届かない指先
一瞬の沈黙のあと、耳が割れるような悲鳴が幾つも上がった。
近衛兵は不審者から王女を奪い返し、残りは血相を変えて噴水の中にじゃばじゃばと入っていく。
だが、王子はどこにも見付けられなかった。
アフィは呆然と膝を付いたまま、なす術もなく拘束された。
その視界の隅で、アリシアが水の向こうまで追いかけようと何度も何度も干渉していたのが見えた。
だが水は、生者を拒む冥界の門のように、そよとも動かなかった。
王妃は悲鳴とも言えないか細い声を上げてふらつきながらも、噴水の前で自失したままの王女に駆け寄った。けれどすぐに侍女に邪魔されるように支えられて、王女と別々に城内に引きずられていった。
それが、三日前。
問答無用で投獄されたアフィは、大人が三人も横になれば埋まってしまうような狭い空間で、ただ黙々と僅かな情報の断片を繋ぎ合わせていた。
狭く暗い場所に閉じ込められたという自覚はあったが、あの教会の時のような冷や汗も緊張もなかった。ただただ、思考を巡らせるのに必死だった。
そして否定のできそうにない仮説が出来上がった頃、ずっと城内を飛び回っていたアリシアは戻ってきた。
「王女は、心を奪われたみたい」
そして与えられた言葉は、最早予定調和のようにすら聞こえた。
変えることのできない、生まれた時から決まっていた一言。
(未来を変えると、守ると意気込んでいたくせに)
それが、このざまだ。地道ながら目的に近付いていると思っていたこの三年半が、愚かしくも両の指の間から零れ落ちていく思いだった。
「防げなかった……」
煤けてかび臭い壁に背を預け、ひび割れた石床を力なく見つめる。
「オレは、知っていたのに」
三日間閉じていた口を開けば、掠れて聞き取りにくい程の声だった。それでも、己を責める声は止まなかった。
「何をまどろっこしいことをやってたんだ……!」
「強引にでも会って説得すれば良かった」
「つまみだされたって、何度だって侵入して、何度だって説明すれば……ッ」
後悔と非難ともしもが交互に口から零れた。
この三年でどんなに腕を磨いて、処世術を身に着けても、何の役にも立たなかった。自分の無力さが、足元にこごる冷気と混ざってじわじわと体を蝕むようだった。
考えれば考える程頭痛が酷くなって、呼吸が苦しくなり、今になって発作が起きそうだった。けれど頭の中では、まるで違う声がしつこく響いて堪らなかった。
――怖かったんだろ、と。
自分を息子と認めてくれない母親に会うのが、違うと言われるのが怖かったんだろ。
到底信じてもらえないことを伝えて、不審がられて気味悪がられて、痛罵されて拒絶されるのが怖かったんだろ。
だから強硬手段を取らなかった。保身のために。
正攻法では、ろくな成果を得られないと半ば分かっていたくせに。
『動けぇぇえ!』
不意に、噴水の前で上げた自分の怒声が耳に蘇る。
今更だと、自嘲することすらできなかった。
そんなアフィの代わりに弾かれるように動いたのは、まだ幼児の域を出ない小さすぎる少年。
その勇ましいほどの背中を見た時、過った感情をなんと言えばいいのか。
「ルカス王子が連れ去られたのは、オレのせいだったのか……」
辿り着いた答えを、ぼそぼそと口にする。
自分の一言が、罪もない少年を渦中に向かわせるよう仕向けてしまった。その現実に、ずっと希望と気合いだけで支えてきた何かが、がらがらと崩れて自分を押し潰すようだった。
(息苦しい……)
額の痣が責めるように痛む。
(この痛みを……)
ずっと葬り去ってしまいたかった忌まわしい過去を、これからあの、子供にすらなれていない小さな体に味わわせるのか。
それが、一生かけても償えない罪だと、知っていたのに。
(あの地獄のような日々を連れてきたのは、あいつらじゃなく、オレだったんだ)
導かれた正答に、目眩がして意識が遠のいた。その時だった。
「違う」
神の声がした、と思った。
のろのろと顔を上げれば、すぐ目の前に美しい紫の瞳があった。責めるでも慰めるでもなく、ただ真っ直ぐにアフィを見ている。
それは心がないからでも、アフィの哀しみを理解していないからでもない。ただ事実だと告げるように、アリシアは混ざり物のない瞳でアフィの青色の瞳を見てくれていた。
「……違う、かな」
その聞き方はみっともないと、分かっていた。それでも縋るように聞かずにはおられなかった。アリシアは、嘘など言えないから。
アリシアが、いつもの表情で、優しく頷く。
「だって、小さなあなたは、小さなわたしを守ってくれた。そのきっかけをくれたのがアフィだわ」
「オレは、知ってたのに……」
「私も、知ってた。いつも一緒にいて、遊んで、たまに意地悪もする兄様が、私を守ってくれたこと」
「…………ッ」
アリシアが、触れられない両手を伸ばしてアフィの頬に触れる。体温とは違うほのかな温もりが、まるで直接弱ったアフィの魂を慰めるように、体中に染み渡った。
(いつも感じていた温もりは、魂が持つ温度だったのか)
抱きしめられないことは、いつも歯痒くて苦しい。けれど今は、この温もりをアリシアに返させないことこそ、苦しかった。
だからこそ、伝えなくては、と思った。
「アリシア」
この気持ちを、愛していると言えない代わりに、ずっとこの胸に湧く温かな感謝の気持ちを、口に出して、愛しい君へ。
「そばにいてくれて、ありがとう」
「……うん」
アリシアが、表情を柔らかくして頷く。それに勇気を得て、更に今決意したばかりのことを続ける。
「それから、彼らの両親に謝る」
自分の、ではない。実の子供を失った、憐れな夫婦に。
もう、うだうだとみっともない泣き言ばかりを言うのは、やめだ。
◆ ◆ ◆
手に入れたものと、失ったものを両手に抱きしめて、女は泣いた。
「……違う……」
腕に伝わる温もりがあまりに温かくて、優しくて、虚しさばかりが胸に迫った。
「三年半……三年半も探して、やっと見つけたのに……」
手元の水盆から飛ばせる限り遠く力を飛ばしては、国中にある水という水を鏡にして姿を探した。蜘蛛の糸よりも頼りない風に縋って、僅かに二か月足らずしか一緒にいられなかった気配を求めた。
高い集中力と魔力を要すために、気を失って気付けば朝陽が射していたということが幾日もあった。
その果てに、やっと見付けたはずだったのに。
穏便に、そして確実に取り戻すために溜め続けた力は、今、全て使い切ってしまった。
体中の血と力を失ったように、冷たい石床に倒れた体は指一本動かず、意識を保つことさえ辛かった。
それでもいまこの瞬間に気絶してしまわないのは、ただただ取り戻せなかったという悔しさのためだけだった。
腕の中にあるのは、今にも空気に溶けて解けてしまいそうな淡い光の塊。そしてその先には、無造作に打ち捨てられたように床に転がる、小さな幼い体がある。
望んだものとは違うそれらに、けれど今は怒りが湧くばかりで、ともすれば憎悪しそうだった。手の中のモノを抱き潰して、なぜこれだけなの、と叫びたかった。
けれど強く抱きしめれば抱きしめた分だけ、無形の光が持つ温もりが胸に染み入るようで、それ以上はとてもできなかった。
涙ばかりが溢れて、なぜか愛しい人の面影が瞼の裏に浮かんで、あの大きな手で頬に触れてほしくて、辛かった。
『きっと、抱きしめにいきますから』
ずっと、あの川縁でもらった言葉を覚えている。もはや我が子を取り戻すためなのか、愛しい彼の人に戻って来てほしいがためにしているのか、自分でも分からなかった。
「また、血を溜めなくては……」
鼻先から滴る雫をぼうと眺めながら、死ねない、とまた思った。




