教会
幾つかの準備を整えたあと、イリシオスは迷うことなくカロソフォス城内の王母の私室を目指した。
(すっかり、不法侵入が当たり前になったな)
もう三十路になろうというのに、自分の素行の悪さには呆れてしまう。
毛足の長い絨毯が足音を殺してくれる中、原初の神々が天上に昇った神話の一場面を描いた天井画や、金の浮き彫りで表現された四季を司る神々が描かれた壁の間を駆け抜ける。東翼に近付くにつれ、護衛の数と、精緻に彫刻細工され金箔を施された壺や絵皿、果ては用途も不明の工芸品が煩い程に増えた。
そうして、最も華美で派手な美術品が幾つも並んだ回廊の中に、目的の部屋はあった。
身を隠した回廊の角から見える護衛は二人。無人であれば数が減るから、恐らくまだ室内にいるのだろう。
摂政であれば、午前中は政務についているのが通常なはずだ。だが幼君の即位後ずっと調べてきたところ、実際にはガブラス大臣がほぼ宰相のように振る舞っているようだった。
摂政としては自身の要望と、息子の立場と権力ばかりを気にした。それが叶えば、あとの政治への関心はさほどもない。王母はどこまでも貴人で、そして母親だった。
サロリナ王妃とアリシア王女の抹殺命令を取り下げないのも、見方を変えれば愛情の一端と言えるのかもしれない。
(だが、いつまでもそれじゃ、王妃に会いに行けない)
懐深くに隠したままの指輪を服越しに一度握ってから、ふ、と息を整える。それから、食器室で掠めてきたフォークを回廊の反対側に投げた。
カラン、と控えめな落下音に、一人の護衛がピクリと、もう一人がすぐさま確認に足を踏み出す。そうして生じた死角に音もなく駆け込むと、まず動かなかった護衛の一人の背後に滑り込んだ。
「なっ、」
護衛が発したその声の間に顎を取り、うなじとその直上を合わせて二度叩く。体がびくりと跳ね、そしてすぐに沈黙する。その一語で、もう一人の護衛がすぐさま異変に気付いた。
「貴様――」
そう言おうとした男の喉仏を、僅かに屈んで正面下方から掴み上げる。血の流れを圧迫して呼吸を奪う。ものの数秒で護衛は瞼を下ろし、緩やかに気絶した。
回廊の左右を見渡し、物音を聞きつけて現れる者がいないことを確認してから、今度は目の前の重厚な樫の扉に耳を当てる。王母の部屋は控えの間、書斎、寝室と続いている。扉の向こうの控えの間は、案の定無人だった。
気絶した護衛二人を引きずって扉の中に滑り込む。問題は、王母が常にくつろいでいる書斎だった。
もうすぐ昼になる今時分では、長たらしい身支度と昼餐までの、空白の時間のはずだ。それでも、王母が一人でいることはまずない。現に扉の向こうからは、貴婦人たちが笑いさざめく声が途切れ途切れに聞こえて来ていた。
(さて、どうしたものか)
思案は、けれど一瞬だった。扉の向こうで把手に手のかかる音がした瞬間、イリシオスは扉に体を貼り付けた。話し声が近まり、がちゃりと留め具が外れる音がする。
「……から、聞いて参りますね」
おっとりとした女の声が扉の隙間から漏れ、声に相応しい容姿とドレス姿の女性が現れた。ぱたん、と後ろ手に扉を閉め、ふぅ、と息を吐く。その口を、草むらに隠れていた蛇のような素早さをもって、左手で塞いだ。
「!?」
女は、当然のごとくまるで状況を理解できていなかった。最初に出てきた不運を憐れと思いながらも、その女の視界に入るように、右手で腰の剣を半分ほど抜いて白刃を見せる。女の顔色がみるみるうちに色褪せるのを見ながら、イリシオスは耳の後ろから囁いた。
「大人しくしてくれれば危害は加えない」
「……っ」
女が慌てたように小刻みに首を縦に振る。
ティスみたいに勝気な娘でなくて助かったと思いながら、イリシオスは要求を切り出した。
「王母が中にいるだろ。控えの間に呼び出してくれ」
「……っ」
女は数秒考えるように戸惑ったが、その後には恐々と頷いた。刀身を収めたままの鞘の石突を女の背に当てながら、一言でも騒げば切り捨てると脅す。女は今にも震えて膝が砕けそうだったし、イリシオスは最低の気分だったが、躊躇はなかった。
目顔で合図して、口を塞いでいた手を放す。女は生唾を飲み込むと、あえてノックはせずにいま閉じたばかりの扉を引き、顔だけをそこから覗かせた。
「……あの、コーラリア様。少し、」
「なぁに」
女のまごついたような声に、わずかに苛立った声が返る。イリシオスは直接顔を見たことも声を聞いたこともないが、この女だと確信できた。
女の背を、鞘で少しだけ小突く。
「その、ご相談が……」
女がそう言ったきり口籠ると、わざとらしい溜息のあとにヒールが床を叩く音が鳴った。扉が大きく開かれ、一際贅を凝らしたドレスの裾が二人の前に現れる。
三十半ばの、声の通りの気の強そうな女だ、と視認してからの動きは素早かった。
ドレスが完全に控えの間に入るや否や扉を閉め、女を解放すると同時に新たに現れた女の首筋に剣先を突き付ける。悲鳴は上げないのか、と思う程、女の反応は緩慢だった。
「声は出すな」
「なっ、なん――」
最初の女よりも頭の回転が悪いらしい女――王母コーラリアの首の皮に、剣先をぷつりと刺す。痛みに硬直したコーラリアの視線が床に転がる護衛二人に向き、それでようやく事態を理解したらしい。コーラリアは、青ざめた顔で唇を引き結んだ。
「あんたに求めるのは是だけだ」
数ミリだけ剣を引き、首肯を求める。コーラリアは先の女よりも酷く震えながら、どうにか首を動かした。
「前国王妃サロリナとその王女アリシアに下した抹殺命令を取り下げろ」
「……は――」
コーラリアが震えを抑えて口を開こうとしたのを、白刃の冷気で黙らせる。それから、ズボンのポケットに丁寧に押し込んでいたモノを左手に取りだした。ゆっくりと指を開いていく。
「そ――」
「喋るな。――確かにアリシア王女の髪だ」
そこに乗っていたのは、毛先がちぢれ、綺麗とはお世辞にも言えない青灰髪の一房。ティスに言われるままに整えた時、切り落とした毛先を黙って保管しておいたものだった。
全ては、この嘘と取引のために。
「俺が看取った。王妃は生きているが、彼女に継承権はない。但し、抹殺命令を取り下げなければ、あんたら親子にも同じ手段を取る用意がある」
◆
追手の足音を聞きながらカロソフォス城を後にすれば、あとは時間との戦いだった。
アフィとアリシアは町に出て祭りの行列を見ているはずだが、のんびりしていれば導きの友愛に先を越される。出来れば二人が町を出る前に、遅くとも教会からは離したい。
だがやはり、下町に辿り着けばティスの周りに白い祭服が見えた。問答無用でその背中を順に沈めていく。その間にやはりアリシアは怯え切った顔で逃げ出し、アフィがその背を追いかける。
その間にも更に白い祭服は増え、それに手こずる間に、ティスが二人を見失ってしまう。
「ティス! 二人は」
「見失った! 多分、もう城門は出ちゃったと思う」
「やっぱり、防げねぇのか……!」
何もかもが思ったようにいかない。イリシオスは一途城門へと駆けながら、苦々しく吐き捨てた。
王都に来ても王妃の足取りに関する新しい手掛かりは得られないし、王母に対しては結局脅迫まがいの手段しか取れなかった。王都に入る前に確認した隠れ家は焼け落ちたまま放置されていたし、町中を闊歩するパゴニス神教国の神兵に至っては手の打ちようもない。
(それでも)
それでも、イリシオスは走った。けれどその胸中には、暗雲のような不安と迷いが渦巻いていた。
今日のことは、ティスと何度も話し合ってきた。二人が過去に戻ったのは何故か。予言者の呪符のせいなのか。それとも別の要因があるのか。
どんなに話しても決定的な確証はなく、ティスはいつも最後には自分が根源も知らず操っている力の一端なのではなかと自分を責めた。
だがイリシオスは原因よりも、その事象がアフィたちにとって必要なのかどうか、そのことの方が重要だった。
今まで一度も、何かを成し遂げたことも阻止できたこともない。それでも、考えてしまう。もし二人が過去に行かなかったら、どうなるのだろうか、と。
アリシアは肉体を失わないが、代わりに心も取り戻せない。幼いルカス王子は誘拐されない代わりに、アリシア王女があの牢獄を味わうかもれしない。そうでなくとも、心は奪われるだろうし、彼女を孤児売買の苦境から救う者が他に現れるとも思えない。
そう思えばこそ、イリシオスの足は鈍った。それでも、進めばあの教会には辿り着く。
先行して中の様子を見に行っていたティスと目が合うと、しぃ、と人差し指を唇の前に立てられた。
「……?」
訝しみながら教会の取れかけた木戸に身を寄せると、側に戻ってきたティスが小声で「もう少しだけ」と囁いた。
「何があるんだ?」
口だけ動かして問うと、同じく小声で「忘れちゃったの?」と怒りながら、ティスは懐かしむように目を細めた。
「今、すごく、すっごく大事な場面なの。私にとって――アリシアにとって」
視線で促されて、教会内の声に耳を澄ませる。聞こえてきたのは、今にも泣きそうな、どこか悔しそうな、アフィの声。
「――頑張ったんだな」
それが耳に届いた途端、イリシオスの脳裏に十五年前の景色が鮮やかに蘇った。
躊躇と困惑と一緒に抱きしめた、今よりもずっと熱くて確かなアリシアの体温。ずっと、報われないと思っていた四年間の想い。腕の中で震える小さな体。永遠にそうしていたいような、走って逃げ出したいような、ちぐはぐであっちこっちな感情。そして。
「あ……ぁ、あ……」
押し殺した、乾いた泣き声。この声を、イリシオスはもう二度と聞きたくなかった。
今にも飛び出して、アフィから奪って強く抱きしめたくなる。それを堪えるために両の拳をきつく握りしめれば、ティスに、ばかね、と声もなく慰められた。
「もう一人で逃げるのはなしだ」
アフィがアリシアを説得したのを確認してから、イリシオスは足音を立てて中に踏み入った。
「イリシオス、何しに来た」
アフィがアリシアを背に隠し、警戒心も露わに詰問する。二人の懸念は分かっているしどうしたものかと思ったが、この問いにはこう答えるしかなかった。
「迎えにきたに決まってんだろ」
「アリシアをか」
「あー」
十五年前と同じ会話を繰り返している気がする、と、イリシオスは頭を掻いた。この流れで説明を省こうとしても、アフィは従わない。
イリシオスは記憶にある限り会話を先手取って、時間を節約することにした。
「言っとくが、俺は敵じゃない。お前がアリシアを守るなら、それでいい。俺が今考えているのは、この場をどう速やかに離脱するかだけだ」
だが、腕を組んでつらつらと言ったのがいけなかったのか。アフィはぐっと眉根を寄せると、明らかに怪訝な顔をした。
「は? 突然何を……そんな風に言われて、信じる奴がいると、」
「ここを離れられれば、その時にはお前に関して知っていることを全て話す」
「な――」
だから、アフィが絶対に反応する条件を出した。案の定、アフィは信じられないという風に目を見開いた。一瞬だけ視線をティスに移し、それからどっと疲れたように首を横に振る。
「……イリシオス。お前が何を考えてんのか、全然分かんねぇよ」
何故今更、しかもこんなタイミングで、と思っているのだろう。その不信感は、イリシオスにもよく分かった。だがこの件が片付けば、アフィに真実を話すことに不都合はなくなるはずだ。
だがその前に、しなければならないことは山とある。
「だから、話すっつってんだろ。だがその前に」
ちらり、とイリシオスは祭壇の奥の床に視線を滑らせる。細かな瓦礫と砂埃で薄汚れた教会の中で、奥まった内陣の辺りの床だけがまだらに消されている。まるでつい最近、誰かがそこを歩いたかのように。
(……いる)
イリシオスは十五年越しの確信を持って、奥にある半円状の小祭室へと足を踏み入れた。
果たして一部が崩れた壁の陰に、二対の紫の瞳はあった。
「……こ、来ないで……」
その細い両腕と青みがかった黒髪にほとんど隠れてしまうような赤子を抱きしめ、床に蹲った女が酷く怯えたように見上げてくる。まるで唐突に現れたイリシオスが、悪魔の使者か何かのような怯えようだ。
だが原因は分かっている。
王都にもいたパゴニス神教国の神兵が追っていたのが、この母子だったのだろう。罪人なのかどうか、その理由は分からないけれど。
「何でこんな所に赤ん坊が……」
「あんた、何者なんだ」
戸惑うアフィは捨て置いて、イリシオスは順序を全部すっ飛ばして単刀直入にそう聞いた。
女は怯えを更に強め、赤子を抱く手に憐れなほど力を籠める。
「……あ、あなたこそ、何者なのですか。やはり……パゴニスの手の者、」
「あー、やっぱめんどくせぇな」
女の震える声を遮って、イリシオスは再び頭を掻いた。折角アフィとの手間を省いたのに、結局この問答が発生する。導きの友愛が来る前に素性だけでも確認しようと思ったのだが、やはり今はこの場を離れることを最優先すべきのようだ。
「詳しい話は後だ。あんたを追ってる神兵もそのうちここに辿り着く。今は全員で逃げるぞ」
「え――」
「はっ?」
女とアフィが、異口同音に狼狽の声を上げた。だが全員の理解を待つ時間などない。
恐らく連中は、既にこの丘を全方位から囲い込んでいる。包囲が完成する前に離れなければ――という思考はけれど、外を見張っていたティスの上げた声によって虚しく途絶えた。
「イル! 奴ら来たよ!」
「クソッ。逃げるぞ、教会を壊される前に」
イリシオスが口汚く応じて、女の手を取ろうと身を乗り出す。それを女が反射的に避けた時だった。
ドガン! と何かがぶつかるような音が教会内に響き渡った。
 




