もう一つの序章
◆ ◆ ◆
「たとえこの身が地に還り、魂が天に召されるとも、心は永久にあなたのおそばに」
厳かな神殿の奥、白髪に赤眼の青年が描かれた薔薇窓から降る光の筋に、唯一浮かび上がるよう設計された祭壇の前で、婚儀の最後の誓言が唱えられる。
その、実もない薄ら寒い言葉を隣で聞きながら、ベールの下に隠された十二歳の少女は、この先死ぬまで続くだろう飾り物の妻の立場を思った。
そして案の定、あの婚儀は本当に自分のものだったのかという疑問が湧くほど、生活は変わらなかった。
ともすれば、政略結婚にも使えない王孫の厄介払いがやっと済んだとでも言うように、少女の周りは一段と閑散とした。
「……静か」
侍女もいなくなった夕さり、私室の大きな窓の向こうに見える真っ赤な夕陽を眺めながら、呟く。
子供の頃から親しんだ虚しさが、より一層親しみを増した気がした。
やるべきことも見付けられず、左薬指の違和感に触れる。
形ばかりの婚儀から数日が経ったが、一向に慣れる気がしない。
「まるで枷みたい」
思い付きを口にすれば、それはあまりに見事に自分を表しているようで、乾いた笑いが零れた。
王族でも王位継承権から遠ければ、夫婦で城を与えられ、または領地に移って二人で暮らすのが通例だ。だが少女は結婚前と変わらず神殿内に住んでいる。
守る領地も屋敷もなく、夫も寄り付かない妻に、価値などあるはずもなかった。
「こんな指輪――」
まだまだ細い指には不釣り合いな指輪を掴んで投げ捨てようとしたその時、
「とてもよくお似合いですね」
すぐ近くで、聞いたこともない男の声が上がった。
「!?」
あまりの驚きに、反射的に椅子から飛び上がって丸テーブルの足の裏に隠れる。
本気の男相手にそれがどんなに無意味かは、十二歳の世間知らずな少女の頭でも十分に分かっていたが、本能なのだから仕方がない。
果たして脚にしがみついて震えていると、「あの」と実に申し訳なさそうな声が追ってかけられた。
「一応、ノックとお声がけもしたのですが、返事がなかったものですから」
その困ったような声に、少女は数分前の自分を大いに罵った。
どうやら物思いに沈み過ぎて、無意識に聴覚を遮断していたようだ。
(それは、静かなはずよね……)
自分に呆れながら、恐る恐るテーブルの下から這い出す。
恥ずかしさで顔が上げられないと思いながら、膝を立てる。
と、その視界に見慣れない手が差し出された。
身の回りの世話をしてくれる侍女とは明らかに違うその大きな手を伝って視線を上げれば、異国の騎士服を着た青年が、爽やかな笑顔で待っていた。
「どうぞ」
「……あ、ありがとう、ございます」
小さくなく戸惑いながらも、淑女が紳士の手を拒む無作法はいけないと、その手を取る。
立ち上がれば、先日隣に並んだ名前だけの夫よりも、更に拳一つ分も長身だと分かる。
「気付かなくて、大変失礼をいたしました」
立ち上がると同時に手を引っ込め、深く腰を折って謝罪する。
相手はこの国の人間になったとはいえ、もとは夫についてきた異国の騎士だ。
少女の無礼は、国の品格を落とすも同意だった。のだが、
「ふふっ」
頭上から聞こえたのは、そんな軽やかな笑みだった。
どういう意味かと眉尻を下げて頭を上げれば、先程の騎士然とした社交的なものとは違う、少し少年らしい苦笑があった。
「そんな可愛らしい声で謝罪されては、次の私の謝罪をどうしたらいいか悩んでしまいますね」
「謝罪……わたくしに、ですか?」
夫の騎士に面識のある者もなければ、謝られるような何かをされた記憶もない。
背筋を戻して首を傾げると、騎士が整然とした所作でその場に片膝をついた。
「え、あの……?」
「挙式からの六日間、我が主が訪うことが出来ず、大変申し訳ございませんでした」
それは、想像もしない理由だった。
八歳も年上で、自分の美貌に自信のあるあの男が、まだ子供の域を出ない自分に一切の期待をしていないだろうことは、この国にやってきてすぐの顔合わせの時の態度で、薄々気づいていた。
しかも血筋としても王太子の従妹でしかなく、得られるのは母の持つ爵位くらいだ。
女性としても王位継承者としても無価値とみなされた自分が放置されるのは、当然のことだと思っていた。
(違ったのかしら)
それはただの被害妄想で、姿を見せないのはただ単に事情があったからだろうか。
それを苦に思い、側付きの騎士を謝罪と説明に寄越したというのであれば。
(もしかして、優しい人なのかしら)
それは、淡くも胸ときめく想像だった。
もしそうであれば、これから過ごす新婚生活は、当初予想したよりもずっと温かく穏やかなものになる。
その期待が正直に表れて、少女の声は一転して華やいだ。
「もしかして、何かお困りのことがありましたでしょうか? そうであれば、」
「あ、いえ、それは……」
ハッと顔を上げた騎士が、すぐに気まずそうに再び頭を垂れる。
それだけで、周囲の顔色を窺いながら生きてきた少女は、気付いてしまった。
「……旦那様は、我が国に来てからずっと、体調が優れないようですね」
浮かれたのが馬鹿みたい、と自嘲しながら、染みついてしまった社交辞令を口にする。
もう、騎士の顔を見る気も起きなかった。
騎士は申し訳ないと肯定する。少女は見舞いの言葉を口にする。もう二度と、この会話は繰り返されない。
少女は再び独りになる。
(期待するなんて、愚かなこと)
たった十二年間生きただけで、少女は諦めることが最善だと身をもって知ってしまっていた。
(月に一度程度、形だけの見舞いの品とお薬を選ぶだけが、これからのわたくしの唯一の仕事になるのかしら)
何とつまらない人生だろうか、と力なく身を翻す。
(それが、わたくしなんだわ――)
「私が来ます」
強い声と共に、ぐっと手を掴まれた。
力の抜けていた体が、呆気なく騎士の方へと向き直る。
すぐ目の前に、真っ直ぐに自分を見る大きな瞳があった。
隠すことも、誤魔化すこともない、自分だけを見る栗色の瞳。
「我が主が、その……体調が戻るまで、お嫌でなければ、私がこちらに伺います。主や殿下のご様子をお伝えし合う役目を、私めにお申し付けくださいませんか?」
それは、信じられない申し出だった。
この部屋を訪れても利益は皆無だというのに、この騎士は自ら無益な行為を取ると言う。
そして同時に、理解してしまった。
眉尻を下げ、心配げに見上げるその瞳も。言い募るその言葉の真意も。そして、価値のない妻の相手を嫌がる主に代わり、体調不良と嘘をついてまで謝罪に現れたのも、全て。
(わたくしを、心配して……?)
仕事も外聞も関係なく、ただ純粋に、目の前の幼い少女の心をこそ、心配してくれているのだということに。
(この方の言葉を、信じても良いのかしら)
初めて感じる戸惑いに、少女は上手くあしらう言葉が出てこない。
その手の期待は先程一瞬の内に打ち砕かれたばかりだろうと、心が怯えるから。
けれど目の前の瞳から目が逸らせないまま、気付けば言葉は口から転がりだしていた。
「…………はい」
頬が熱くて、胸が苦しい。でも、嫌じゃないと、少女は思った。