正体
城門の前には、親父の言った通り、王子誕生の祝賀による経済活性のおこぼれを目当てにした長い行列が出来ていた。
検問の列に並んでいる間、王子の名前がルカスに決まったこと。王女はいないこと。翌年には王弟殿下の婚儀を控えていることなども知ることができた。
(行方不明になった王子は、オレと同年代のはずだったのに……)
そしてアフィが救い出すはずの王女もまた、年が一緒だと教えられた。双子か年子かは、当時のアフィには考える知識もなかったが。
(生まれたばっかりって、どういうことだ? 寝ている間に、十歳だった王様が親になるくらい時間が過ぎたっていうのか?)
だがあの幼君は既に死亡した前国王の王弟の忘れ形見で、他に兄妹などいなかったはずだ。そもそも腹の傷具合から見て、そこまでの時間が経ったはずがない。だが考えられる可能性のどれもが、見聞きした現実に合致しなかった。
最早似ているだけの別の世界に迷い込んだか、自分だけ何十年も寝こけていたかと考えるが、どちらにしろアフィの理解の範疇は大きく超えている。
「ここがアルワード王国の王都アセノヴグラトであることは間違いないんだけどなぁ」
それ以上の手掛かりをどう整理していいか分からず、アフィは人混みを避けた細い路地で頭を抱えた。
もしかしたらイリシオスとティスは先に王都に戻って現状確認を行っているかとも期待したのだが、影もない。
「……顔」
ずっと隣を歩きながら思案げな顔をしていたアリシアがやっと口を開いたのは、そんな時だった。
「顔? って、誰のだ?」
全く見当がつかず、アリシアの顔を見やる。続けられたのは、実に合理的な提案だった。
待望の王子が生まれたことで、王家の肖像画は丁度良い土産物として幾つかの軒先を飾っていた。
色鮮やかな色糸で緻密に刺繍された外国の布が積まれた店でも、国王や、愛らしい赤子を抱いた王妃が穏やかに微笑んでいる。
国王の顔を見れば時代が分かるかもしれないと、アリシアは言った。
国王など全員ただの「国王」でしかなかったアフィは、幼君の顔も知らなければ、名前も知らない。だがそれもまた足掛かりにはなると、見にきたのだった。
シルウェステル・ラエルティオスと題された小さな羊皮紙の中の国王は、二十代後半の精悍な男性だった。栗色の髪と深い碧眼の持ち主で、ささやかに伸びた口髭がまだ少し似合っていない。同年代らしきサロリナ王妃と赤子は美しい金髪で、その目許はよく似ていた。
(優しそうなひとだ)
赤子を抱く姿がそう思わせるのか、アフィは世話になった奥さんの優しさを思い出して、妙に胸がざわついた。懐かしいような、寂しいような。
けれどふと、その右手中指にはまった指輪を見て、何かが引っかかった。
金の指輪だ。
(金持ちの間では、金を使うのが当たり前なのか)
そうなるとまた探す手掛りが一つ消えたな、と考えた時、
「……お母様」
アリシアが、愕然と呟いた。
「は? どこに……ッ」
突然の言葉に、アフィは一拍遅れて賑わう大通りを振り返った。
アリシアが、この人混みの中からついに母親を見付けたと思ったのだ。けれど慌てて首を巡らせるアフィの隣で、アリシアの目はしかし、手元の羊皮紙に釘付けになっていた。
「……アリシア?」
その時に感じた嫌な予感を、何と言えばいいか。鼓動が早くなり、背中を這い上がるような焦燥感があった。聞きたくないような、けれど聞かなければ一生後悔すると直感が告げていた。
「母親、なのか?」
その羊皮紙の中の女性が、アリシアがはぐれたという母親。
あり得ない、とアフィの理性が言った。
王妃は生まれたばかりの赤子を抱いて、カロソフォス城にいるはずだ。アリシアと逃げる道理がない。だというのに、本能ではアリシアが嘘を吐いていないことを、嫌でも感じ取ってしまった。
果たして長い沈黙の末、アリシアは首肯した。
「私の記憶よりもずっと若いけれど、間違えたりしない」
その強い語調のままに、アリシアはずっと話さなかった素性を明かした。
「私の本当の名前は、アリシア・ラエルティオス。八歳の時にお父様が崩御し、内乱が起きるまで、カロソフォス城で暮らしていたの」
それは秘密というには突拍子がなさすぎて、にわかには信じられないことだった。あまりの衝撃にアフィが言葉を失う中、アリシアは淡々と先を続ける。
「七年前の亡命の時、敵に襲われて、お母様と離れ離れになって。イリシオスはその時からずっと付け狙う、王母が放った手先だと思ったの」
つまり母とはぐれたと言っていたのは、亡命途中、政敵に襲撃を受けたためということか。そしてイリシオスは、どこかに逃げ延びた王位継承権を持つ王女を秘密裏に抹殺するため、王母によって差し向けられた刺客の可能性があると。
だがそんなことよりも、アフィには確かめなければならないことがあった。
アリシアが、あの城の王女だというのなら。
「アリシアは、救世主……なのか?」
城の前庭で交わした会話が蘇る。
あの城に王女はいないと言ったイリシオス。その時に見せた、アリシアの空虚な瞳。
(あの時、アリシアは自分のことを話していると気付いたんだ)
それでも言い出さなかったのは、イリシオスの正体を疑っていたから。
話を聞けば、理由は単純だ。アリシアに他意がないことも分かる。
それでもずっと、ずっと自分を振り回してきた存在が目の前にいるという事実は、理性も正論もどろどろに溶けて消えてしまうくらいアフィの情動を揺さぶった。
(憎みたくない)
そして次に浮かんだのは、そんな思いだった。
アリシアを、全ての元凶だと憎みたくない。
それでも、四年間強制された地獄のような日々が、アフィの昏い心の内から囁くのだ。
(今、殺してしまえば……)
導きの友愛は最大の望みと救いを失う。それはアフィの心も体も原形を失う程ずたずたに引き裂き徹底的に否定した奴らへの、最高の復讐になりはしないか、と。
(……いやだ、アリシアを失うのは……!)
それを押し留めたのは、良識でも善く在ることでもなく、ただ一つの独占欲だった。
懐に仕舞ったままのアリシアの指輪を強く握りしめ、箍が外れそうになる思考をどうにか落ち着かせる。石牢の中で育ってしまった昏い自分が顔を出すたびに疼く額の痣の痛みが、静かに引いていく。
二つに割れそうな心をどうにか鎮めてアリシアを窺えば、少女は僅かに眉尻を下げ、緩やかに首を横に振った。
「分からない」
と。
「私は、その宗教結社のこともよく知らないし、自分が他の何者かどうかも分からない。でも……教会で襲われて、アフィに火がかかると思った時、火を動かしたり、ティスみたいなことができたの」
アフィが声を掠れさせてまで問うたことに、アリシアは淡々と答える。相変わらずはた目から見れば冷たくすら映るその表情は、けれどアフィにはもうそうとは見えなかった。
「だから、違うとも言えな――」
「もういい」
今にも泣き出しそうな瞳で続けるアリシアの言葉を最後まで聞かず、アフィは触れられない頬に手を伸ばした。
「もういいよ」
体温も鼓動も感じられない頬を、それでもそうっと撫ぜ、なるべく優しく笑う。その腹で、アフィは先程最低な願望を抱いた自分を心底罵った。
アリシアが教会で火を操ったのは、アフィを助けるためだ。そしてアフィがあの家族に助けられたきっかけだという妙な音も、きっとアリシアがティスのように風で木や石を動かして知らせたのだ。アリシアの姿も声も、誰にも届かないから。
(疑うなんて、馬鹿もいいところだろ!)
状況も分からず、頼りにできるものもなく、ただ一人で助けを求めたその時のアリシアが、アフィの為でなくてなんだというのだ。
「変なこと聞いて悪かった。ごめん」
そんな言葉で、アリシアが傷付いた事実は消えないと分かっていたが、アフィは精一杯謝った。下げた頭からちらりとのぞけば、アリシアがアフィにだけ分かる程度に目を見開いて、ふるふると首を横に振っていた。
それを見て、どうにか自分を慰める。それから、アリシアの推論を邪魔してしまったことを思い出して、話を戻した。
「良ければ、アリシアの考えを教えてくれないか?」
「…………ん」
アリシアは僅かに戸惑うように口端をむずむずと動かしてから、口を開いた。それは、アフィが思い付きもしなかったことだった。
「お父様が崩御されたのは三十五歳の時、突然のご病気だったと聞いている。いなくなった王子は私と同じ年だから、そこから逆算して、王子が生まれた時は多分二十七歳。この絵と合う」
「……まさか」
「私にはここが十五年前の、過去のアルワードのように思える」
「過去……」
予想の埒外の単語が出てきて、アフィの混乱はとうとう極まった。けれど同時に、そうと仮定すれば全ての疑問が解けると気付いた。
内乱の気配もない安定した治世、存在しない幼君、若い国王夫婦と生まれたばかりの王子、来るはずのないパゴニス神教国の神兵、そして消えた宗教結社。
全てはこの世界が、アフィが知るよりも十五年も前の時代だから。内乱の原因である国王の急死はまだ起きず、幼君は生まれる前で、パゴニス神教国では謀反も起きていないから神兵もいない。
宗教結社についても、十五年前にはまだ組織されていなかったとしたら、誰も知らないのも無理はない。
そしてイリシオスとティスが見当たらないのも、この時代に来たのが、アフィとアリシアだけだとしたら。
考えれば考える程符合するそれらに、アフィはどんどん背筋が冷えた。だがその中で一つ、最も肝心な疑問が残っている。
「でも、聞いた話じゃ、今のカロソフォス城に王女はいないって」
人々が話す声を聞けば、王子は生後半年ほどらしいが、年子で生まれるとなれば王妃のお腹はもう大きくなり始める頃だ。だが王妃の新たな妊娠を喜ぶ声はなかった。
この疑問に、アリシアは是とも否とも言わず、代わりに町の上に見える尖塔を指さして、こう言った。
「……城に行けば、分かる」
 




