表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/53

奪還

 アリシアに建物内の監視を任せて放り込んだ火種は、すぐに部屋を一つ焼き、更に廊下、奥の部屋へと広がった。


 アリシアが風を送り込み、火を奥へ奥へと広げる間にアフィも玄関から突入し、逃げ惑う人間を次々に斬って捨てた。


 ぐず、と刃から伝わる感触は、獣を斬った時と大差なかった。今まで人の命を奪ったことはなかったが、今は一人も生きて逃がす気はなかった。


「だ、誰――」


 すぐ手前の部屋から飛び出してきた男の心臓を、目も合う間もなく突き刺す。剣を引き抜く時にピッと頬に血が飛んだが、構わず進んだ。

 炎の熱気の中で浴びる返り血は、血そのものが熱を持つかのようだった。


「に、逃げろ!」


「表は駄目だ! 裏から、」


「賊が、賊が入ってきたらしい!」


「予言者様を守れ!」


「いけません! あのお方は――」


 ごうごうと唸り始めた炎の向こうで、男女の怒号が遠く飛び交う。二階にもまだ四、五人がいるようだった。一階から呼びかけるような声は、裏口から逃げる手合いだろうか。


「アフィ」


 まだ火の手が届いていない裏口に向かおうとしたところ、想定よりも早くアリシアが戻ってきた。


「アリシア。逃げたか?」


 アリシアには、先に石牢の監視の不在と、火種を放つ場所の確認のほかに、ルカス王子の逃げる方向を見定めてほしいと頼んでおいた。

 少年はきっと、火事の一報を聞いた瞬間に、自力で逃げ出すだろうから。


「王都とは反対の方に逃げるのを見た。おおよその方角が分かれば、風で気配は追える」


 案の定、アリシアはこくりと頷いてそう続けた。


「そうか。ありがとう」


 ルカス王子は八歳になり、無知ではあるがもう無力ではない。ここで得た知識と技能で、最悪の危険は避けられるはずだ。

 ルカス王子が逃げる先は大体把握しているし、アリシアの力は十分信頼がおける。


「アリシア。予言者がどこにいるか分かるか」


「予言者かは、分からないけど」


 答えながら、アリシアが裏口のある方を指す。アフィは頷くと同時に、目の前に広がる炎に向けて一切の躊躇なく飛び込んだ。


 玄関脇の部屋に投げ入れた火は、今やアフィを取り巻くように前後左右にうごめいている。だが決してアフィの肌を焼くことはない。そばにアリシアがいるから。


 奥にあるのは炊事場や洗濯室らしかったが、どれも人影はない。その先にある裏口の戸は、蹴破れば呆気なく開いた。

 家の裏手は庭園で、まだ火の気配はない。だが収穫時期だったらしい野菜は、無残に踏み荒らされていた。


「……いた!」


 足跡を追えば、王都へ向かう道の方に目指す一団は見えた。

 憎らしい白い祭服こそ着ていないが、間違いない。大小の荷物を抱えているせいで速度が遅いが、その数は案の定、十人に満たない。


「逃がすかよ」


 アフィの言葉に応えるように、アリシアが風を巻き起こした。

 菜園を作る時に避けたらしい石を幾つも浮かばせ、矢のように放つ。横道に入ろうとしていた一人が倒れ、悲鳴が上がり、次々に全員がその場にしゃがみ込む。


 そのうちの一人と、目が合った気がした。

 目深に被ったフードの下から、老婆のような長い白髪と、翳った紫の瞳がのぞく。年の頃は二十代後半ほど。いかにも気の弱そうな女だった。


(――殺す)


 あの者たちが行った非道はルカス王子に対してであり、アフィにではない。それでも、冷静でいるには難しかった。


 頭に血が上った体は、思考の挟む余地もなかった。一気に緩やかな斜面を駆け上がり、いまだ血の滴る剣を乱暴に振り上げる。

 受けたのは、最後尾にいた剣を構えた男だった。


「サマラス様!」


「いいから逃げろ!」


 眉間の皺を深めて、サマラスと呼ばれた男が、重そうな布の包みを肩に担いだ男に叫ぶ。だがそれだけだった。

 あとには剣を持った二人が前に出ただけで、他の誰も呪符を取り出す姿も見せなければ、祝詞(ネメシー)を唱える気配もない。


(まだこの時代には組織立っていないのか)


 道理で探し出すのに四年もかかったわけだ。その事実が、余計にアフィを苛立たせた。

 サマラスの剣を力任せに押し込みながら、さらに踏み込む。


「予言者はどいつだ!」


 アフィの怒号に呼応するように、周りの男たちがフードを目深に被った人物に寄り添い、背に庇う。それだけで十分だった。


「お前が……!」


 何年も降り積もった激情に背を押されるままに、眼前の男の剣を横薙ぎに弾き飛ばして集団の真ん中に斬り込んでいた。

 すぐそばにはアリシアもいる。呪符も持たない連中など、今この場で容易に仕留められる。


 その侮りが、油断となった。


「邪魔をしないでッ」


 フードの下から、女の甲高い悲鳴が上がる。

 と同時に、アフィとアリシアの体はゆうに数メートルは後ろに吹き飛ばされた。


「なっ!?」


「きゃっ」


 突然のことに、アフィは咄嗟に受け身を取るので精いっぱいだった。背中をしたたか打ち付ける。

 痛みを堪えてすぐに体を跳ね起こすが、アフィは今度は剣を握り直すだけに留めた。


(呪符……は見えなかった。これが予言者の力なのか? だがこれは……)


 僅かに目だけを動かしてアリシアを探す。宙に浮いていたせいでアフィよりも更に後方に飛ばされたが、無事のようだ。


 そのまま視線を戻し、じりじりと間合いを詰める。

 それを制するように、フードの女は瓶と革袋を抱えるのとは反対の手をこちらに向けた。


「ち、近付いたら、今度は傷付けます」


 その脅迫はけれど、荷物を握り締める手と同様、明らかに震えていた。しかもその手は、転んだにしては異常なほど血だらけだ。


(血……)


 その瞬間、アフィの記憶に血の匂いがまざまざと蘇った。

 時折石牢に現れては、支離滅裂なことを言って去っていく、血の香りを纏った女。


(ではやはり、あの時の女が、目の前の)


 言語として思考できたのは、そこまでだった。カッと焼けるような激情が全身を貫く。と同時に駆け出していた。

 女が蒼褪めた顔で手を振るい、風が唸る。鋭い空気の塊が、ヒュンヒュンと体のあちこちを刃のように切り裂く。


「ぅおおおお!」


 二の腕が、肩が、頬が、ぱっくりと音を立てて裂けた。熱いほどの血が吹き出す。それでも、突進する足は緩まなかった。

 飢えた獣のように一息に跳躍し、女の顔面目掛けて剣を振りかぶる。


 驚愕に見開く紫の瞳と、バチンと目が合った。


 切っ先がフードにかかる、と思った瞬間、横腹に棍棒で殴られるような衝撃が来た。


「ぐァっ!?」


「あ――!」


 切っ先は狙いを外し、女の首ではなく腕の中の瓶を引っ掛けて、そのまま軌道を逸れる。


 怒りで、動きが大きくなり過ぎたのだ。そのがら空きの右脇を、捨て置いたサマラスがアフィの横から全身で剣を突き刺してきた。


(こいつ……!)


 右腕の下から覗き込む、猛禽(もうきん)のような目と目が合った。

 瞬間、この男だけは他の連中と違うと直感する。

 その、寒気すら感じるような冷たい眼差しは、訳も分からずアフィの芯を凍えさせた。


「アフィ!」


「!」


 一瞬思考が止まりかけたアフィの体に、アリシアの声と空気の塊がぶつかった。剣を残してサマラスの体が後方に吹き飛び、アフィは支えを失うように地に膝をつく。


 その傍らで、巻き添えを喰らうように落ちて転がりだしていた瓶が、風にあおられて宙に浮く。橙色の光が青空に尾を引くように放物線を描き、そして――地面に落ちて、割れた。


「――――いや……」


 瓶を追いかけようとしていた女が、呆然と足を止める。

 動揺がざわりと周囲に伝染した。誰かが「予言者様……」と声を掛ける。だがそれも長い時間ではなかった。


 細長かった瓶が、中央付近の脆い箇所から無残に砕ける。その中に納まっていた橙色の光が解けるように零れていくのに比例するように、女の顔は蒼白になった。


「いや、フィリア――!」


 まるで光が消えれば死んでしまうとでもいうように、女が側にいた人間の制止を振り切って走り出す。それを止めたのは、吹き飛ばされてなおすぐに身を起こしたサマラスだった。


「逃げろ!」


「ッ!」


 空気がびりびりと振動するような大喝に女がびくりと戦慄き、同時に周囲の面々が反射的に動き出す。一人が女の手を取り、また別の一人が腕を取る。むずがる子供のように抗う女を、信者たちは引きずるようにしてアフィから引き離した。


「待て、ッ!」


 アフィはすぐさま追い縋ろうとして、けれど右脇腹を貫いたままの刃が次を踏み出すのを許さなかった。


「くそ……!」


 今更になって焼けつくような激痛が皮膚の下で暴れた。アリシアが咄嗟に吹き飛ばしたお陰で深く刺さっていないのは幸いしたが、抜けば多量の失血で気を失うのは確実だった。


「予言者様、お早く!」


 額に脂汗を浮かべて膝を震わせるアフィの前で、荷物の少ない信者が予言者を引きずっていく。

 意に反して離れていく二人の叫び声が、悲痛にも重なった。


「逃げるな……!」


「いや……、フィリアを返してッ」


 二人の伸ばした手が、抗えずにどんどん離れていく。


 それが許せなくて、何より動かない自分の体が憎らしくて、脇腹に刺さったままの剣を乱暴に引き抜いていた。

 木々の向こうに消える予言者の背中に投げつける。


「アフィ!」


 ガシャンッ、と剣が無様に落ちる音と、アリシアの悲鳴が重なった。剣を投げて最後の力を使い果たしたようにその場に蹲ったアフィに、アリシアが滑るように飛んできて手を伸ばす――ことは、叶わなかった。


「――――!?」


 アフィのもとに向かう途中、いまだ空気中にたゆたっていた橙色の光に触れた刹那、言葉に出来ない衝撃がアリシアを襲った。


 それは不思議な程に強く、けれど雪が体温に溶けるようにそっと、アリシアが触れた指先からじわり、と染み込んできた。


 光は瞬く間もなくアリシアの体の隅々に染み渡り、そこから一転、空洞のはずの左胸に向かって集まってくる。そう感じた瞬間アリシアの全身を貫いたのは、痺れるような歓喜、だった。


 アリシアにしか聴こえない鼓動が激しく脈打ち、自分が自分でなくなるような不安と、舞い上がってしまいそうな驚喜が実体のない体の中で嵐のように暴れ回る。


 あまりの激しさに抗うことも出来ずきつく目を瞑ると、今度はまなうらに見たこともないはずの映像が閃いた。


 ほろほろと零れる涙。言葉にならない嗚咽。抱き締めるように伸びてくる両腕は、まるでアリシアが光そのものになったかのようだった。

 女のものらしき細い両腕は、何度も何度も愛しげに、光であるアリシアを撫ぜた。眉尻を下げ、青白い顔で見つめては、何度も同じ名前を繰り返す。


『フィリア……会いたい……私のフィリア』


 今にも事切れてしまいそうな儚さで繰り返されるその声に、今まで味わったことのない切なさが込み上げた。息が苦しくなるほどにアリシアの胸を締め付け、冷静に思考する能力をあっさりと奪う。


「あ、ぁ…あぁ……」


 気付けば、身も心も何もかも御せず、ただ声ばかりを上げた。


「……アリシア?」


 痛みと失血に意識が朦朧とし始めていたアフィが、鉛のような体を引きずってアリシアの名を呼ぶ。

 けれどそれに応える余裕すら、この時のアリシアにはなかった。


「あぁぁぁああぁぁ……ッ」


 両手で顔を覆い、膝を引き寄せて泣いた。宙に浮いたままの体を猫のように丸め、誰にも聞こえない声で、わあわあと泣いた。


 悲しくて泣いているのか、嬉しくて泣いているのか、それすらも判じられないほどに感情は混沌とし、アリシアを翻弄した。翻弄されるままに、泣き続けた。


 どれ程そうしていたのか、アリシアには分からなかった。

 泣きすぎて頭ががんがんと痛み、瞼が引きつり、声が枯れて、その頃になってやっと、自分の名を呼ぶ声が耳に届いた。


 アリシア、アリシア、と、大好きなひとの声が、鼓膜を絶え間なく揺らす。


 アフィ、と、声なき声で呼んだ。


「アリシア。……落ち着いたか?」


 優しい声が、返ってきた。

 それだけで、アリシアは不思議と平静を取り戻した。頑なに握りしめていた両手をほどき、くっついてしまったかのような瞼を押し開く。


 ヒヨコを思わせた金髪は深みを増して亜麻色になり、青空のようだった瞳も少し翳りを含んだけれど。そこには確かに、八年近くを共にしたアフィがいた。

 それだけで、アリシアの胸は喜びでいっぱいになり、そしてまた哀しみが溢れた。


「……あたし、だった」


 初めて取り乱したアリシアを酷く心配するアフィを、安心させたかった。けれどどうしようもない感情の中で、唯一はっきりしてしまったことが、それをさせてはくれなかった。


「王女の心を奪ったのは、あたしだった……!」


 触れた瞬間に分かった。

 あの橙色の光は、アリシア王女の心だった。そして同時に、アリシアの心でもあった。

 だから光はアリシアの魂に馴染み、溶け込んだ。光が見た記憶とともに。


 けれどその光は、二十三年間生きたアリシアのものではない。まだたった八年しか生きていない、カロソフォス城にいるこの時代のアリシア王女のものだった。


 幼く奔放な感情がこの身に溢れる喜びと同時に、取り返しのつかないことをしてしまった後悔が身を灼く。


 魂と心は、本来ならば容易く切り離せない。


 それはつまり、アリシアが今まで心がないために味わってきた苦難を、幼い王女に等しく強いるのと同義だった。




「あたしが、彼女を苦しめるんだわ……」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ