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断罪

主人公、戻ってきました。

       ◆




 擦り傷と火傷だらけの両手で顔を覆い、病的なほど細い肩を揺らすその姿は、三十代半ばだろう年齢に見合わない白髪と相まって、実に憐れを催した。


 だがイリシオスの胸を灼いたのは、憐みとは程遠い怒りだった。


 今にも血の気が途絶えそうな白い頬に涙が伝っても、縋るように教会へと手を伸ばしても、ただただその身勝手に腹が立った。


「お前、それで……泣いて片が付くとでも思ってるのか!」


 怒りに任せて、イリシオスは掴んだままの女の白髪を更に引き上げる。

 これほどの祈祷者たちを引き連れて現れた予言者が、今更か弱い女性のように振る舞っても、同情を引くどころか逆鱗に触れるだけだった。その時、


「予言者様を放せ!」


 遠巻きにしていた筆頭――サマラスが、ついに堪えきれぬように身を乗り出した。イリシオスの血を吸ったままの剣が再びこちらに向く――前に、その背が見えない何かに押し潰された。


「がはッ?」


 まるで高密度の竜巻が直撃でもしたように、サマラスがその場に倒れ込む。ザァ、ともゴォ、ともつかない音が唸りを上げる。その鼓膜を揺らす風音は、立ち上がろうとするサマラスをなおも押し付け――否、押し潰そうとしているように、他の者には見えているだろう。


「ティス」


「イルには触らせない」


 冷静になるように求めるイリシオスの呼びかけに、ティスが銀髪を風にあおらせて紫水晶の瞳を細める。その警告は、イリシオス以外には聞こえない。だがそれでもそうせずにいられなかった気持ちは、痛い程分かった。


 今にも爆発しそうな感情を必死に堪えるティスの瞳から視線を引き剥がし、改めて喉に抜き身の剣を当てたままの女を見下ろす。

 その横顔にも、驚愕があった。


(同じような力が使えるくせに、何を)


 とまた訳も分からない憤りが湧く。だが次には、違和感に気付いて眉根を寄せた。


(ティスを見てる……?)


 まさか、という疑問はけれど、女が紡いだ言葉によって別の疑問に塗り替えられた。


「フィリア……」


 イリシオスに髪を掴まれているのも忘れたように、女がティスを見上げて呆然と呟く。


 フィリア。


 その名を、イリシオスは聞いたことがある。教会で、名も知らぬ黒髪の女が赤子をそう呼んでいた。けれどそれは、自分たちには一分の関係もない者のはずだ。


 今、この女が呼ぶべき名は。


「過去に行ってしまったのでは、なかったの……?」


 あの赤子が一体何者で、なぜ消えて、母親もまたどこへ消えたのかも、イリシオスにはどうでも良かった。一度も考えなかったわけではないが、答えが得られるものでもない。


 そんなことよりも今呼ばれるべき名は、この女たちが救世主(ソティル)と呼んで執拗に追いかけ苦しめてきた者――過去へ行ったのも、今ここに魂と心だけで存在するのも、同じたった一人の少女であるべきだ。

 だというのに。


(そんな、どこの誰とも知れない奴を今、俺たちの前で求めるのか……!)


 何度接触しても、どんなに調べても、導きの友愛(オビディアフィリア)も予言者も、正体が掴めなかった。この上さらに混乱させる気かと、イリシオスは腹立たしげに口を開いた。


「さっきもフィリアと呼んでいたな。お前らが求める救世主の名は、アリシアじゃないのか」


 その低い恫喝に、女が萎えていたはずの気力をにわかに取り戻すのが分かった。

 怯えと敵意を同じだけ濁らせた紫の瞳が、ギッとイリシオスを振り返る。


「答えろ!」


「――違う」


 と、震えを抑えてからようやく、女は否定した。


「違うわ。あの子は、そんな名前じゃない……!」


「…………!」


 その瞬間、互いの憎しみが音を立てる程にぶつかり合った。

 二人ともが剣を持って向き合っていれば、間違いなくこの瞬間に刺し違えていただろう。


 イリシオスがそれをしなかったのは、ひとえに王妃のためだ。


 当時、神隠しのように消えたルカス王子について、現場の状況から最も有力視されていたのは、噴飯ものだが事故か出奔だった。

 呆れた噂の発信源はガブラス大臣だろうが、そのせいで王妃の立場がますます悪化したことは言うまでもない。


 今は王妃は亡命中だが、その名誉のためにも、ルカス王子略取の犯人は必ず城の衛兵に引き渡す必要がある。


 それでも、怒りに震えるのを止めることは難しかった。


 この女が求めるのが、アリシアでないというのなら。


「だったら、なんで今までアリシアを付け狙った。今更、人違いで許されるとでも思うのか!」


 女の首に当てた剣が、カタカタと震えた。殺すつもりはない。それでも、十五年も溜め続けた激情はそうやすやすと言うことを聞いてはくれなかった。


 それを押し留めたのは、皮肉にもサマラスの悲痛な怒号だった。


「予言者様に、手を出すな……ぐッ!」


 風の重圧に抗って顔を上げながら、サマラスが歯を食いしばって唸る。自由にならないその体で、それでも女を守ろうとでもするかのように、その手足を前に出そうと全身の筋肉に力を込める。


 だがそんな涙ぐましい努力を、その上に審議の天秤を体現するように居座った少女が許すはずもなかった。


「しつっこい奴……!」


「くァ……ッ」


 サマラスのみならず、周囲の草地すらもべこりと凹むほどに、風の圧力が増す。これに先に反応したのは、それまでもずっと不安げにサマラスを見つつも手を出せずにいた祈祷者たちだった。


「サマラス様!」


 誰ともなく悲鳴のような声を上げ、数人がサマラスを守るようにイリシオスたちとの間に回り込む。そのうちの誰も、すぐ目の前に浮かぶティスが見えている様子はない。

 代わりに、困惑と畏怖を抱えて飛び出してきた者も、遠巻きに怯える者も、誰もがイリシオスの下で身動きの取れない女を見つめていた。


(あぁ、そういうことか)


 納得は、数拍遅れてやってきた。


 ティスが見えていない連中は、今サマラスを苦しめる風が、この女の手によるものではないかと疑っているのだ。そうでない者でも、予言者なら魔法でサマラスを助けられるはずだと考える。

 それをしないのは何故かと。


 つまり今のこの状況は、連中にとっては預言者の意志による罰か何かのように見えているのだろう。導きの友愛(オビディアフィリア)の中で最も敬虔で篤信的で指導者的立場にあった者への、至らなさに対する。


「ま、予言者(マディス)様、何故ですか……」


「悪に囚われた救世主(ソティル)様を救い出すために、サマラス様は……」


「なぜそのお力で、サマラス様をお助け下さらないのですか……」


 滑稽だった。


 全員が全員、見えない神の裁きでも畏れるように、ありもしない恐怖を口にする。それは数が多ければ多い程、集団心理によって歪な形を持つ。

 普段は信仰心となって現れていたそれが今や、ささやかで根拠もないはずの小さな不安を火種に、瞬く間に一つの力を形成しようとしていた。


 それらは、あとほんの小さな後押しで、完成する。


 だが舞台裏が見えているイリシオスからすれば、それら全てが愚かな勘違いに過ぎなかった。信じ崇めていると言いながら、目の前の現実を勝手に解釈し、勝手に疑い、勝手に結論付けている。

 その畏怖を、導きの友愛(オビディアフィリア)は詐欺師のように言を弄して煽り、利用してきた。


(だったら、今度は俺が利用する番だ)


 小さな後押しなど、簡単だ。イリシオスは目の前の愚者どもに怒鳴り散らしたいのを飲み込んで、女に耳打ちした。


「こいつらを諦めさせろ」


 全員殺して片付くなら、イリシオスは大量虐殺の汚名も厭わず剣を振っただろう。だが最終的な目的は、それでは果たせない。


 導きの友愛(オビディアフィリア)の信者全員をこの場に生きて留め、そして戦意を徹底的に挫く。そのためには、イリシオスが猛り狂うよりももっと有効的な手段がある。


 事実、イリシオスの命令に女の顔はみるみる強張り、それを雄弁に肯定していた。


(信仰心なんか、クソ喰らえだ。どんなに拒否しようとも、必ず屈服させてやる)


 容易く口を開こうとはしない女の葛藤に、イリシオスの中の昏い残忍さが鎌首をもたげた時、


「――――我らが魂の番人、天にまします神よ、父よ」


 木々は折れ、地面は抉れ、教会はいまだに燃え続けているこの場にはあまりにも不釣り合いな祈りの言葉が、しんと響いた。

 震える両の指を組み合わせ、額に当てながら、女が続ける。


「我らに罪を犯す者を我らが(ゆる)すごとく、我らが罪をも……赦し給うな」


 最後の文言の否定に、それまでざわついていた祈祷者たちの声がぴたりと静まり返る。

 それはアルワード王国では聞かない、恐らくパゴニス神教国の祈りの始まりの文言なのだろう。


 だがイリシオスは知っている。ここに神はいない。奇跡は起きない。

 期待の眼差しも、無力な信仰心も、死の恐怖には敵わない。


 そして。


「これで良いのです」


 自身を真の予言者と信じ込ませ、崇めさせた祈祷者たちを、命乞いと同義のその一言が容易く裏切る。


 その瞬間、イリシオスたちを囲む者たちの間に走った感情は複雑で、けれど手に取るように分かった。

 驚愕、困惑、拒絶、狼狽、悲嘆、失望、落胆。


 そしてそれを同じように理解しながら、女は感情を殺したような冷たい白貌で、同胞のはずの者たちの傷を抉るのだ。


「あの教会に逃げ込んだのは、救世主を騙った悪魔――神に逆らった異教徒でした。あの母子共々、我らの放った聖なる炎によって浄化され、この世から消滅しました」


 その淡々とした言い様に、一瞬誰が悪魔かと反論が口に出そうになったが、どうにか飲み込んだ。

 今はこの連中にアリシアとアフィを追わせないことこそが大事だ。たとえ二人が、もうこの時代にいないとしても。


「……で、ですがあの中にいたのは、予言者様がずっとお示しになられた救世主様だと……」


 サマラスと女の間に立った一人が、それでもどうにか口を開く。

 周りには先程の言葉だけで膝を折り、手で顔を覆う者もいる。その中から縋るように問うその声には、どんなに可能性が潰されようと縋らずにはいられない者の悲愴さが、確かにあった。


 イリシオスがどんなに調べても、パゴニス神教国出身者の集まりとしか掴めなかったが、彼らは祖国を追われ、あるいは失望し、この異国の地へと流れついた者たちだった。

 その果てに、楽園への希望の糸――救世主に続く道に巡り合った。


 再臨の時を紐解けないはずの救世主が今この時代、自分たちの眼前に顕現する。そう信じればこそ、彼らは予言者やサマラスの言葉に従ってきたのだ。だからこそ余計に、そんな確証もない否定の言葉一つで簡単に希望を手放すことなど出来なかった。


 だが、当のイリシオスにそんなことが分かるはずもない。否、分かったとしても、その想いを汲む気など到底ない。

 畢竟ひっきょう、イリシオスが取る行動は一つしかない。


 つまり、女の首に当てた白刃を、苛立ちとともに静かにその皮膚に食い込ませることだ。


「……我らが長らく求めていた救世主は、あの少女でも、ましてや少年でもなかったのです」


 と、血の匂いを強くした女は答える。


「今まで悪魔のまやかしを見破ることができなかったこと、あの炎の中でやっと、その愚かな過ちに気付いたのです」


「そんな! 救世主様は我らの理想の楽園のために、我らの前に姿をお見せになってくれると……」


「救世主のお姿を見誤っていたわたくしに、神からの救いを与えられる資格はありません。わたくしは、善く在るための魂の審判を誤った。あなた方には申し訳ありませんが……わたくしが生きている限り、救世主が地上に顕現なさることは、決してないでしょう。……決して」


 重ねて否定した女の言葉に、前に出た気丈な祈祷者たちの顔もついに挫けていく。そして最後にその顔を歪ませたのは、小さくない怒りだった。


「……どうして、」


 と、前に出た誰かが一人、呻いた。そこからは、堰を切ったように全員の口からそれは溢れ出した。


「今更になってそんな無責任なことを」

「間違った? それで謝って済むと」

「予言者様が……お前がいる限り現れないだと?」

「それなら、こいつを殺してしまえば」


 その極論が導き出されるのに、そう長い時間はかからなかった。

 祈祷者たちの目が分かりやすい妄念に憑りつかれたように、たった一つの色を宿す。

 すなわち、渇望する救世主の再臨、それを阻む予言者を騙った偽りの女の、排除を。



「――殺せ」



 誰かが、そう叫んだ。


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