恐ろしい追手
返事を待つ間、占い師とその隠れ家の監視は続けていた。
その詳細についても王妃への報告には記したが、宮廷が既に王子を見限っていることと、ガブラス大臣の意見を退けることの難しさから、援軍は望めないことは承知していた。
家があるのは、王都を囲む丘を下ったところに広がるさほど大きくない集落だった。周囲には土地が低いことを活かして田園が広がり、豚や家鴨が長閑に歩いている。
丘を少し上がった所には葡萄畑もあり、もしかしたらあの地下空間は牢獄ではなく、葡萄酒の貯蔵室だったのかもしれない。
民家の土台にある通気口に見せかけた四角窓を見付けたのも、その監視の中でだった。
(カビにやられないための空気窓だったんだろうが)
この高く小さな窓だけが、名もなき少年の唯一の慰めだった。
手の届かない四角い空を見ながら、つれづれに自問自答を繰り返した。自分を手放さないために。
希望などではなかった。
返事もしない、救いもしない、そんな空から、突然声が降ってくる。その驚きを、アフィは知っている。
「おい」
通気口の向こうに複数の人の気配が現れ、去り、静かになってから十数分。アフィはやっとそう声を掛けた。
足元に広がる地下空洞から、明らかな動揺が伝わる。少年が何かを発するよりも先に、アフィは、
「出たいか」
と続けた。
逡巡、葛藤、理解。そして少年らしい高めの、けれど掠れた声がこう言った。
「出たい」
顔は見えなかった。けれどその心はよく分かった。だから一瞬、助けてやるからそこで待っていろ、と言いそうになった。
ここにいるのは、王妃が切望する行方不明の幼い息子。必ずこの手で助けてやりたい。
そう思ってふと、考えた。
(泣いて蹲ってるだけで、助けが来て……その先は?)
ルカス王子は、王妃が内乱を抑えているうちに城への帰還が叶えば、次期国王の可能性すらある。そうでなく、別の誰かが玉座に座ったとしても、城へ戻れば何がしかの責任は負うだろう。
それが何だと思考を続けるよりも先に、こう口走っていた。
「ならば自分で逃げ出せ」
言って、驚いた。
まさか自分がその台詞を言うことになるとは。
けれど冷たいとは思っても、間違っているとは思わなかった。きっと、それでいい。
アフィはその場に更に低くしゃがみ込むと、懐に仕舞っていた指輪の一つを取り出した。
王妃に託された、まだ新しい金の指輪。そこに通した革紐は、指輪を渡されたその日に見た市場で、全く同じような品を見付けていた。
「そのために、これをやる」
強く握ったそれを、狭い通気口に腕を通して落とす。落下音の代わりに、少年の戸惑ったような声が聞こえた。
「……指輪?」
「それはお前の物だ。誰にも見せるなよ。そして決して失くすな」
深く、少年のぼろぼろの胸に、それでもなお刻み込むように思いを込めて伝える。
そうして、作戦は開始した。
◆ ◆ ◆
二階の一番奥まった場所に、小さな部屋がある。
書き物をする木の机と椅子、それから壁際に寄せた簡素な寝台があるばかりの、質素な部屋だ。
その椅子に座った一人の女は、机の片隅に置かれたガラス瓶を手に取った。掌よりも少し大きいばかりの透明な瓶で、胴が膨らんだ六角柱のような形をしている。瓶は橙色の光を発しているが、中に何かが入っているわけではない。
その橙色の光を青白い顔に受け止めながら、書き物に疲れた手を休め、寝台をそっと振り返るのが、ここ数年の習慣となっていた。
この寝台で眠るのは、女ではない。
八年前に拾い、それからずっと目を覚まさない、名も知らない誰かだ。
自分も死にそうだった時、這いずるように歩いた先で見つけたのだ。
本当だったら、他人など構っている余裕など少しもない時だった。けれども結果的に拾っていた。
理由は、今でもよく分かっていない。
それでも、その寝顔を見れば、橙色の光を眺めるのと同様、不思議と心が落ち着いた。
「もうすぐ……あと少しで、血が貯まる」
女は、自分でつけた傷で血だらけの手の平を眺めながら、うわ言のように繰り返す。それから再び、生々しく滴る手の平の鮮血に羽ペンの先を浸した。
ペン先の空洞が血を吸い上げ、赤く滲む。それを手元の小さく切り分けた羊皮紙に降ろした。
サマラスの蔵書から持ち出した神識典から、水鏡や肉体、魂に関する記述のある頁を抜き出し、術式として紙に起こす。
手元にある紙はこれで四十枚目。これに三位一体を表す三枚を加えれば、もう一度水を媒介してこちらに呼び寄せることが出来る。
「もう少しで、フィリアに会える……」
寝て起きた頃にやっと乾く傷口を再び開く痛みは、もう随分前に麻痺していた。ともすれば、大事なものを立て続けに二つとも失ったあの時から、ずっと。
けれどこの痛みの数だけ愛しい我が子に近付くと思えば、苦など毫もない。
さぁ続きを、と再び手に滲む血にペン先を浸した時、
パリン、
と小さな音が階下からした。
何かが割れるような音に、最初、炊事場の誰かが皿でも落としたのだろうかくらいにしか考えなかった。
四年程前、サマラスの世話になる代わりにと、サマラスの知人という男から簡単な予見を幾つか頼まれた。それが定期的に続き、サマラスの紹介で何人かの顔と名前を覚えた頃、占い師の真似事をしてささやかながら収入を得るようにもなっていた。
それはもしかしたら、いつまでも閉じこもって泣き暮れる女を心配した、サマラスなりの気晴らしだったのかもしれない。
ともかく、女は時々違うことをすることで、僅かながらまともな精神状態を取り戻した。
この四年の間に女を知る者は増え、気付けばサマラス目当てだけでなく、この家を訪れる者は増えていた。
そのほとんどが同郷で、そのために女を神識典に記された予言者だと信じ込む者も少なからずあった。そういった者は、大概が敬虔なパゴニス神教徒だった。そしてその多くが、故国、神の徒としてあるまじき行いに遭い、失望して国を離れたのだと語った。
当のサマラスがその筆頭だと誰かが言い、元は神兵の中でも秘匿性の高い神の僕だったらしいとも聞いたが、やはり女からは事情を聞いたりはしなかった。
黙々と自分の血と力を込めた呪符を仕上げていく下で、彼らはパゴニス様式の簡易な祭壇を整え、誓言を述べ神識典を読み上げた。故国に現れない救世主が、予言者のもとにこそ現れると信じた。
それは、何かしらの理由で故国を離れた彼らにとって、大きな心の支えだった。
けれど女の目的は神の言の代弁者でもなければ、地上の楽園化でもない。
八年前に自覚したこの力も、ただただ失ってしまった最愛の我が子を取り戻すため――全ては己のためでしかない。
「早く、終わらせないと……」
彼らの期待が深まれば深まるほど、罪悪感に息が詰まる。それでももう、国にいた頃のように、誰かの期待に応えるために自分を殺すことは、二度としないと決めていた。
だが、動かしかけた手はすぐに止まった。
「――か、火事です!」
階下から聞こえた悲鳴に、すぐには反応できなかった。ゆるゆると顔を机から離し、意味もなく戸を振り返る。
「…………え?」
俄かに騒がしくなった木戸の向こうで次々に「煙が」とか「避難を」という声が上がり、ようやく火事という言葉を脳が理解する。
「えっ……!」
慌てて椅子から腰を浮かし、真っ先に橙色の光を閉じ込めた瓶を手に取る。だがそれを持っては他に何もできないと気付き、一度机上に戻してから、他の呪符や水を入れた瓶、深紅のリボンやスプーンなど細々としたものを一まとめに掻き集めた。
筆記具などを仕舞っていた革袋に乱暴に詰め、それから再び瓶を胸に抱く。次に人を呼ぼうと戸に向かおうとした所、先に信者の一人が飛び込んできた。
「予言者様! 一階はもう火が回りだしています。お早く避難を!」
「今行きます。それよりも誰か、『眠る方』を運ぶのを手伝ってください」
木の焦げる匂いを服に纏って現れた男に、女が縋るように頼む。だが男は、一度も起きたことのない人間など視界にも入れていなかった。
「そんなことよりも、早く! 火の回りが異常に早いのです! 皆、裏口から出ていますから、」
「いけません! あの方は……救世主の器となるはずの方なのです!」
「は……!?」
咄嗟に出た嘘に、男が事態も忘れて目を見開く。自身も敬虔なパゴニス神教徒であった女には、その驚愕が手に取るように分かった。
「そ、そんなことは今まで一度も、」
「ですから、絶対に手放してはなりません!」
戸惑う男の心境など、この際どうでも良かった。強引に押し通せば、男は目を白黒させながらも階下に手伝いを呼びかける。
慌しい足音に悲鳴や怒号が入り混じる中、シーツにくるまれた体が二人の男の手によって階段を下りていく。
煙は既に二階にまで届き出していた。女があとについて降りれば、一階の玄関周りは既に火が回りきり、近付けそうにない。
逃げずに待ち構えていた他の信者たちが、血相を変えて女の背を裏口にと押し出す。その慌てようはしかし、火が迫るからというだけにしては、鬼気迫っていた。
「ど、どうして突然、こんなに、」
「賊です! どうやら火を放たれたようで」
困惑しながらもどうにか裏口に辿り着いた女に、信者の一人が堅い声音でそう告げる。女はまさか、と思いながらも、ついに来たかと小さく納得した。
女のしていることは、犯罪だ。いつかは追手がかかることも覚悟していた。
(でもまだ、わたくしは何も手にしていない……!)
捕まるわけにはいかなかった。
信者の中でも事情を知る数少ない者たちによって用意された別の隠れ家に向けて、男たちが周りを囲みながら誘導する。
元々、救世主を求めて集まっただけの敬虔な信者でしかない彼らは、戦う術を持つ者も一握りしかない。この場ではサマラスを入れても三人だけが剣を腰に差して殿を務めるばかりだ。
一刻も早くこの場を離脱することこそが最善手だった。
だが葡萄畑の横を通り、更に横道を抜けようとした時。
「がっ!?」
すぐ後ろを歩いていた男が、短い呻きを上げて前のめりに倒れた。
「ヤニス!」
神識典や香炉などを持った男が、倒れた者の名を呼ぶ。続けて波紋が広がるように、一緒に逃げていた者たちが「賊が追って」とか「石が勝手に」と怯えたように口にした。
「予言者様、危険です。隠れてください!」
「あ、あなたたちも、早く、」
一気に場が混乱し、向かう先を分からなくさせる。その間にも次々に何かが飛んできて、一人、また一人とその場に倒れた。
他の者が頭を抱えて蹲る。ごっ、とその足元の土を抉ったのを見れば、それは拳よりも大きいほどの石だった。
(誰が……)
女も瓶と革袋を胸に抱えてその場にしゃがみながら、石の飛んできたらしき方向を見やる。
なだらかな斜面の底に建つ隠れ家の、裏口を出てすぐの辺りに、誰かが立っていた。
陽に照らされてさざめく穂麦のごとき亜麻色の髪をした男だった。
二十代半ばのようだが、宝石のような深い碧色をした瞳は、まるで見るだけで人を射殺せそうな程に鋭く、そして膿んでいた。否、そう見えるのは背後で業火のように燃え盛る火と、その右手に握られた血塗れの白刃のせいかもしれない。
どちらにせよ、そこに立つ男が恐れていた追手であることは間違いなかった。




