなたの娘じゃないし、救世主でもない。あなたなんか知らない。どんなに呼びかけられたって……知らないんだから!」


 少女の怒りを表すように、森の木々が大きくたわみ、残る馬車もがたがたと揺れる。エイレーネはたまらず膝をついたが、それでも目を逸らすことだけはしなかった。


(だって、そこにいるのに……)


 そこにいるのは確かに探し求めた娘だ。

 そしてその身に宿る輝きは、たった四年間ではあるけれど、毎日朝に夕に呼びかけ続けた、娘の心そのものなのに。


「諦めるなんて……」


 愛することを諦めるなんて。


「出来ないわ……」


 堪えきれなかった涙が、はらはらと頬を濡らした。


「ッだから……!」


 少女が、感情を高ぶらせて腕を揮う。けれどエイレーネには、もう避けようと思うだけの思考すら残っていなかった。


「違うって言ってるでしょ!?」


「エイレーネ様!」


 かまいたちのような風の刃が迫る。その前に、サマラスが飛び込んできた。一切の躊躇なく両腕を広げ、その肉体を盾にする。


「サマラス!」


 信じられない行動に、エイレーネはもう力も入らない足でその胸に駆け寄った。


「やめ…どいて! わたくしを庇ってはいけません!」


 なんとかサマラスをどかそうと力を込めるが、満身創痍になった今でもぴくりとも動かせない。そんなエイレーネを見つめて、サマラスは小さく唇を動かす。


「早く、馬車に……」


 そう言う間にも、サマラスの肌を薄く削った風が、エイレーネの頬にまでピッと鮮血を飛ばす。エイレーネに出来ることなど、一つしかなかった。


「やめて! やめて、フィリア! 罰ならわたくしが受けます! だから!」


「イルを――アフィを傷付けた奴は全員罰を受けるのよ! 彼がどんなに苦しんだか知ろうともしないくせに、軽々しくそんなことを言うな!」


 激しい怒号とともに、今度は地を抉る程の圧力が二人を押し潰した。まるで教会で囚われた時の再現のようだったが、ここにあの男はいない。少女は風の力を緩めぬまま、潰れた二人の上にふうわりと舞い降りた。


 屋敷で見続けた女性によく似た愛らしい顔が、すぐ鼻先に迫る。

 憎悪に濡れた双眸はけれど、視線の高さが揃った途端、堪えきれないように苦しげに歪められた。


「フィリア……」


「その名前で呼ばないで」


 ぴしゃりと、少女は哀訴の声を退ける。


「あたしは、あたしが大切なの。あたしの記憶が一番大切なの。アリシア王女の心を奪ったことは今でも後悔してるけど……、あたしは心が取り戻せて嬉しかった。アフィへの気持ちの意味を知れたから……だから、そこに残ってた知らない記憶なんか、要らないのよ」


 アリシア王女の心。それは赤子の時に拾われ、王女として過ごしたフィリアが持っていたもの。

 四歳の時にやっと居場所を突き止め、唯一取り戻し。瓶に閉じ込めた橙色の光に語りかけた、あの日々を。

 少女は要らないと言う。こんなにも苦しそうに顔を歪めて。


(苦しめているのは……わたくし、だったの……?)


 そんなこと、思いもしなかった。


 赤子を失ったことで、エイレーネが身を裂かれるような哀しみと苦しみの中にいたように、娘もまた自分がいないことで辛く大変な目に遭っていると、ずっと思っていた。いつだってあの小さな紅葉の手が、自分を求めてか細く泣くから。


 それなのに。


(わたくし自身が、この子の苦しみの元凶だったというの?)


 ずっと、救い出したいと思っていたのに。

 娘がいることでエイレーネはどうにか生きていけたのに。

 娘はそうではなかったのならば、エイレーネは一体何のために今までこんなことをしてきたのか。


(わたくしはまた、肝心なものを、見落としてしまっていたんだわ……)


 だから最愛の、心の底から希求した娘に、こんな問いを言わせてしまうまで、気付けない。



「あたしは……あたしは、何なの?」



「フィ――」


 呼ぶなと言われた名前を必死に飲み込むエイレーネに、少女はくしゃりと顔を歪めて言い募る。


「あたしが、アフィを苦しめてたの? あたしがいるから、お母様に拾われたから、あたしが……」


 声が、滲む。


「あたしが、過去に逃げたから……?」


「違う!」


 叫んでいた。

 それだけは違うと、エイレーネは絶対に言わねばならなかった。


「違うのよ。あなたは何も悪くない」


 体にかかっていた風の圧を自らの力で退けて、エイレーネは少女の瞳を間近から覗き込む。今にも泣きそうに潤んだ、けれど決して泣くまいと頑なな、紫水晶の瞳を。


(気付いて、いたのね)


 何故過去に遡ったのか。

 予言者の存在を知らなくとも、神識典(ヴィヴロス)の教えに触れなくとも、その力の存在を知ってしまった少女は、理解してしまった。風や水を操るように、時を操ったのもまた、自分自身だということに。


 けれど、それは違うのだ。


「あなたは被害者よ。わたくしの勝手な、そう、とても身勝手で独り善がりな願いのために犠牲になっただけで、あなたが悪いことなんか一つもないの」


 両手をその真っ白な頬に伸ばせば、十一年前に触れた橙色の光と同じだけの温もりが、エイレーネのぼろぼろの手の平にも確かに伝わってきて。

 一瞬の内にあの四年間の様々なことが想起された。


 瓶の中の橙色の光と、『眠る方(ヒュプヌーン)』と、血とインクの臭い。

 けれど最後にその胸に残ったのは、弱々しく掠れた、小さな声だった。


『ぼくは、何のために生きているの……?』


 薄暗い地下の石造りの酒蔵で、膝を抱き、小さな体を更に小さくしてそう自問した、少年。その頃は、五歳だったか、六歳だったか。正確なことは覚えていない。

 けれどこの時からだ。エイレーネが、少年を憎き邪魔者とだけ見ることが出来なくなったのは。


 サマラスたちを恐れ、もう顔も思い出せない両親を恋しがって泣く――否、泣き声を上げることすらできず蹲っていた少年に、絞り出すような慈しみで語りかけた。

 まるで、鏡の中の自分に言い聞かせるような思いで。


 あの時の少年もまた、いつも泣きそうな青色の瞳で、そして自分の中の自分を手放さないように懸命に、その心を守っていた。


(あの子は、どうしたかしら……)


 娘を探す傍ら、サマラスがあの少年もまた追い続けていたことは知っている。けれどエイレーネは、一度たりとあの少年の居場所を探したことはなかった。


(なぜ今更あの子のことなんて……)


 つい最前、同じ色の瞳を見たばかりだからだろうかと、エイレーネが答えを探す中、両手の中の少女が触れない手でエイレーネを押し返した。


「触らないで……」


 そうして零された言葉の、なんと弱々しいことか。


 伏せられた白銀の睫毛は寂しげに震え、全身を覆う橙色の光は哀しみを表すように揺れている。こんなにも、言葉がなくとも雄弁な感情を見せる少女から、エイレーネはずっと利己的な理由でそれを奪っていたのだ。


 何度も、何度でも謝って、少女の涙を拭いたかった。


 でも今この願いばかりは、聞いてやれない。だって。


「それは出来ないわ。あなたが悪いのじゃないと分かってもらえるまで、とても……離せやしない」


 触れない少女の額に、自らの額を寄せて、願う。


 泣かないで。

 泣かないで、と。

 自分を責めないで。

 自分の心を殺さないで。

 自分を手放さないで。

 優しい心を、否定しないで。


「……こんな温もりなんか、要らない」


 願いは届かない。

 少女は抗う。

 振りほどけないエイレーネの腕の中で。

 簡単に逃げられるはずの、腕の中で。


「要らないの……」


 愛しい、と。


 涙を厭って面を伏せてしまった少女の最後の抗いが、どうしようもなく愛しくてたまらなかった。


 先程までずっと胸の底にしこっていた、自分の感情への疑念がほろほろと消えていく。愛していたのかとか、ただ寂しかっただけとか、ただの義務感や恐怖心からではないかとか。そんなのは些末な迷いだった。


(この()が、愛しい)


 今までの全てがどうであろうと、少女の想いがどうであろうと、たった一度でも、一瞬でもそう思ってしまったことが、全てだった。


 それは確かに、娘がこの世に産み落とされた瞬間、熱い程の小さな命の塊にこの手で触れた瞬間、感じたものと同じものだから。


「あ――」


 だから次の瞬間、腕の中で少女の姿が光に溶けるように滲み、数度の瞬きのあとにはすっかり霧散して消えてしまっても、少しも驚かなかった。


「フィリア……」


 それと同時に風の圧力も消え、サマラスが膝に手をついてゆっくりと立ち上がる。


「今のは、一体……」


 瓶の光が誰にでも見えていたように、今し方の揺蕩うような光の残滓が、サマラスにも見えたようだ。けれど言葉を用いて説明するには、エイレーネは物を知らなすぎた。だから代わりに、こう言った。


「屋敷へ、戻ります」


 その一言――否、そう告げるどこか晴れ晴れとしたような表情だけで、サマラスは全てを悟ったように頷いてくれた。伝言を頼むと、理由も聞かず「必ず」と請け負ってくれた。


 倒れた先頭の馬車を避け、別の馬車の後ろに避難していた馭者に頼んで馬を取り付けてもらう。そしてエイレーネが中に乗り込むのを紳士のように手伝ってから、最後にサマラスはこう言った。


「全てが終わったら、私の書斎へ行ってください」


「……? けれど、入ってはいけないと」


 屋敷で待機を命じられた際に言われた言葉を頭の中に反芻しながら、エイレーネが首を傾げる。けれどそれには応えず、サマラスは馭者に「出してくれ」と告げた。その視線が、恐れるように、名残惜しむように、エイレーネの紫の瞳に戻ってくる。


「さようなら、です」


 がらり、と動き出した馬車窓の向こうで、サマラスの穏やかな微笑が見えた気がした。


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