瓦解
「そんな女、殺してしまえ」
「もう要らない」
「我らを欺いた極悪人に、死を!」
まるでいつの間にか自分たちの手中に神よりの審判を賜ったとでも言うように、祈祷者たちが口々に叫ぶ。
(驚くほど上手くいったな)
これが一人や二人だったら、ここまでの暴論に至ることはなかっただろう。集団の力の恐ろしさをまざまざと見せつけられた瞬間だった。
だがその勢いに反し、あと一歩を足を踏み出す者はない。女の後ろに立ったイリシオスを、皆が一様に代理の執行官のように見つめるだけだ。
その身勝手極まる熱視線に、イリシオスは腹の底が煮えるような憤懣を抑えることができなかった。
(なんとも見事な手の平の返し方だ)
自分たちの期待を裏切ったから悪。目的を邪魔する存在は排除。
けれど自分の手を汚すほどの意志はない。だから丁度いい悪役にそれを求める。ご都合主義もいいところだ。
「こいつら、最悪」
サマラスを抑え付ける風は緩ませないまま、ティスが忌々しげに吐き捨てる。同感だった。
「ここまで、来たのに……」
女の死を望む声が高まる中、イリシオスの手元で風の音にも負ける声が囁く。見れば女が、表情を必死に冷たく保ったまま、かさかさの唇を噛み締めていた。
「あと少しで、娘をこの手に取り戻せたはずなのに……」
(……娘?)
「それとも、断頭台に乗ることは、パゴニスを出たあの時から、決まっていたこと、なのかしら……」
それは自嘲とも、悔恨ともつかない、空虚な呟きだった。
だが誰に聞かせるでもないその後には、観念したように身を屈め、その細いうなじを差し出した。まるで、斬り落とせとでもいうように。
(なんて、なんて身勝手で投げやりで、無責任な……!)
瞬間的に、考えるよりも先に手が動いていた。喉からうなじへと、風を切って振り上げられる剣。それを、
「イル、ダメ!」
「ならぬ!」
ティスの甲高い制止と、地に伏せたサマラスの大喝が寸前で押し留めた。
「…………」
はらりと、刃が触れた数本の白髪が、地に落ちる。それを凝視しながら、イリシオスは努めてゆっくりと息を吐いた。
女もまた、驚いたように声の主を見つめている。
その視線を受けながら、サマラスは身動きの出来ない体をどうにか動かして、同じく驚きに目を見開く祈祷者たちを見た。
「殺してはならぬ」
ぐぎ、と風への抵抗を何度でも繰り返しながら、サマラスは周囲に集った仲間に語りかける。
「神は、殺生をお許しにならない。それでは、今までの諸君らの献身は全て無為になってしまう」
「ですが、神は虚言もまたお許しになられていない! あの女は我々を、」
「悪が悪を行ったからと、自身の魂の審判を歪めてはならない。我々は我々の求める理想を、他者に求めるものではな――」
「く――――っだらねぇ」
言い募る祈祷者を遮って説諭するサマラスを、地を這うような罵声が暴力的なまでに捻じ伏せた。
まるで堪えきれないとでも言うように吐き出されたその一言には、敵意というには生易しすぎるほどの憎悪があった。
「理想を他者に求めない? よく言うぜ」
這いつくばったままのサマラスを射殺さんばかりに見下して、イリシオスがその口元を醜悪に歪める。
「俺に――アフィに――まだたった四歳だったルカス王子に詭弁瞞着の教義を擦り込んで、洗脳して、詐欺まがいの手段で目的を遂行させようとしていた連中が、どの口でそんなことを言うのか!」
それは、血を吐くような呪いの言葉だった。
その言葉を耳にした者はすべからく苦悶の内に息絶えよというような、不磨の呪い。
「殺生? 虚言? それを餓鬼に無理強いしておいて、実のない高説、吐き気がするぜ」
腹が立って腹が立って腹が立って止め処がなかった。奴らがどんなに崇高な理想を掲げていようと、そのために高潔と俗悪の狭間で苦悩しようと、どうでも良かった。
こいつらは突然両親と引き離されて泣いていた四歳の子供に、憐みではなく利用価値を見た。助けを求めて泣く子供に、煩いから泣くなと黙らせた。最も温もりを必要としていた子供を、四年間、冷たい石牢――地下の酒蔵に押し込めた。
それは名のある罪ではないかもしれないし、どこかの誰かは大なり小なりしたことのある些細なものかもしれない。
それでも、イリシオスにとって――アフィにとって、あれは成長途中の柔らかな心に治らない深手を刻みこんだ、まぎれもない悪夢だ。思い返せば額の痣が痛み、顔も知らない肉親に虚しく縋った。
それが、奴らが理想に生きるために必要な犠牲だと言われても、アフィにそれを受け入れる道理など微塵もない。関係がないのだ。まるで、奴らの視線にも目的にも道義にも、アフィも、アリシアでさえ、かすりもしていない。
だからサマラスはこんなにも身勝手な自論を恍惚と吐けるし、予言者は潔さを装って首を差し出す。今まで自分が行ってきた罪が、そこに在ることに目すら向けずに。
「ッ」
「予言者様!」
アフィは渦巻く情動のままに女の白髪を乱暴に引っ張った。そして今にもその細首を叩き斬ろうとしていた刃を引き、再び仰け反った喉に押し当てる。
それまでの冷静な力加減は失せ、青白い程の皮膚からぷくりと一滴、血が盛り上がる。そしてその場にいる全員を、鬼気をくゆらせて睨めつける。
サマラスも誰も、何の挙動も取らない。取れないのだ。それをまた憎々しげに睥睨してから、アフィは大きく息を吸い、宣った。
「今、ここで、二度とルカス王子とアリシア王女に手出ししないと誓え! でないと、今この場でてめぇら全員……皆殺しにしてやる」
それは要求という形を取りながらも、どこかそうなればいいという捨て鉢な思いが滲むのを止められなかった。もし、もし連中が拒むなら、今すぐにでも殺すことに何の躊躇いもなかった。
だがその意に反し、剣を持つ手は勝手に震えだして止まらなかった。それは怒りか憎しみか、ともすれば今この瞬間に宿願が叶うことへの歓喜だったのかもしれない。
カチカチと耳障りな唾鳴りが響く中、しかし周りからは「王子? 王女?」「何のことだ?」と困惑の声が上がりだす。それもまた、然もありなんだった。
彼らが追い求めるのは救世主と、それに繋がる手掛りの少年だ。それがこの国の王子王女であるとは、当初からいる者にしか知られていないのだろう。だが、導きの友愛に属している時点で、アフィにとっては同罪だ。
困惑に応える声は上がらず、女は生気を失った瞳を音もなく閉じ、誰かがこくりと生唾を飲んだ。そうして、アフィの手の震えがようよう止められそうになくなった頃。
「…………誓おう」
砂を噛むように苦く低い声が、そう応えた。サマラスだ。
その声に、女を始め、怯えたようにじりじりと下がっていた祈祷者たちが、目を剥いて息を呑んだ。それを見れば、今の一言が彼らにとってどれほど苦渋に満ちた決断だったのかは察して余りある。
(やっと、やっとだ)
十五年かけてやっと勝ち取った言葉に、アフィは感極まった思いと言葉にならない怒りとで、すぐにはまともに頭が働かなかった。
その前で、衝撃から戻り思考を働かせ始めた祈祷者たちが、弱々しい声で異論を口にし始める。
「で、ですが、サマラス様」
「そ、それでは我々はこの先、一体何を目指して……」
それは、自分の中に揺るぎようのない確固たるもの一つあれば、決して出てきようもないはずの問いだった。
それだけで、それを口にした連中は本物の信念も理想もなく、ただ他力を当てにしていたと白状しているに等しい。
それが、今まで名前も素性も生活も命すら脅かされてきたアフィの逆鱗に触れるのは必定で。
「てめぇらの、その考え方が……!」
ギリッと頭蓋に響くほどの歯軋りで、アフィはいま口を開いた全員を睨み据えた。女の首を捉えていた刃が揺れ、照準をその祈祷者に切り替えようとした、その矢先。
「我らのすべきことは、常に一つだ」
サマラスが、常の声調を取り戻して、そう言った。
それはアフィの激昂を察して先んじたというには酷く冷静で、不思議とよく通った。狼狽していた全員が、地べたに張り付いたままの男を凝視する。その視線を一つずつ受け入れるように見つめ返して、サマラスは続けた。
「神より賜った地上の楽園化のため、善良の中に生きる。それが唯一にして絶対の我々の指針であるべきだ。さすれば、救世主様は必ず顕現なされる」
「……しかし、」
「今回それが叶わなかったのは、ひとえに我らがそれを行えていないことに他ならない。我らは……私は、いまだ未熟であった」
それでもどうにか思いとどまらせようと言葉を繋ぐ祈祷者たちへ、サマラスが最後に呟いたのは、まさに苦汁を舐めるような言葉だった。
だからこそ、アフィにさえそれが偽らざる本音に聞こえた。
言葉を向けられた者たちには、それ以上の衝撃があっただろう。
「信じられない……」
「サマラス様が、そんなことを仰るなんて……」
ある者は呆然と呟き、ある者は声もなく膝を折った。そしてその意見ばかりは、アフィも同意だった。
なんの矜持も強固な信念もないような女に代わり、全ての意志を引き受けたような目をしていた男が。
何者の意見も具申も受け入れず、揺らがず、アフィが決定的な壊滅に追い込んだとしても、ただ一人最後まで抗い続けるだろうと思っていた男が。
(諦めた)
その単語が、じわじわとアフィの胸に広がり始める。その最後の一押しをしたのは、女の声だった。
「――もう、良いでしょう」
それは、サマラスの変わりようを半ば呆然と見つめていたアフィへ、というよりも、自分自身へと語りかけるような声音だった。
もう、終わらせなくてはならない。
どこかそんな使命感すら帯びた硬さで、女は続けた。
「導きの友愛は今、瓦解しました」
 




