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疑問

 目を開けると、不思議な感覚が体を支配していた。


 起きたばかりだというのに怠さがなく、体の重みすら感じない。体を起こせば、三つ編みにしてもらったはずの髪は両方とも(ほど)け、中空に漂うように視界の端に広がっている。


 なぜ、という思考が記憶を探り、過去へと遡る。そして思い出した事実に、アリシアは静かに瞠目した。


(そうだ、火が……!)


 倒れていた体をがばりと起こし、慌てて周囲を見渡す。けれどどんなに焦った視界にも、迫るような炎も礫のような瓦礫も、どこにもない。

 あるのは、どこまでも広がる長閑な田園風景だった。


(そんな……どうして……?)


 あの凄惨な場所との落差に、頭が全く働かない。いつ、どうやって脱出したかも記憶にない。と、そこまで考えて、重大な事実を見落としていることを思い出した。


「アフィ!」


 四歳の頃に心を奪われて以来、数回しか出したことのない大声で少年の名を呼ぶ。求める人物は、すぐ先で横たわっていた。


 すぐにも駆け寄りたいのに、焦りのせいか水の中にいるかのように、体がどうにも言うことを聞かない。それでもどうにかアフィのそばに膝をつき、必死に呼びかける。


「アフィ! アフィ!」


 アフィは剣で腹を斬られ、何度も蹴られていた。ふかふかのヒヨコのようだった金髪も血と土に汚れ、所々煤けて焦げている。

 無闇に触るのは怖かったが、それでもこのまま起きないのではという想像の方が何倍も怖かった。


 アリシアは傷に触れないようにその体に手を伸ばし、そして。


「あ、あ――……」


 受け入れがたい現象を目の当たりにし、声なき慟哭(どうこく)を上げた。




        ◆




 ずっと、不思議な声を聞いていた。

 物心もついていないような幼い子供たちが二人、楽しげに走り回っている声だ。


 まってまって。

 こっちこっち。


 二人はいつまでも飽きることなくくっついては離れ、きゃっきゃっと笑い合っている。

 かと思えば、大人の目を盗んで、綺麗に刈り込んだ茂みの下に隠れるようにして並んでしゃがんでいる。


 ないしょだよ。

 ずっといっしょね。


 言いながら、細い手首に何かを結びつける。

 そっと額を近付けてそれを見つめ、そこに確かに存在する永遠に微笑みを交わし合う。


 ずっと聞いていたい、ずっと聞いていたはずの、懐かしいささめごと。

 耳の奥に、今もその温もりが残っている気がする。

 決して忘れるはずがないと、幼くも無垢な心で信じていた、いつかの永遠。


 にいさま、だいすき。


 にかりと、少女がはにかむ。

 それは何よりも幸せで、大切な時間で――





 ハッ、と目を見開いた。


 見えたのは、傷んだ木と蜘蛛の巣があるだけの、知らない天井だった。


(……違う)


 真っ先に考えたのはそれだったが、何がどう違うのかは分からなかった。

 瞬きするごとに目が覚める前の記憶は曖昧になり、夢を見ていたのだと頭が認識するころには、どんな内容だったか少しも思い出せなくなっていた。


(何だったんだ……?)


 頭が痛む、と思って右手を伸ばそうとして、


「ッたぁ……!」


 脇腹に激痛が走って、アフィは布団の中で身を折って悶絶した。と同時に全てを思い出す。


(そうだ! アリシアは)


 慌てて体にかかっていた布団を跳ね飛ばし、上半身を起こ――そうとして再び悶絶する。その耳に、聞きたかった声が飛んできた。


「アフィ、目が覚めた?」


「!」


 驚いて首だけをどうにか巡らせれば、果たして寝台のすぐ脇に、青灰色の髪と紫の瞳を持つ少女を見付けられた。


「アリシア! 無事だったか!」


 燃え盛り崩れ落ちる教会で盾にしてしまった最後の記憶から、アフィは信じられない思いでアリシアを見上げる。体こそまだ起こせなかったが、それでもアリシアの無事な顔を見れば痛みも吹き飛ぶ気がした。


「良かった。お前がオレを庇ってくれて、そのあとの記憶がないからどうなったかと……イリシオスが運んでくれたのか? あいつらは? ここは、どっかの宿か?」


 話せば話すほど疑問が次々に湧き、アフィは出てくるままに口を動かした。けれどアリシアはかすかに困ったような雰囲気を見せるばかりで、一つも質問には答えなかった。


 代わりのように首を振り、そっと背後を振り返る。つられるようにその視線を追えば、そこには戸のない入口があり、耳を澄ませば人の気配もする。と思った時、


「あーっ!」


 甲高く容赦のない大声が、耳を劈いた。


「父ちゃん、死体が起きたよー!」


「……死体?」


 思わぬ単語に、耳を疑いながらぐるりを見回す。そんな物騒なものはどこにも見当たらなかった。




       ◆




 アフィを死体だと思っていたのはこの家の六歳になる息子で、命の恩人だった。そしてアフィが寝ていたのは、その息子と両親が三人で暮らす、王都アセノヴグラトの城壁外に広がる農村の民家の一つだった。


 家族総出で畑仕事を終えて帰ってきた夕刻、寝かせていた怪我人が目を覚ました報告が、アフィが聞いた大声の正体だった。


「お世話になりました」


 それから十日ほども、アフィは療養という名目でその家に世話になった。


「おう。もう倒れんなよ」


 軽く手を上げただけで、この家の大黒柱である親父はとっとと仕事に出かけてしまった。最初に謝意を伝えた時から一度も笑った顔を見たことがないが、側に落ちていた剣を売らずに持っていてくれたのは、何よりこの親父だった。


 特に銘のあるものでもないが、衣食以外で唯一イリシオスから貰ったものだ。身に着けている分の路銀しかないアフィには、貴重な資産と言えた。


「本当に、ありがとうございました」


 去る背に声は届かないと承知しながら、精一杯の礼を述べる。それからその場に残ってくれた妻に、アフィは改めて頭を下げた。


「このご恩は一生忘れません。必ずお返しにきますから」


「いいのよ。困ったときはお互い様でしょ?」


 仕事人間の親父と違い、妻は人好きのする笑顔でころころと手を振った。足元でまとわりつく息子を軽く引っぺがしながら、「それよりも」と笑う。


「早く、探してる人が見つかるといいわね」


「……はい。ありがとうございます」


 声からも滲む気遣いに、表しきれない感謝を込めて大きく頷く。そうして、


「ばいばい、兄ちゃーん!」


 と明るく手を振る息子に何度も振り返っては手を振り返しながら、アフィはその家を後にした。


(善く在ることとは、きっとああいう人のことを言うのだろうな)


 王都へ続く道を下りながら、良くしてくれた家族のことを思う。


 目を覚ました時、なぜか既に傷は塞がりかけていた。それでも痛みに身動きが取れず、あと一日だけ寝かせてくれと頼んだアフィに、体力が戻って痛みが取れるまではいなさいと怒ってくれたのは妻の方だった。


 初めて触れる大人の女性の慈愛に、アフィは大いに戸惑いながらもその好意に甘えた。その間、不審に思われないよう気を付けながら、色々なことを聞き出した。


 まずアフィがこの家の一室で寝ていたのは、たった一人、血だらけで倒れているのを偶然息子が見つけてきたからだという。

 畑に行く途中で、無人のはずの廃村から妙な音が聞こえてこなければ、気付かなかっただろうとも言われた。


『音? 火が上がって教会がほとんど崩れたんだから、凄い音がしたはずだ』


 そう疑問を口にすれば、記憶が混乱しているのだろうと心配された。アフィが倒れていたという丘の上の教会は、百年前の三国独立戦争の時に破損して以来村も廃れ、人も近寄らず騒動も聞いたことはないという。


 宗教結社やパゴニス神教国の神兵がいただろうと言えば、いつの話をしているのかと呆れられた。パゴニス神教国の神兵が戦争も婚儀もないのに国を出るわけがないし、宗教結社に至っては何のことかと逆に聞き返されてしまった。


『まさか……五年前に終わった内乱があっただろ。あの時にも、パゴニスの神兵はいくらかいたはずだ』


『内乱? どこの話だ?』


 この質問で、彼らのアフィへの認識は、どこかの戦場から逃げてきた傭兵崩れで、怪我のせいで記憶が混乱しているということになった。

 勿論、ティスどころかイリシオスの行方についても、言わずもがなだ。


『今の国王様は待望の王子が生まれたばっかりで、町も活気があるし、内乱なんて起こりようもないさ』


 寡黙な親父が少しだけ口元を綻ばせるのを見て、アフィは無知な旅人を騙そうとしている可能性を全部投げ捨てた。


 それでも、昨日見たばかりの幼君の即位記念式典の名残は、記憶違いにしては生々しすぎる。確かめるには、自ら王都に行くしかなかった。

 だがアフィには、それら以外に最も確かめたいことがあった。




「アリシア」


 村を出て、城門の門番が視認できる距離まで王都に近付いた頃、アフィはずっとそばにいた少女に呼びかけた。


「…………」


 家族の見送りにもずっと無反応でいたアリシアが、やっとアフィを振り仰ぐ。


「これから王都に入るけど、大丈夫か?」


 アフィは足を止め、ずっと虚ろな顔のアリシアを見た。その瞳は無表情というにはあまりに無気力で、今までとは明らかに違う。

 思わずその青白い頬に手を伸ばそうとして、けれどアフィは寸前で押し留めた。脳裏に、アリシアの目覚めて最初の言葉が甦る。


『触れないの。何にも……アフィにも』


 すぐには、意味が理解できなかった。アフィが手を伸ばせば、アリシアは怖がるように逃げた。その体がティスのようにふわりと浮いた時、アフィは状況が理解できずに固まった。

 否、理解できてしまうからこそ、恐ろしくてアリシアに一度も自分から触れることができなかった。

 アリシアもまたそれを避けていた。


 けれどそんな二人の前で、家族たちはアフィだけの食事を用意し、アフィだけににこやかに話しかける。

 見えていないのだ、と受け入れるのに、時間はかからなかった。


 パゴニス神教国では、人間は肉体と魂と心から成ると考える。その心を奪われ、肉体も失ったとなれば、残るは魂――ほかの地域では幽霊と呼ばれるものになる。

 そはれつまり。


『オレのせいだ……!』


 死、という言葉はとてもではないが恐ろしくて口には出来なかった。

 アリシアは何度も『違う』と否定したが、あの場所に導いたのも、守れなかったのもアフィだ。アフィは外聞もなく慟哭(どうこく)して、何度も自分を責め続けた。


 そんなアフィに、けれどアリシアは根気強く『違うの』と言い、そして信じられない言葉を続けた。


『まだ、鼓動が在るの』


 自身の左胸を押さえ、アリシアは自身でさえ困惑を抑えきれないという表情で、こうも言った。


『心を奪われてから、魂と体が離れようとする感覚は、度々あったの』


 その現象を、母は三つの関係性が崩され、三位一体の結びつきが弱くなったせいだろうと仮説を立てた。


『肉体と心が揃わなければ、魂は宿らない』


 パゴニス神教国では、そんな諺があるという。

 心がない代わりに、心を思うことで、常に三つで一つであることを意識しなければならないとも言われた。それでも、怖いことや悲しいことがあれば、魂が肉体を抜け出すような夢をしばしば見たのだと、アリシアは語った。


 それが真実なのか慰めなのか、アフィには確かめようもなかった。けれど、悔やんでばかりいても何も変わらないことだけは事実だ。


『体は、心に引っ張られたのかもしれない』


 そう推量したアリシアの言葉を信じ、アフィは歩けるようになってからは毎日、古びた教会の周辺をアリシアの肉体を求めて歩き回った。

 家に帰れば、アフィが拾われた時の状況や、近くで少女を見なかったかと、しつこい程に何度も確認した。

 けれど何も見付けられなかった。指輪も、血の染みの一滴さえも。


『ごめんなさい。私、アフィの指輪も失くしてしまった……』


 アフィが目覚めるまでの時間、人を呼ぶのと並行して指輪も探していたが、見付けられなかったと告白された。

 あれが母に繋がる唯一の品だったこともあり、そのショックは大きかったが、アフィはアリシアのためにその気持ちを飲み込んだ。


『アリシアの指輪は、ちゃんとあるから。返すよ』


 代わりに、自分の持っているアリシアの指輪を返そうとしたが、今にも泣き出しそうな顔で断られた。


『アフィが持っていて。……触れない、から』


 それが事実からなのか、アフィへの贖罪からなのか、アフィには分からなかった。




 結局、体が完全に回復しても他に手掛りもなく、王都に行くことを決めた。全ての疑問を解決するために。

 アリシアは、中途半端におろされた手を一瞬だけ名残惜しげに追いかけたあと、


「……えぇ」


 と、小さく頷いた。


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