裏切者は自分
サマラスは、翌日には数人の仲間を連れて屋敷を後にした。
そして待っている間、エイレーネは魂を取り戻したかのように様々なことを考えるようになった。
もしサマラスが成功して、エラスティスをここに連れてきたらどうしよう。エラスティスは、自分に気が付くだろうか。
きっと気が付く、という確信があった。けれどその時、彼は黒髪の十九歳と、白髪の三十四歳の二人を前に、どうするだろうか。
(いいえ、結果など目に見えている)
彼は今のエイレーネの事情を全て承知しようとも、共に逃げてきた世間知らずな娘を選ぶだろう。
憐れまれながらも、決して愛さない決意を彼の瞳に見るのは、考えるだけでも身を切るように辛かった。
(彼の愛だけが、生きる全てだったのに)
今だに娘も取り戻せていないのに、彼の愛まで拒まれれば、生きていかれるとはとても思えなかった。
気を失うように眠る直前、助けたいと願いながら、十五歳年若い自分の死を願う気持ちが湧くのを止められなかった。そのまま寝てしまえば、黒髪の娘の首を背後から絞めたり、あの川に突き落とす夢を、何度も見た。
(どうして、こんなにも業が深い……)
そうして目が覚める度に、娘を取り戻さなければという思考が、最早願望ではなく強迫観念のようにエイレーネを苛んだ。サマラスがいない間にも階下に降りて、残った者たちの誰彼構わず娘の気配のある場所を教えた。
特につい最近では、あちこちに散らばり不確実で不明瞭だった気配が、まるで一つにまとまったかのように、術の結果に鮮明に現れるようになった。きっと取り戻せる、という希望が、よりエイレーネを追い込んだ。
(娘を……フィリアを取り戻せば)
きっと、この恐ろしい妄執も消えてくれる。
何の根拠もないのに、そう決めつけるより他に自分の擦り切れた心を守る方法が分からなかった。
(娘……私のフィリアは、今どこに……)
うわ言のように、そればかりを繰り返した。
太陽の光と関係なく、意識のある時に風を読み、水の繋がりを通して遠見をし、気を失うように眠った。実際、数日おきに倒れるということが続いた。
焦りが何度も手元を狂わせ、その度に無駄に血を失った。救いを求めるように『眠る方』のそばに行こうとするだけで、呼吸は上がり、毎回立ち眩みに襲われた。
机にも羽ペンにもあちこち掠れた血がついていたが、それにすら気付けない程、エイレーネの疲労は色濃かった。
(早く……早くしなければ……)
もう一人の自分が、あの教会に行き着いてしまう。それは最早思考とも呼べないものだったが、教会、という単語が過った刹那、脳裏に小さな疑問が掠めた。
(あの教会に……神兵はどうやって現れたのかしら)
エイレーネはエラスティスと別れたあと、自分でも分からないほど無茶苦茶に森の中を逃げ回り、辿り着いた人里を前に気を失った。匿ってくれたのは親切な村人で、そこで出産と一か月程の産褥期を過ごした。
そこから逃げ出したのは再び神兵の足音を聞いたからだが、それでもあの教会に辿り着くまで、見付かってはいなかったと思う。神兵が現れたのは、あそこで寝起きして三日目の昼だった。既に尾行されていたというのなら、二日間の空白は何だったのか。
(誰かが手引きした?)
あの教会があった村は、廃れて久しいようで、人の気配もなかった。だから僅底をつく寸前の食料とともにあそこに身を隠したのだ。
あの二日間教会からは出ていないが、娘は何度もぐずって泣いていた。その声を聞いた誰かが、神兵に知らせたのだろうか。
(誰が……)
そこまで考えてやっと、エイレーネはあの場に他にも人がいたことを思い出した。確か年の頃は十代半ばの、見知らぬ男女だった。
(まさか……彼らが?)
疑念は、けれどすぐに否定した。
少年は神兵に捕まっていたエイレーネを助けてくれた。泣くしか出来ない赤子だった娘を、少女は助け上げてくれた。何より、パゴニス側は捜索にエイレーネの名前を伏せていたようだし、懸賞金をかけるとも考えにくい。
(だったら、あの二人はなぜあんな場所に……)
いたのだろう、という疑問とともに、土煙と火煙の中で見た二人の人相を思い出そうとする。確か、少年は明るい金髪に青い瞳で、額に赤紫色の痣があった。
そして少女は――灰色の髪に濃紫の瞳。
「――フィリア……!」
瞬間、エイレーネは椅子を蹴り飛ばして立ち上がっていた。
「そうよ、あれはフィリアだった。間違いない」
近くにいたのはほんの一時で、顔もまともに見ていないが、あの髪色と瞳の組み合わせはアルワードでも一度も見かけたことがない。
そして年齢――きっと十五歳だ。
だがそうなると、一つ疑問が残る。
(あの表情……あれは)
あの混乱した状況でも、少女はどこか無感情で、淡々として見えた。赤子を抱いた時も奪われた時も無表情で、だからエイレーネはとても安心していられなかった。
けれどそれはおかしいことだ。
エイレーネは確かにフィリアの心だけを引き離した。けれど八歳の時に現れた追手によって、心を閉じ込めていた瓶は割れた。あの時に、心は体と魂のいる場所へと戻っていなければおかしい。
(どういうことなの?)
あの少女が娘でないという可能性は、既にエイレーネの中ではあり得なかった。
あの少女は、娘だ。ずっと、十五年探し続けたエラスティスとの娘。
だとすれば、理由も経緯も分からなくとも、彼女はきっとあの教会に現れる。
エイレーネのすべきことは、ただ一つだった。
エイレーネはサマラスが戻るのも待たず、パゴニス神兵が王都アセノヴグラトに入ったのと同時に接触を図った。
神の楽園や救世主、予言といった単語をちらつかせれば、エイレーネの緊張をよそに、意外にもあっさりと面会は叶った。
だがそれは王都でも導きの友愛の名が少なからず広まっていたからのようで、それも歓迎でも確認でもなく、粛清と排斥の対象としてだった。
だが予言の巫女の真偽については、パゴニス側も問答無用というわけにはいかなかったらしい。そこが、エイレーネの勝機となった。
本物の予言の巫女に見えるよう、努めて平静に、冷淡に、威厳をもたせて喋った。何もかもを知っているかのように高慢に振る舞った。
駆け引きなど、人生で一度もしたことはなかったが、口を開けば開くだけ、受け身で臆病な自分は消え、頭は冴えた。冷酷になれた、といった方がいいかもしれない。
「本当に、現れるのだろうな」
「信じて頂かなくても結構ですわ。けれどわたくしは、王女がそこに現れることを知っている。それだけですもの」
「……それを教えて、貴殿に一体何の利益がある」
「わくたしが求めるのは……愛、ただそれだけですわ」
最後まで疑っていた壮年の神兵に、エイレーネは莞爾と微笑んだ。まるで神の求める理想の楽園の住人のように、美しい感情以外何も持っていないというような顔をして。
そしてこの段になれば、エイレーネももう気付いていた。あの教会で、自分を――十五年前の自分を追い詰めたのが一体誰なのか。
(結局、本当に殺してしまうのね……)
屋敷に帰るなり倒れてしまったエイレーネは、寝台の上でそう自嘲した。
悪夢から目覚める度に、殺したいわけではないと泣いていたくせに。彼女の身柄を売るのを躊躇う気持ちは、微塵も湧かなかった。
ただ少し、可哀想に、と思う。
サマラスが失敗すれば、彼女は最愛の人を喪い、そしてあの教会で娘すらも失う。けれど代わりに、自分は娘を取り戻す。
だから、これは仕方がないのだ。
二か月半が過ぎた頃、サマラスは戻ってきた。
国境付近を一か月以上捜索したが、結局男女ともに見付けられなかったという報告を、エイレーネは寝台の上で聞いた。
(それも当然――いえ、必然なのね)
パゴニス神兵の、しかも神の僕を動員しても探しきれなかったものを、たった数人の一般人が見付けられるはずもない。
今まで一度も未来を――過去を変えようとしてこなかったエイレーネは目の当たりにしていないが、それでも導き出される結論は皮肉にもイリシオスと同じだった。
(変えられないのよ、結局。でも、それでいい)
十九歳の自分と赤子が消え、教会が崩れる前に、娘を助け取り戻す。祈祷者たちで足りなくとも、神兵が少しでも兵力を回せば、きっと捕まえられる。
(今度こそ、誰にも邪魔させない)
けれどその決意に反し、エイレーネが寝台で過ごす時間は徐々に増えていった。
サマラスが屋敷を空けたことで、突然指導者のように振る舞うことになったエイレーネの心身は、その急激な変化に堪えられなかったのだ。
だが原因はそれだけでないことを、エイレーネは承知していた。
(もう、時間がない)
かさぶたになり切れない切り傷が無数にある両腕をぼんやりと眺めながら、エイレーネはこの身に残された命数を思った。
娘を探すために、休むことなく血を失い続け、魔法の力を使い続けた。それ以外にも、エイレーネは自分の生命力を削るようにして生きていることを自覚している。
だから自分の天命が幾ばくもないことも、仕方のないことだと分かっていた。
(それでも……)
それでも、娘に会えないまま死ぬ気はなかった。
それがどんなに、虚しいことだとしても。
そうして、エイレーネはサマラスに予言と称して教会で起こる出来事を語り、当日の計画や対策、準備について話し合った。パゴニス神兵の協力を仰いだことも伝えた。
確執があるだろうと思われたサマラスは拒絶するだろうかと身構えたが、眉間の皺を深くしただけだった。
だが最後、エイレーネも現場に行くと言った時だけは、サマラスは表情に険を滲ませて強く反対した。
「それだけは、決して承服できません」
確かに、最早一日の大半を寝台で過ごすエイレーネは、ほとんど病人と変わりなかった。食事や『眠る方』の元へ行く時以外、寝台から降りない日もあるくらいだ。
それが突然戦場になるかもしれない場所へ行くと言えば、反対されるのも当然だった。
けれど事ここに至って、独り屋敷で計画の成否を待つなどということは、到底出来るものではなかった。
「それでも、あそこにはフィリアが……救世主が現れるのです。わたくしが行かなければ、意味がありません」
頑強に意思を曲げないエイレーネに、とうとうサマラスは信じられないことを言い放った。
「監視を付けます。予言者様が外にお出にならないように」
今にも大喝しそうな怖い顔をしながら、けれどその声はどこか辛そうだった。こんなにも反対されたのは初めてで、エイレーネはすぐにはその意図を理解できなかった。
そして理解した瞬間に胸を去来したのは、自分でも思いがけない程に大きな虚無感だった。
「……なぜ、なぜ、分かってくれないのです。わたくしは、ただ……」
「あなたこそ、何もお分かりになってくださらない。どうしてそんなにも、ご自身を痛めつけるのです」
「それは、それしか魔法が、」
「そうではありません。私が言いたいのは……」
何を今更と抗弁しようとしたエイレーネの言を初めて遮って、サマラスが頭痛を堪えるように頭を振る。見上げる瞳が、今にも降り出しそうな空のように、滲んだ気がした。
「サマ――」
けれどそれを確かめるよりも前に、サマラスが背を向けて。
「必ず、お連れします。あなたの、救い主を」
「!」
それは、エイレーネの事情を知らないはずのサマラスが口にするには、あまりに意味深な言い回しだった。けれどそれを問い質すよりも先に、サマラスが戸に手をかけ「それと」と言を継ぐ。
「私の不在中、決して私の部屋にはお入りにならないでください」
それは、当然と言えば当然の、けれど絶対的に不審な忠告だった。
サマラスはこの屋敷に移ったとき、全てエイレーネの自由にしていいと最初に明言している。それにサマラス自身、屋敷の一室を書斎として使いながらも、決して私物化するような振る舞いはしなかった。
何より、サマラスは導きの友愛の中で最も敬虔で篤信的で、清く正しく、その信仰は潔癖とさえ言えた。
だというのに、まるで見られたくないものを隠すかのような物言いは、いかにもサマラスらしくなかった。
「……? それは、」
「失礼します」
なぜ、とエイレーネが首を傾げるのを振り向きもせず、サマラスが退室する。
戸が閉まる直前にサマラスの視線が向いていたのは、反対側に置かれたもう一つの寝台――そこに横たわる『眠る方』だった。




