再戦
ティスの風が収まるよりも早く、イリシオスは駆けだしていた。
「イリシオス!」
「お前は女たちを守れ!」
追いかけようとしたアフィを一喝して留め、鞘を投げ捨てる。二人で多角的に対応すればより早く片付けられるだろうが、アリシアの側を離れさせるのは嫌だった。
代わりに、ティスが心得たように飛んできてくれたから、それで十分だ。
「ティス、森をなぎ払え!」
「まっかせて!」
教会のぐるりを囲むのは、徐々に深くなる木々。それをティスが凶暴な竜巻で横薙ぎに蹂躙し、潜んでいた十人前後の祈祷者が姿を晒す。戦闘向きでない者が、呆気なく体の制御を奪われて地に倒れる。
それを冷めた目で眺めながら、イリシオスはわずかの躊躇もなくその白い祭服の中に飛び込んだ。
「か、神と予言者の御名において、」
「遅い!」
慌てふためいて呪符を構える男の手を容赦なく斬り捨てる。ギャッ、と短い悲鳴が上がり、そこからは問答無用の乱闘となった。
弓矢や剣を持った者が前に出てイリシオスに対峙し、後陣が風や土の呪符を構える。そしてそこから少し離れた場所に、呪符と火矢を構えた一団が教会を狙っていた。
「ティス、火矢を撃たせるな!」
「分かってる!」
次々に湧いて出てくる連中をことごとく斬り捨てながら叫ぶ。言い終わるよりも早く、ティスが空気中の水分を集めて作っていた水の球を豪快に投げつけた。ジュッ、と水分の蒸発する音が上がり、あちこちから混乱の声が上がる。
その混乱に乗じて、イリシオスは内側から手当たり次第に白い祭服を蹴散らした。素人同然が扱う剣も矢も、イリシオスの前では敵ではなかった。
(こんな所でぐずぐずしてる場合じゃない)
導きの友愛の他にも、どこかにパゴニス神兵が潜んでいるはずだ。どうやって女の所在を突き止めたのかは分からないが、いるとしたらやはり教会の裏手側だろう。導きの友愛を防いでも、裏側の壁を壊されれば末路は同じだ。
(壊される前に叩く)
目の前で呪符を掲げた男を一刀のもとに斬り捨てながら、追いすがる他の者たちを振り切って走る。不自然な突風がそれを阻み、足元の地面が突然陥没し、その合間に白刃や矢が迫る。全て叩き落した。
敵の指示や悲鳴が飛び交う中、教会の入口を守るティスやアフィの怒号が混じって聞こえたが、振り返らなかった。教会の身廊上に並ぶ高窓を横目に、荒れた地面を走る。あと少しで、裏側の壁を捉える、その寸前。
「――そこまでだ」
他を威圧する気配を発して、一人の男が先を阻んだ。
くすんだ黒茶髪に白いものが混じり始めた、壮年の男。五十歳手前程だろうか。中肉中背の体についた筋肉は、いまだ衰えを知らないようだ。眉間に深く皺の刻まれた顔貌は、老いよりも異様な気迫を滲ませている。
その者の名を、イリシオスは覚えていた。
「……サマラス」
七年前、イリシオスの脇腹を抉った男。導きの友愛において、初期から関わっていると思われる、異質の存在。
イリシオスは、血と泥のついた剣先を下に滑らせながら間合いをはかる。だが悠長に睨みあう時間はなかった。
「神と予言者の御名において、土の恩寵を賜らん!」
「ッ」
背後で祝詞を唱える声が上がると同時、ボコリ、と土が掘り返る音がする。気を取られた刹那、サマラスの体躯がバネのように突撃してきた。
ギン! と目の前で剣花が散る。全体重をかけて放たれた一撃が、剣を受けたイリシオスごと沈み込ませる。踏ん張った足がけれど、がくんと沈み込む――と同時に膝を折った。対応しきれなかったサマラスが一瞬力加減を誤る。その隙を逃さずその首を横薙ぎに狙う。が、真下から返ってきた刃に寸前で弾かれた。
「クソが……ッ」
一旦後ろに飛び退って間合いをあけ、更にもう一撃、と剣先を持ち上げた時、背中に何か大きなものがぶつかった。
「ッ!?」
咄嗟に体を捻って横に避けて衝撃をいなす。ちらりと見た背後には何もない。代わりに二人を遠巻きにするように、呪符を構えた白い祭服が見えた。風か、と睨めば更に二陣、三陣と風が唸りを立てて襲ってきた。
「邪魔しやがって……!」
予言者のように切り裂くほどの威力はないようだが、鬱陶しさに体勢が崩される。その隙を逃さず、サマラスが躊躇なく剣を振り下ろす。迫る顔は殺気立つ威圧とは裏腹にどこか無表情で、だからこそ無性に腹が立った。
「……そんなやる気のない顔で、俺の邪魔をするな!」
風が止んだ一瞬をついて、サマラスの顔面目掛けて斬りかかる。ガッ、と噛み合った刃が横に弾かれ、瞬間体を捩じって左足で回し蹴りを繰り出す。
「いつも、いつもいつも……!」
倒せない苛立ちが、幾つものどうにもならなかった記憶を呼び起こす。アフィとアリシアを守る、その目的以上に、抑えきれない憎悪がイリシオスを突き動かしていた。
「そのクソ詰まらないって顔で俺を痛めつけ続けたこと、忘れてねぇぞ!」
あの冷たく狭い石牢で、四歳のアフィに人の急所を教え、殺し方を教え、神と予言者への信仰を植え付け、洗脳し、否定し続けてきた男の顔を、イリシオスは思い出した。七年前のあの時、恐怖の名と共に。
だが。
「知らんな」
縦にした腕で蹴りを防ぎながら、サマラスが無機質に吐き捨てる。
当たり前だと、頭では分かっていた。この男が散々懲罰と称して嬲ったのはいま教会でアリシアを守っているアフィで、自分ではない。
それでも、この怒りが消えるはずもなかった。
「今度こそ、仕留めてやる!」
弾かれた体を引き寄せて着地すると同時に、下から剣で喉元を狙う。イリシオスの足が素早く伸びあがる、その時、
ガシャン! という大きなものが崩れる音が、イリシオスの耳を劈いた。ハッと手を止め、土煙の上がる教会裏側に顔を向ける。いまだ続く崩落の音に混じり、軍靴と女の悲鳴とアフィの怒号が聞こえる。
「ッしまっ――」
イリシオスは考えるよりも先に駆けだしていた――その背を、サマラスが無表情のまま斬り付けた。
「がッ!?」
地に叩きつけられるような圧力と、焼きごてを当てられたような痛みが瞬間的に背中を抉る。激痛に抗えずに膝をつく目の前で、白と青の軍服が教会の背に空いた穴から雪崩れ込むのが見えた。
「イル!」
入口そばで白い祭服を抑えていたティスが叫ぶ。連中を抑えていた風が止み、その隙に逃げ出した者たちが再び呪符を構える。油と布が燃える焦げ臭い臭いが鼻先を掠めたその時だった。
「――火はだめ!」
「!」
場違いな女の悲鳴が響き渡った。
誰だ、と思考するよりも早く、サマラスが反応したのが分かった。イリシオスの背を狙っていたはずの殺気が、愕然としたものに変わっている。
それだけで、声の主の予想がついた。
「予言者か!」
今まで一度も現場に出てこなかった女が、今この場に来ている。そう思った刹那、背中の痛みなど吹き飛んでいた。
震える膝の訴えも聞かずに足を踏み出す。その横で、土を抉る程の威力でサマラスもまた駆けだしていた。
「っさせるか!」
視界を横切った右のふくらはぎを横薙ぎに一閃する。目の前で鮮血がしぶき、サマラスの猛禽の眼光がぐりん、とイリシオスを振り向いた。
「この、異教徒の、無分別者が……!」
サマラスの目に初めて人間臭い瞋恚の焔が灯った瞬間だった。
「貴様が、」
と、膝下を血に濡らしてなお膝を折らない男が、憎々しげに吐き捨てる。
「貴様こそが、彼女の、唯一の宿願を、何度も阻んできたというのに……!」
歯が擦り減りそうな程に一言一言を噛み締めながら向けられたのは、けれど憎悪というよりも、どこか嫉妬に似ていて。
「……それは、」
それが幼いアフィを痛めつけた本当の理由なのではと思えば、腹立たしさは何倍にも膨れ上がった。
「こっちの台詞だ!」
裂帛の気合で振り上げた剣が、サマラスの大振りな剣を真っ向から迎え撃つ。ガチッ、と刃が毀れる程の音を上げて、血まみれの白刃が交わった。決して交わることのない互いの情念を乗せて。
しかし互いの刃が互いの皮膚をあと一歩で破ろうという寸前、
「イル、火が!」
ティスの悲鳴と、炎が教会を飲み込む轟音とが重なった。
「アフィ、外に逃げろ!」
叫んでも意味がないと知りながら、叫ばずにはいられなかった。
半ば呆然とするサマラスを捨て置くように走り出すその目の前で、炎の勢いはいや増し、風の塊がそれを後押しする。
ドガァァン……ッ
そしてついに、辛うじて残っていた教会の建材のほとんどが、外からの衝撃に砂上の楼閣のように崩れ出した。
あの下にはまだ、アリシアがいるのに。
(結局、助けられないのか)
イリシオスが一人思い悩んでも、どんなに二人の未来を守ろうとしても、どうにもならない。
仮にどこかの誰かが決めた運命というものがあったとして、どんなに抗っても刃向かっても、何も変えることができないのだというのなら、何故二人を過去に向かわせたのか。
イリシオスがどんなに奔走しようとも、全ての出来事は起き、全ての出来事は変えられなかった。ただただ無力を思い知らせるためだとしか思えない。
(何もかも、無意味……)
壊れた外壁に向けていた足が、がくんと緩む。その横で、サマラスが声を詰まらせて叫んだ。
「予言者様、いけません!」
ふくらはぎを斬られろくに走れないサマラスの視線の先で、小さな人影が炎の中に飛び込む。長い白髪が閃くのが見えた瞬間、今し方感じた無力感など忘れて追いかけていた。
(予言者、あいつだけは……!)
散々、二人を苦しめてきた災厄の権化を、目の前でみすみす見逃すことだけは出来なかった。
もしかしたら、あの女があの場に現れたからこそ、二人はこの時代から消されたのかもしれない。だとすれば、希望はまだある。
背中の傷がじんじんと熱を発し、脂汗が額のバンダナをぐっしょりと濡らすのも構わず、熱風と炎と砂煙の中に飛び込む。
「イル、行っちゃだめ!」
ティスの制止も遠く、ガラガラと音を立て続ける瓦礫の中を行く。神兵の軍服がちらつく中、白髪が揺れる背中を捉える。無言で血塗れの剣を振り上げた時、
「「フィリア!」」
絶叫が二つ、無蓋となった教会内に重なって木霊した。一つは、聞き覚えがある。赤ん坊を抱いていた女が、確かその名を呼んでいた。けれどもう一つの声は、確かに目の前の女から発せられた。
「フィリア! フィリア!」
何度も、何度も。一歩足を出すごとにその名を呼ぶ。まるで魂が血を吐くように。喉が張り裂ける程に。何度も。
「フィリア! 行かないで、わたくしのフィリア……!」
目の前に躍る火などまるで眼中にないかのように手を伸ばす女の首を、イリシオスは背後から乱暴に締め上げた。白い髪が躍り、驚いた紫の瞳がびくりとイリシオスを振り仰ぐ。その瞬間、強く香った血の匂いに、カッと頭に血が上った。
「お前がやったのか!」
くひゅっと呼気が絞られる音が、確かに腕の下でした。暴れればあっさりと折れてしまいそうなほどに細すぎる女の首は、けれどそんなことには一切頓着せずに、涙を散らしてもがいた。
「やめ…放して! フィリアが、フィリアがあそこにいるの……!」
腕の拘束に力を込めても、女は少しもイリシオスを顧みない。あの時、神兵に捕まっていた女のように暴れ、ただ前へ進むことだけしか考えていない。
前へ――炎に取り囲まれた中、赤子が消え、女が消え、残る少年少女に瓦礫が降りかかるその只中へ。
「フィリア! もう、あと、あと少しなのに……!」
「お前がやったんだろ! 俺たちを――アフィとアリシアを過去に飛ばして、何がしたいんだ!」
全ての元凶が、今この腕の中にある。そう思えば、今にもこの首を締め上げてしまわない自分が不思議なほどだった。が。
「――――過去?」
抗うことをぴたりと止め、女が血の気の失った顔をゆっくりと振り向かせる。
「過去とは、どういう……過去に逃げるのは、娘と、わたくしだけではないの?」
その表情は、嘘をついているというにはあまりにも悲壮だった。
だから思わず、その問いかけを正面から受けてしまった。
それがきっと、間違いだった。
「逃げる? お前こそ、何を言って――」
イリシオスが反射的に口にした疑問を遮って、教会の中から最後の悲鳴が上がる。
「やめてくれ……アリシア……!」
「もう、諦めたく、ない……ッ」
それは、十五年前にも聞いた少年少女の、最後の瞬間の痛切な願いだった。
二人の声と息遣いが、目の前でガラガラと崩れ続ける瓦礫に飲み込まれて、ぷつりと消える。
そのあとには、あぁ、という吐息とも嗚咽ともつかない声が、後を追えぬ二人の間に落ちるばかりだった。




