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名前 Ⅰ

今日は諸事情で2回のみの更新になります。

 アリシアが奔馬(ほんば)のような心をどうにか落ち着けて息を整える間、アフィの顔色はどんどん悪くなった。

 アフィはアリシアに呼びかける傍ら、端が焼け焦げた外套を裂いて即席の包帯を作り、傷が開かないように圧迫していたが、それだけであの重傷がどうにかなるはずもない。


 けれどアフィは、アリシアが落ち着きを取り戻し、涙声のまま説明するのを聞き終えると、すぐに次の行動に移った。

 アリシアの心配もよそに隠れ家の鎮火をアリシアに頼み、延焼の心配がないと分かると、自分も剣を杖代わりにして立ち上がる。


「アフィ! ダメよ、もう少し休んで治療を、」


「ルカス王子は」


「風で気配を追えてるわ。だから、」


「そっか。……元気になったな」


 血の気の失せた顔をぎこちなく動かして、アフィが笑う。


 アリシアの(つたな)い説明を完全に理解したわけではないだろうに、受け止めて、祝福してくれた。そのことが嬉しいのに申し訳なくて、アリシアは先を続けられなくなった。


 それを眺めながら、アフィもまた複雑な気持ちでその先の言葉を持て余した。


 俯くアリシアの表情は、雄弁だった。

 紫水晶のような輝きを帯びた瞳は潤み、眉尻は下がり、今にもまた泣き出しそうに唇が震えている。心のままに紡がれる口調は抑揚豊かで、既に記憶に遠いティスを思い起こさせた。


(同じだ……)


 アリシアはティスになった。アフィもまた、ルカス王子を迎えに行けば、イリシオスになるのだろう。

 そして導きの友愛(オビディアフィリア)は、これから何年も執念深くアフィを付け狙う。


 だが、とも思う。

 今の時点でルカス王子は無事逃げられたとしても、この先も連中が同じように行動するとは限らない。それはアフィがイリシオスのあの時の行動を知らないがゆえの不安だろうが、その胸をざわつかせる本当の要因に、アフィは既に気付いていた。


 殿(しんがり)に立ち、最後まで剣で予言者を守護した男――サマラス。あの射貫くような鋭い眼差しが、アフィを妙に浮足立たせ、強い不安感をあおるのだ。


(あの男が、ルカス王子を探しに向かったら)


 あの男は、まだ組織として素人同然の連中の中にあって、全く性格を異にしていた。そしてアフィは、ともすれば足元も危ういほどの重傷だ。今再び遭えば、護りきれる自信はなかった。


「ずっと、過去を変えたかった。でも、少しも変えられなかった。だからって、一人で山をさまようルカス王子が、オレと同じように無事だという保証があるとは限らない」


「アフィ……」


「だから、今は少しでも早く、王子の無事を確認したいんだ」


 顎に脂汗を滴らせてそう懇願したアフィに、結局アリシアは、先に荷物の中のもので応急処置をすることを条件に頷くしかなかった。





 アリシアの先導で向かったのは、予言者たちが逃げたのとは反対にある山の中だった。

 王家の御領林なのか、人が分け入った形跡は少なく、踏みならされた道はすぐに獣道に変わった。道なき道を上り、新しく踏み折られた枯れ枝や下草を(しるべ)に少年の姿を探す。

 伸び放題になった枝葉の先にその影を見付けたのは、アリシアが先だった。


 ぴゅうと飛んでいき、腐葉土に埋もれるようにして倒れている少年の顔を上から覗き込む。


「……無事逃げられたみたいだね」


「!」


 少年が、伏せていた顔を弾かれたように僅かに上げる。けれどそれは一瞬で、すぐに瞼をいかにも重そうに閉じてしまった。


「あっ、だ、大丈夫っ?」


「大丈夫だ。安心して、張り詰めていた気が緩んだんだ」


 慌てたアリシアに、追いついたアフィが優しく説明する。それから、アリシアに風で少年の体重を減らしてもらいながら、アフィは野営の出来る場所まで少年を抱えて歩いた。


(見覚えがある、気がする)


 もう十五年前も前の記憶を引っ張り出しながら、アフィは樫の巨木の下の、わずかに開けた場所に少年を横たえた。そして自分も木の根方に腰を下ろし、やっと大きく息を吐く。


 脇腹の傷が、しつこくどくどくと脈打っていた。気を抜けば、アフィもまた意識を手放しそうだった。だが、考えなければならないことは無数にある。


 ルカス王子を取り戻しても、宮廷が落ち着かなければ戻れない。何より、自身の出自についての記憶を失ったルカス王子に、どう説明するべきかも問題だった。


 今はまだ助け出したばかりで、思考も目的も定まらず、何かを教えても、そうそう発作的な行動には出ないだろう。だが時間が経てば、その心境も変わる。


 アフィの性格であれば、自分が王子だと知れば、確かめずにいられないだろう。今は内乱の気配があり近寄るべきではないと諭しても、聞くとは思えない。


(それくらいに、オレはずっと飢えていた)


 アフィは、ずっと自分の名前を知りたかったし、家族のことを探し求めていた。その寂しさは痛い程承知しているし、自分がイリシオスなら絶対に教えてやるのだと、少し前まで思っていた。


 けれどいざその立場になれば、それよりも大事なことが、目の前には幾つもあった。


(王女を守るためにその身を削っている王妃の負担を、これ以上増やしたくはない)


 それでも、王妃はルカス王子との再会を何よりも望むだろう。だが二人が会えば、その時から二人の命は更に危うくなる。

 一度そう考えれば、もう一人の自分を優先する気持ちは、あっさりと萎えていた。


「アリシア」


「なぁに」


 ルカス王子の横に座り、その寝顔を愛おしげに眺めていたアリシアに呼びかける。大きな目をぱちくりと瞬いて振り向いたアリシアの反応があまりに軽やかで、アフィはつい苦笑した。


 喜ぶべきことだと分かってはいるが、八年の間に見慣れた表情との落差が大きすぎて、頭が軽く混乱している気がする。


「ルカス王子に事情を説明するのは、今は止めようと思う」


 苦笑を収めてそう告げると、アリシアがつぶらな瞳を曇らせて「……でも」と言った。言いたいことは十分伝わったが、それに緩やかに首を振って、アフィは言葉を続けた。


「体力が回復したら、一度王都に戻る。そこで王妃の様子を確認し、王子を無事に送り届けられそうなら、説明する。でなければ」


 その続きを口にするのは、少なからず常とは違う労力を要した。

 それを言うのはつまり、幼いルカス王子に求める全てを与えないことでもあるし、自分を嘘で塗り固めることでもあった。

 何より、やっと心を取り戻したアリシアに最初に強要するのが、自分を偽る嘘だというのが、やりきれなかった。


 それでも、この手段がきっと最善なのだと、アフィは自分を無理やり納得させるしかない。


「折を見て話す。それまでは、……黙っててくれないか?」


 酷いことを言っている自覚はあった。困ったように眉尻を下げるアリシアが、いっそアフィを罵ってくれればいいのにと、身勝手なことを思った。


 アリシアは、一度瞼を伏せると、魂と心が揃ってなお触れられない少年の擦り傷と煤のついた頬を見つめた。額の蝶のような痣に指を伸ばし、けれど結局触れる前に指を握り込む。

 そして顔を上げると、しようのない幼子を見守るような種類の笑みで頷いてくれた。


「大丈夫。みんなの安全のためだもんね」


「…………ッ」


 その慈しみ深い笑みに、アフィは不思議と王妃の面影を感じ、そして強烈な罪悪感に身を苛んだ。

 だがそんなアフィの胸中など知る由もなく、アリシアは「でも」と表情をころころと変えた。


「そうなると、名前どうしよっか」


 ルカス王子の元を離れ、隣にちょこんと舞い戻りながら、アリシアが言う。その特に悩んでいる風でもない声に、アフィは話題を変えてくれたのだと察する。


 だが確かにこの後すぐに問題になる名前については、アフィもどうしたものかとは思っていた。ひねくれずにイリシオスと名乗るべきなのか、それとも、違う名前を名乗れば、その後に起きる何かも変わるのだろうか。


「……さぁな」


 結局、そんなぶっきらぼうな言葉しか出なかった。だがアリシアはまるで気にした様子もなく、ぐっと下からアフィの顔を覗き込んできた。そしてニッ、と笑う。


「!」


 それは、あまりに美しい笑みだった。


 無垢な子供のように天真爛漫ながら、細められた紫水晶の瞳は何もかもを見通すようにアフィを捉えて離さない。輝きを増して銀色にも見える髪に縁どられた頬は少女のような桃色で、けれど緩く結ばれた口許は今にもアフィの唇を奪いそうな大人の妖艶さがあった。


(っな、なんで今更……ッ)


 それ以上は直視できず、アフィは思わず仰け反って顔を背けていた。

 アリシアの魂の年齢はアフィと同じで、けれど見た目は肉体を失った十五歳のまま、そしてその中に入っているのは八歳のいとけない心だ。


 大人の魂と、守りたくなるような幼い心。相反する二つが作る笑顔は美しいのにちぐはぐで、その不均衡が持つ危うさは、殺したはずの恋心を目覚めさせるには十分な威力を持っていた。


(まだまだこれからなのに……困るぜ)


 こんな不意打ちは、困る。

 だというのに、アリシアの瞳に宿る優しさは少しも変わりがなくて、どうしようもなく愛おしく感じた。


(いや、これ以上はダメだろ、オレ)


 家族として愛すると、あの日に決めたのに。


「アフィ?」


 勝手に滲みそうになった涙を、瞼を閉じてなんとかやり過ごす。それからやっと視線をアリシアに戻す。

 迎えてくれた瞳は、やはり優しさばかりがあった。


「……何でもない」


 ぎこちなく笑うと、アリシアは納得するように笑みを深めて、視線をルカス王子に戻した。


「ティスって、どういう意味か知ってる?」


 そして何事もなく会話を再開する横顔を見て、あぁ、気付いていないふりをしてくれたのだと知る。かなわないなと思った。

 そう、イリシオスが、ティスには何もかも甘く、頭が上がらなかったように。


 アフィはそれまでの荒んだような思考が消えるのを感じながら、先程とは違う種類の苦笑を滲ませた。


「確か、古アルヘオトリス語で『誰か』って意味だったと思うけど」


「『誰か』? 誰でもない誰か、かなぁ」


「本名じゃないとは思ってたけど、どうせイリシオスが適当に付けたくらいにしか思ってなかったから」


 実際、アフィは過去に飛ばされるまで、ティスの存在については深く追及したことはなかった。だがアリシアが正体を伏せるために『誰か(ティス)』と名乗ったのならば、それは酷く寂しいことに思えた。


「アフィは、イリシオスを名乗るの?」


「……分からない。こいつが、何と名乗るかだな」


 アリシアの無邪気を装った問いに、アフィは上手く平静を装えないまま、そう答えた。


 結論から言えば、その夜にやっと目を覚ましたルカス王子は、やはり自分のことは何も覚えていなかった。名前を決めろと言うと「不屈(アフィリオス)」と名乗った。その瞳が、自分の思っていたよりも少しも濁っていなくて、なぜだか胸が苦しくなった。


 その苦しさの理由は分からないまま、アフィは愚か者(イリシオス)になった。


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