王妃
その日から、アフィの拷問は中止された。
牢獄から城内の一室に移され、王妃の指示で治療も行われた。
入口に衛兵が配された軟禁状態の部屋に真っ先に訪れたのはアリシアで、宮廷では王妃の独断が随分な騒ぎになっていると教えてくれた。
「アフィ、ごめんなさい。全て、私のせい……」
「違う。違うよ、アリシア」
寝台の脇で泣きたくても泣けないでいるアリシアの頭を撫でながら、ついこの間アフィの心を救ってくれた言葉を口にする。あの時のアリシアも、こんな気持ちだったのだろうかと思いながら。
「それに、オレからも謝らなきゃいけないことがある」
アリシアに無断で指輪を王妃に見せたことを、アフィは謝った。
アリシアの指輪を王妃が知っているだろうことは予想できたが、二人の間でどういった扱いになっているかは、アフィは知らなかった。それでも、王妃に話を聞いてもらうためには、指輪を見せるしかなかった。
「構わない。お母様も、ご存知だから」
緩やかに首を振って許してくれたアリシアに、けれどアフィは更に図々しいことをお願いした。そうならないようにしたいが、目的のために必要であれば、アフィは躊躇わないだろう。
「アフィの思うようにして」
アリシアもまた、決然とそう頷いた。
二日後には、王妃付きだという侍女が様子を見に現れ、王子を探すための尋問も再開された。
「私は王妃様のようにあなたを信用しているわけではありませんからね」
ヴェルギナ王国時代からの付き人だという侍女は、アフィを疑っている様子を少しも隠すことがなく、逆に好感が持てた。
そうして、体の回復と並行して尋問は進められ、侍女が帰ればアリシアと情報の精査を進めた。
アリシアの手にかかれば、アフィを犯人に仕立てて事件を速やかに終わらせようとしている人物は、すぐに特定できた。
「お父様が亡くなられた時、真っ先にまだ三歳にもならない幼君を王位に推した男だった」
八歳の時に起きた前国王の崩御と内乱の記憶を紐解きながらアリシアが断言したのは、流行り病もルカス王子のせいだと発言した例の大臣だった。
宮廷雀たちの話を繋ぎ合わせて、元々シルウェステル国王が即位する前から王弟派として動いていた主要人物だったことも分かった。
このまま未来の王太子である王子が戻らなければ、自動的に継承権が繰り上がると考えたのだろう。
この推測を侍女に伝えると、意外にも「知っています」と返された。
「元々、捜索よりも尋問に力を入れるよう働きかけてきたのがそのガブラス大臣です。陛下も王妃様も、そんな見え透いた野心など、先刻ご承知です」
そもそも、アフィの拷問がすぐに開始されなかったのも、王妃様が最後まで渋っていたからだと、侍女は続けた。
王子が攫われた時、アフィは逃げることもできたはずなのに王女を守ろうとしているように見えた、と。
(あんなに混乱していたのに、見ていらしたのか)
不思議に思うと同時に、やっと牢獄に自ら赴いた王妃の意図を少しだけ理解できた気がした。自分の目で見ていたからこそ、周りの制止を振り切って自ら確認するために現れたのだろう。
「それよりも、早く王子様の居所を教えなさい」
日ごとにやつれていくような侍女の糾問に、アフィも早く答えたかったが、こればかりはやはりアリシアの力でもまだ分からなかった。
王都にある石造りの建物にいることと、組織され始めたばかりの宗教結社を探れということだけを伝えた。
「それと、王女様についてですが」
「あなたに教える必要はありません」
「目を覚まさないのでしょう」
「な、なぜそれを……」
王女の容態についてずっと黙秘を決め込んでいた優秀な侍女は、これに初めて表情を変えた。
アリシア王女は、王子が攫われたあの日から、ずっと目を覚まさない。それもまた、アリシアが教えてくれたことだ。
「王女様は、心を奪われたのです。三位一体が崩れ、肉体と魂の結びつきが弱くなっているせいです。肉体に刺激を与え、強く呼びかければ、きっと目を覚まします」
母から教わったというアリシアの言葉を、そのまま伝える。そこでやっと、侍女もアフィの異質さに気付いたようだった。弾かれたように椅子から立ち上がり、挨拶もなく部屋を飛び出していった。
侍女の警戒心を強めただけかもしれないとも思ったが、追いかけたアリシアの報告によれば、侍女はあのあと王妃の元に直行したらしい。王女が目覚めれば、アフィは信用を勝ち取るだろう。
(ここからだ……!)
◆
王妃がアフィのもとを訪れたのは、アリシア王女が目を覚ましてから二日後のことだった。
この時に分かったことだが、王妃はやはりアリシアのことは見えていないようだった。
「あなたを信じます」
入室してきた王妃を見てすぐ、床に降りて跪こうとしたアフィを制して、王妃はそう言った。アフィが寝台上からの無礼を詫びて謝意を述べると、王妃は次に妙なことを聞いた。
「お名前を教えてくださいませ」
名前は、投獄されてすぐ確認されたから、王妃も知っているはずだった。けれど不屈という響きを、偽名ととるのも無理からぬことだった。
額の痣は傷と共に包帯の下に隠れているが、アフィはつい癖で手を伸ばしながら口を開いた。
「私は……私も、幼少時に親元から引き離され、自分の名前を覚えていないのです。ただのアフィと、お呼びください」
「他の何もかもを知っている風なのに、自身のことは分からないと申すのですね」
王妃に嘘は言いたくないと思って本当のことを述べたが、指摘されればその通りだった。いたずらに不審を抱かせる結果になってしまったと、気まずげに視線を上げる。
しかし意外にも、王妃は隈の濃い目許を緩めて、穏やかに笑っていた。
けれど続けられた言葉に、アフィは息を呑んだ。
「あなたの話は、まるで予言の巫女のようですね」
「な……?」
予言の巫女。予言者。
まさか王妃は、導きの友愛のことを既に知っているのだろうか。
アフィの心拍数は一気に跳ね上がったが、王妃の声にはどこか懐かしささえ滲むようだった。
「アリシアの状態を三位一体で説明したこともそうですが……パゴニス神王の子供は、生まれてすぐ男女に関わらず神職に就きます。その中でも、まるで未来を見てきたかのように語る者を、崇敬をもって予言の巫女と呼ぶのです」
「そう、なのですか」
初耳だった。
それもそのはずで、パゴニス神教国はその排他的な性格から、神王の御座所や王族についての機密を、軽々しく政治利用することを良しとしなかった。それは貴賤に関わない国民性で、ましてやその中においても神性の高い予言の巫女など、国外の人間の知るものではなかった。
そして確信する。やはり予言者はパゴニス神教国の人間なのだ。
けれどそれを王妃に伝えることは、躊躇われた。
王妃の目には、故国を想うような親愛があった。パゴニス神教国の王女であった母ヴェルギナ王太后から、慈しみをもって教えられてきたのは明白だった。
(それでも、今は糸口がそれしかないんだ)
アフィは私情を捨てて切り出した。
「私が疑っているのは、パゴニス人の関与です。それも、王家の血を引く可能性が高い」
「それは……どういうことですか」
「王子を連れ去ったのも、王女の心を奪ったのも、パゴニスの魔法ではないかと考えています」
それまでとは一転、青白い顔を険しくした王妃はけれど、弱々しく首を横に振った。
「残念ながら、他国の人間が考える程、今の時代の魔法は万能ではありません」
母からの伝聞ですがと前置きして、王妃は自身の知る魔法について語った。何百年も前に乱世を平らかにした英雄や魔女のような、天候を操り大地を割るような驚異的な力は皆無だという。
パゴニス神王や巫女の中には稀に強い力を持つ者も現れるが、それでも風や水を動かしたりする程度で、とても水鏡を通して人ひとりを移動させる力があるとは思えないとのことだった。
「もし今の時代にそんな人間が現れれば、パゴニス神教国は救世主だとして、決して手放さないでしょう」
「救世主……それもやはり、パゴニスの教えなのですか」
「えぇ。神より地上の楽園化を仰せつかったパゴニス神教国は、神識典に従って清く正しく生活していれば、救世主が現れて宗教的、政治的に一族を導き、神が地上に再臨下さると信じています」
布教も改宗も強いず、ただ黙々と神との契約を履行し続ける民族が、唯一求める存在。それがアリシア王女かもしれないと伝えたら、王妃はどうするだろうか。
悩んだが、これはなぜか言えなかった。
それでも、予言者か、または魔法の力の強い別の誰かが、呪符に力を込めて祈祷者に与えているのは確かなのだ。
「妃殿下に、二つ、お願いを聞いていただきたいことがあります」
アフィは意を決して、この部屋に移ってからずっと考えていたことを伝えた。
「一つは、パゴニスから国外に出て行方の知れない人間がいないか、調べて頂きたいのです」
「……分かりました」
「そしてもう一つ、私が直々に王子殿下捜索のために外へ出ることを、お許しいただきたく」
「それは……」
寝台の上から深々と頭を下げるアフィに、けれど王妃はさすがに顔を曇らせた。
現在、アフィを犯人でないと考えているのは王妃だけだ。最重要容疑者を王妃の一存だけで釈放することは難しいだろう。
それでも、引き下がるわけにはいかなかった。アフィは王妃の右手中指にはまったまだ新しい金の指輪を刹那に眺めたあと、懐から傷だらけのアリシアの指輪を取り出した。
「これは、私の命にも等しいものです。私が妃殿下のもとに戻ってくる証として、これをお預けします」
両手で差し出しながら、視界の端にアリシアの姿が見えた。
牢獄から出されてすぐ確認したのはこのことで、アリシアは分かっているという風にこくりと頷いてくれた。
(アリシア……。済まない。でも、絶対に取り戻して見せるから)
心の中で二人に誓いながら、アフィは改めて王妃の藍色の瞳をしっかりと覗き込んだ。
「きっと、王子殿下を見付けます。何年かかっても、絶対に」
◆ ◆ ◆
「私にお任せください」
そう言ったのは、見た目には四十路前後の、どうという特徴もない中肉中背の男だった。サマラスという名前と、同じパゴニス神教国の出身ということだけしか知らない。
それでも、女は頷いた。手違いで攫ってしまった子供の扱いをどうすればいいのか、分からなかったから。
「……貴方に、全てお願いします」
女は、無気力にそう言った。
まだ失意の底から戻ってこられないためというのもあった。
サマラスとの出会いは四年前、瀕死でいたところを助けられて以来の付き合いだった。目が覚めても状況が理解できず、いつまでも話が噛み合わない女を、根気よく世話してくれた。
どう見ても異邦人のようだったのになぜ助けてくれたのかと問えば、自分の中の神の教えに従ったまでと返された。それだけで、女はサマラスが同郷だと悟った。
謂れなき罪で故国を追われて以来、パゴニス神教国も、その忠実な僕である神兵にも苦手意識が芽生えていたが、問い質すのはやめた。
だがこの異国異教の地に置いて、サマラスは少なからず人望があるらしく、同郷の人間がちらほらと出入りした。
サマラスの女への下へも置かぬ対応に、いつしか出入りする人間もまた同様に女を扱った。
女は身分も明かしていないのにそうするサマラスの洞察力が恐ろしく、周りの人間の視線からも逃げるように閉じこもった。水を視て、風を読み、血を溜め続けた。
だからいまだにサマラスの過去が何だったのかは知らないし、彼があの子供をどうするつもりなのかも、まるで見当がつかない。それでも、やはりどうでも良かった。
女の胸は今、失った恋と目の前の触れられぬ恋への葛藤で、千々に乱れていた。考えれば考える程、手が届きそうなのにそれが出来なくて、気が触れそうだった。
それでも、何度自問を繰り返しても、導くべき答えはたった一つと分かりきっていた。
畢竟、女はこれからもたった一人の我が子の為だけに、生き続けるしかないのだから。




