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見失った愛

       ◆    ◆    ◆




(間に合う、はずだったのに……)


 サマラスが残した監視を気絶させ、屋敷を抜け出すのは簡単だった。この一年で益々体が弱り、走ることに若干の不安はあっても、魔法の力はそこまで弱まっていたわけではない。

 屋敷の外に出れば、監視命令を知らない者を捕まえて荷車を出してもらい、教会を目指した。


 教会が崩れてしまう前に。娘が再びあの場から消えてしまう前に。

 十五年間渇望し続けた娘にやっと、手が届くはずだったのに。


 それなのに。


(過去に飛んだ? わたくしたちが消えた後、フィリアが、また……)


 あり得ない、と否定することは、とても出来なかった。

 娘は物心もつかない赤子の時に、本能であの場から逃げたのだ。であれば、同じ状況に取り残されただろう十五歳の娘が、本能的に同じ行動を取らないと、どうして言えよう。


 事実、目の前で崩落を見たエイレーネは、少女の諦めたくないという声の後は、悲鳴も苦悶も聞いていない。

 あんなにも近くに――生後二か月で生き別れて以来、最も近くにいたというのに。


(そうだとしたら……)


 エイレーネにはもう、追いかける手段がなかった。娘がどの時代に逃げたのか、確かめようもない。もしそんな(すべ)があるとしても、今から魔法書を紐解き、一から調べるだけの気力が、エイレーネの中にはもう残っていなかった。


(もう、いい)


 そして次に胸をよぎったのは、どうしようもない諦念だった。


 もういない。


 そう結論付けてしまえばもう、指一本動かす理由すら見付けられなかった。


(もう、いい……)


 目の前で燃え盛る教会も、その下から聞こえる神兵たちの苦悶も、喉に当たる冷たい何かも、背後に立つ何者かも、どうでも良い。


 けれど頭上から降る声は、それを許しはしなかった。


「立て!」


 項垂れて視界を覆っていた白髪を乱暴に掴まれた。額の生え際がひりひりと痛み、強引に顔を上向けられる。

 そこでやっと前を見て、緩やかに状況を理解した。


予言者(マディス)様……」


 サマラスが用意した白い祭服をまとった祈祷者(カンター)たちが、目の前にまばらに並んで立ちすくんでいた。その目は一様に怯え困惑し、目の前で捕まった愚かな予言者と、もう一人の指導者――サマラスの間で揺れている。


 パゴニス神教国の神兵の姿は、ない。

 元々彼らは、謀反人エイレーネ王女の位置情報の提供については、半信半疑以下だった。王都に来ていた中から十人にも満たない数でこの場所に現れたのがその証左だ。

 だがその数人も、やっと見つけた王女に群がり、教会の崩壊に巻き込まれた。


(全員、死んだかしら……)


 同郷の者を案じる気持ちは、欠片も湧かなかった。

 元より、連中は最愛の人を殺した憎き仇だ。こうなる可能性を知りながらこの場に引き込んだ意図に、明確な殺意があったわけではないが、否定するつもりもなかった。


 最後にサマラスに視線を止めれば、眉間に今まで以上に深く皺を刻んだ表情が、そこにはあった。

 他の祈祷者たちよりも半歩前に出た位置で――実際には、予言者に追いつけぬままに教会が壊れ、硬直したその後ろに、同じく呆然とした祈祷者たちが縋るように集まってきたのだが――凝然と仁王立ちし、座り込んだままの予言者を蒼褪めた顔で見下ろしている。


 その顔は、抜き身の剣を首にあてられ人質となっているエイレーネよりも余程恐怖に引きつり、今にも倒れてしまいそうに見えた。現に右のふくらはぎから下は多量の出血のせいで服が赤黒く染まり、膝を付かないのが不思議なほどだった。


(そんな顔も、するのね)


 今までサマラスは、何をするにも泰然として表情を変えず、感情の発露をその顔に見たことはなかった。


 瀕死のエイレーネを拾って介抱した時も、話が噛み合わない中、何度も同じ話を繰り返した時もそうだった。突然事態を悟って家を飛び出した時も、泣きながら戻ってきた時も。怪しげな術を行使し始めた時も、見ず知らずの少年を攫ってしまった時も。


 いつでもサマラスは、眉一つ動かさず、こう言うのだ。


『私にお任せください』


 と。エイレーネはいつもそれに甘えてきた。


 ただ一つの悲願を成し遂げるためと自分に言い訳し、それ以外の全ての思考を放棄し、彼に丸投げしてきた。それが良いか悪いかを考えることすら、したことがなかった。


(あぁ、でも……)


 最後に屋敷で顔を合わせた時だけは、違った。

 あの時ばかりは、私情など見せない完璧な指導者ではなく、ただの迷える人のようだった。思えばサマラスに人間味を感じたのは、あの時が唯一かもしれない。


 だから今、激情を殺しきれない様子のサマラスに、もしかしたら怒鳴るのではないかと、エイレーネは思った。

 サマラスの制止を聞かず屋敷を抜け出し、教会に現れて邪魔をし、まんまと敵の手に落ちた愚かな女を。心の底から神の楽園を求めるサマラスは、それを阻害したエイレーネについに怒号を放つのではと。


 けれど微かに震える唇を押し開いて出てきたのは、まるで正反対の言葉だった。


「……予言者様、ご指示を」


「――――」


 どこか縋るような響きを含んだそれを、エイレーネはけれど、すぐには理解できなかった。


(……指示? 何のこと?)


 指示など、今まで誰にも出したことなどない。


 追われるエラスティスを助けたいと、その時に初めてサマラスに願いを口にしたが、それはとても指示と呼べるようなものではなかった。その後の行動も、自分を予言者と崇める者たちをまとめ、意志のある統率へと導こうとしたわけでは、決してない。


 エイレーネは生まれてからずっと、王家と神職者の間で操り人形のように生きてきた。学ぶのも祈るのも、嫁ぐのでさえも。

 その中で自分の意思で行ったことなど、たった一つ――最愛の人とともに逃げたことだけだ。


 そう考えて、ちり、と思考の片隅で何かが違和感を訴えた。


(違う……)


 逃げようと決めたのは、自分ではない。

 どうすればいいか分からなくなって頭を抱えていたエイレーネを見かねて、彼がそう言ってくれたのだ。

 独りでは、きっと決意どころか念頭にも浮かばなかった。


 その後もそうだ。子供を産んだのも、独り逃げ続けたのも、自分で決めたからでは決してない。全て彼のためだった。

 彼が子供を抱きしめたいというから、逃げろというから。だから。


(だから、わたくしは……)


 けれどそれは、エイレーネの深謀遠慮ではない。

 娘を抱いて逃げたのも、他にどうすればいいか分からなかったからだ。


 エイレーネには市井で一人生き延びる知恵も、伝手もなかった。助けてくれた村から逃げたのも単に怖かったからで、三日もすれば、空腹に泣き続ける娘をどうすればいいかも分からなくなった。


 あの教会に逃げ込んだのは、本当はもうどうしようもなくなっていたからだ。エラスティスが用意した路銀は底を尽き、食料は買えず、乳も出ない。娘は四六時中ぐずっていたし、まともに眠れた夜など一度もなかった。


 それでもパゴニス神教国から離れることしかできず、その間も娘の泣き声はどんどん脆弱になっていった。


 あの頃の恐怖は、死や痛苦に怯えるのとも違う、じわじわとまともな思考回路を蝕んでいくような正体の分からない恐ろしさで、エイレーネを心身ともに追い込んだ。


 それでも、娘を追い求め、取り戻そうとしたのは。


(……違う)


 それ以上は恐ろしい想像に辿り着いてしまいそうで、エイレーネは無意識のうちに否定の言葉を紡いでいた。


(違う。そうではないの)


 そうでなければ――愛していたからだと、何のうしろめたさもなくそう言えなければ、エイレーネはもっと根源的な問題への自信すら、失ってしまいそうだった。


 それは、つまり。


(ただ、流されるままに生きてきたのでは)


 ない、と言えなければ。そうでなければ。


(彼を、愛したのも……)


 踏み入ってはいけないと、本能が警告を鳴らす。


 けれど一度考えてしまえば、雪崩のように膨らみだしたその考えを止めることはできなかった。


 彼を愛したのは、寂しさからではないのか、と。


 名ばかりの夫からの冷遇や、周囲からの無言の期待や威圧に耐え切れなくて、唯一部屋を訪ってくれる優しい異性に、無意識に甘えていただけなのではないか。

 それはただ本能的な渇望を癒すためで、相手は彼でなくても良かったのではないか。


(エラスティス様……!)


 紫の瞳が零れ落ちる程に見開かれ、次にはぴきり、とヒビが入ったように睫毛に隠れる。たった一つの拠り所を見失ってしまえばもう、目の前の現実を見定める力など、あるはずもなかった。


 掠れた嗚咽が、知らず喉を鳴らす。

 目の前に茫洋と横たわった虚しさに、息の仕方すら分からなくなりそうだった。


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