三度目の喪失
ここから、しばらく視点が変わります。
◆ ◆ ◆
がらがらがしゃん、と四方八方から耳を弄する轟音が響いていた。
祈祷者たちの呪符により教会がついに全壊したのだと、うすぼんやりとした頭で思った。そしてそれが自分の頭上で起こったはずだということも。
けれど。
「……立て」
男の震えるような声が、短く命じた。
聞こえるということは、まだ死んでいないのだろうかと、回らない頭で考える。涙で熱く引きつる両目を動かせば、傷と血と土にまみれた自分の両膝が見えた。
(なぜ……)
なぜ、こんなにも汚れているのだろうかと、不意に思った。
理由は、分かっている。教会が大破して、それに巻き込まれそうになったからだ。けれど。
(なぜ、こんなことになったのかしら……)
こんなことを望んでいたわけではなかったのにと、いまだ火の勢いを残したままの無残な教会を視界の隅に捉えながら、思う。
そう、唯一望んでいたのは。
(わたくしは、娘を取り戻したかっただけだったのに)
一体、どこで間違えたのだろうか。
◆ ◆ ◆
そこが十五年も前の時代だと理解した時、最初に感じたのは、肺が空になる程の安堵だった。
(……もう、追われなくて済む)
それと同時に、愛しい赤子も同じ時代に逃げ込んでいると――すぐに見つかると安易に考えた。
パゴニス王家は、王位継承権を賜ると同時に神職者となる。国内どころか大陸内でも既に希少となった魔法を行使できる存在として、その知識と心得を叩き込まれる。
それでも、実際に魔法を目に見える程に扱える者となると、久しく現れていない。年に数度行われる神王御自ら執り行う祭祀ですら、魔法を再現した儀式で済ませることもある。
それを思えば、王家の歴史の中に時折現れる予言の巫女の存在は、魔法を識るパゴニスでさえ異質と言って良かった。
最後に予言の巫女が現れたのは、約百年前。隣国アルヘオトリス独立戦争の初期だった。
その予言の巫女は、これから起こることをまるで視てきたかのように話したと云う。それは実際に未来からやってきたためだとか、眠っている間に未来を視たためだとか、様々な説があった。
だが今なら分かる。
(彼らは、魔法の力で時を超えたのね)
命の危機に瀕し、逃げたいと強烈に願った生存本能に従い、命の守られる、その場所へ。時代が下るにつれて魔法の力が弱くなっても、その本能だけは消えなかった。
もしかしたら、その状況に陥っていないために発動しなかっただけで、王家の血を受け継ぐ者には皆その資質があるのかもしれない。
けれど娘――フィリアは、まだ生後二か月の赤子だった。怖いも逃げたいもない、生きるためだけの存在。それがなぜこの時代を選んだのかについてだけは、皆目分からなかった。
あの焼け落ちる寸前の教会で、アリシアが落としたアフィの指輪を、赤子が原始反射で握りしめたことを知らない、エイレーネには。
だが案に相違して、エイレーネの赤子はどこにも見付からなかった。満身創痍だったエイレーネに代わり、傷が癒えるまでは恩人であるサマラスが探し回ってくれたが、徒労に終わった。
その度に、エイレーネは今すぐ探しに行きたい思いを抱えて独り苦悶した。乳飲み子が一人で放り出されて、一体どうして生きていけようか。誰か親切な方が世話をしてくれてはいまいか。
気ばかりが焦るエイレーネに、サマラスは根気よく療養する重要さを解き、家の書物であれば自由に読んでよいと許可をくれた。サマラスが同郷だと、エイレーネはその時まで推測すらしなかった。
神識典の解釈本や宗教本が並ぶ中、真っ先に手が伸びたのはやはり魔法と予言の巫女に関する書だった。その中に遠方の者の身を案じる術を見付けてからは、昼夜なく没頭した。
そうして一月が過ぎ、水や風、地中の気脈を通じて娘が確かに生きていると感じられるまで、生きた心地がしなかった。
けれど紙で習っただけの実践的でない魔法はそれ以上役には立たず、いざ場所を特定しようにもまるで上手くいかなかった。
特に、サマラスが共に助けてくれた少女――一向に目を覚まさない青灰色の髪をした十四、五歳ほどの少女で、神識典から引用して『眠る方』と呼んだ――がいるせいか、術はことごとく思ったように発動しなかった。
ただ、そう遠くない場所に、フィリアが存在している。霞みのように薄っすらとしたその感覚だけが、エイレーネを生かした。
魔法の研究と鍛錬、そして体が回復してからは当てもなく王都とその周辺を彷徨う日々が続いた。
そんな中、エイレーネは出会ってしまった。
まだ十一歳の少年――幼き日のエラスティス・セフェリスに。
それは、今にして思えばとても罪深い邂逅と言えた。
一度その姿を見付けてしまえば、目で追うことを止めることなど出来なかった。目で追えばいつまでもその背を追って道を進み、屋敷を知れば時が経つのも忘れてそこに立ち尽くした。
不審者だと捕まって断罪されなかったのは、ひとえに少年の純粋さの賜物だったろう。彼が少しでも不審を抱けば、エイレーネは二度と彼に近寄ることも叶わなかったはずだ。
けれど。
「お姉さん、大丈夫?」
角を曲がった少年を追いかけて路地に入ろうとした瞬間、少年はひょっこりと顔をのぞかせて、そう尋ねた。
「っえ、え? ぁ、ぃえ、あの……」
「もしてかして迷子? 僕も、王都にいるといつも迷っちゃうんだよね。あ、でもこれ内緒ね? 一人で屋敷を抜け出してることがバレちゃうから」
突然声をかけられ、名乗るどころか返事すら出来なかったエイレーネに、少年――八年後、主に従って異国へと旅立つエラスティスは、そう言って笑った。
ずっと後を付けられていたことに気付いていて、角を曲がったフリをしてエイレーネを待ち構えていたのだろう。その少年の顔に、けれど恐れたような不審も疑念もなかった。
逆に悪戯が成功したような嬉しそうな笑顔が、あまりに無垢で。
その瞬間、心の中にあった何かがほろほろと崩れてしまうような感覚に陥った。
(エル様が、いる)
それは暴力的なまでの破壊力を持って、エイレーネの心をたちどころに蹂躙した。本来の目的を、あっさりと見失わせるほどに。
それからは、周囲の目を盗んでは幼いエラスティスに会った。
セフェリス家は子爵と家格こそ高くはないが、それでもその子息が身元も告げない不審な女と会うのを許すはずもない。それなのにエラスティスは、顔を見れば駆け寄って会いに来てくれる。恐らく誰にも秘密にしているのだろうことは、容易に察しがついた。
こんな怪しい女になぜそこまでしてくれるのか、思い切って聞いたことがある。
その時、少年は二十六歳の青年と同じ顔で、こう言ったのだ。
「だって、お姉さん、泣きそうだったのだもの」
その瞬間に感じた情動は、最早言葉にならなかった。
『だって、泣きそうだったから』
そう言ってくれたあの日からまだ半年も経っていない彼の声が、死が、頭の中で嵐のように暴れ回って、心を掻き毟った。
(あなたは、八年後のわたくしも、そう言って救ってくれるのよ)
愛しい、と思った。
七歳年上だった彼が、堪らなく愛しいと、そう。
その時から、徐々に狂っていったように、今なら思う。
娘を救いたいと言いながら、エラスティスのもとに向かう時間が圧倒的に増えた。時には一緒に食事をしたり、王都の中を共に散策したりもした。
王都の外にあるサマラスの家に戻れば、独り自己嫌悪と罪悪感に押し潰された。夜には『眠る方』に縋りついて、泣きながら謝った。
そしてふと我に返り、自分のあまりの心の弱さに愕然とするのだ。
エラスティスがいる。それだけで救われ、満足している自分がいる。娘が見つからなくても、幼い彼の愛を得られれば、それで十分な気がしている。彼を自分のものにして、彼をパゴニスに行かせないように引き留めて、この地この時代で静かに暮らせられれば。
(…………だめよ)
次々と勝手に湧いてくる恐ろしい想像に、エイレーネは心の中で必死に抵抗した。道徳とか倫理とか、最早そんなものは関係がなかった。
その思考の先にあるのは破滅だと、自分でも分かっている。
けれどすぐ目の前に、手が届きそうな程すぐそばに、馨しいまでに魅力的な誘惑がある。生きる意味の全てが、そこにあるのだ。
(そうすれば、わたくしは愛を取り戻せる)
ここには愛する人がいて、邪魔をする身分も夫もなくて、追われることもない。エイレーネが行動に移せば、それはきっと現実にできる。
最早神王の御座所で何度も何度も繰り返し夢想した無謀不可能な夢物語、ではない。
(エラスティス様……!)
どうにか残った冷静な部分で、二十六歳の彼を思う。
今やエイレーネの中で祈る相手や告解する相手は、神でも父祖でもなくなっていた。
心に彼を思い描き、彼の言葉や仕草をよすがに、僅かな理性を掻き集めるのだ。そうしなければ、自分の犯してしまいそうな罪を自覚することすら難しかった。
(わたくしが彼を引き留めれば……)
これから彼が出会うはずの十二歳の自分は、どうなるだろうか。
否、答えなどとうに分かりきっている。
(偽りの夫と、私的な会話を交わすこともなく、孤独のうちに死ぬ。それだけ)
本当の愛も知らぬまま。
それがどうしたと、酷薄に見捨てることは出来なかった。
見ることも触れることもできない神の愛だけを信じ、現実には報われることも救われることもないまま、老いて死ぬ。
いま彼の地で四歳になったはずの自分にそれを突きつけることは、あまりにも残酷で、憐れだった。
けれどならばと、幼い自分に政略結婚を拒めとも、そこから逃げ出せと言うことも、エイレーネには出来なかった。
伝えてもし現実になってしまえば、エイレーネは彼に会えない。仮にその後で彼と会えるように手引きしても、彼を再び危険な目に遭わせてしまうことに変わりはないだろう。それはとても恐ろしいことだった。
それが例え仮定の話でも、彼を二度も目の前で失うかもしれないという恐怖は、この上もなくエイレーネの心を打ちのめした。
そんなことになるくらいなら。
(何もしない。何もしたくない)
自分の幸せのために、誰かの――他でもない過去の自分の不幸を許容するということが、あまりに倒錯的で本末転倒な考えだと、十分に承知しながら。
けれど再び日が昇り、エラスティスの笑顔を見れば、そんな気持ちはまるで霧のように消え、再び温かな多幸感が胸を占めるのだ。そして夜にはまた自身の心の闇に引きずり降ろされる。
昼と夜の落差の激しさに、エイレーネの心は千々に乱れた。
 




