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優しい嘘

       ◆    ◆    ◆


「お逃げ、下さい……。決して、戻っては、なりません……!」


 背中と脇腹を自身の鮮血で真っ赤に染めながら、エイレーネを船から押し出したのが、最後だった。


「嫌、嫌です! あなたと一緒でなければ、わたくし……!」


 満身創痍のまま船に戻ろうとするエラスティスに縋りながら、幼子のように泣きつく。その涙に濡れた頬を、初めてぶたれた。


 ぺちりと、優しく、慈しむように。


「俺の子供を」


 そして自分の血がつかないように気を付けながら、そっと抱き寄せられた。


「みすみす殺さないであげてください。きっと、抱きしめにいきますから」


 その気丈で優しい言葉が嘘だと、嫌でも分かった。ここで川の向こうに彼を返せば、早晩追手に見つかる。


 ここ数日、神兵の中に、白と青の色味が反転した軍服を幾度か見かけた。神の僕(ドゥーロス)を名乗る彼らは一般の神兵とは異なり、情報収集や大規模犯罪、国境侵犯や重大な教義違反者に対処するために組織された精鋭だ。謀反者も逃亡者も、彼らの手にかかれば逃すことなど皆無という。


 それが民を安心させるための誇張なのか真実なのか、一介の王女であったエイレーネには分からない。だがどちらにしろ、エラスティスのその傷で逃げおおせられるものではない。


 それでも、彼はお腹の大きくなったエイレーネを逃がすためだけに、囮になるという。

 独りになっても、生きる気力を失わないようにと願いを込めながら。


「きっと、きっと来てください……!」


 船に乗ってしまったエラスティスの手を必死に掴みながら、エイレーネは血を吐くように願う。それしか、彼の無事を祈る言葉が分からなかった。十九年聞き続けた神への賛歌など、何の役にも立たない。


 涙腺が壊れたようにぼろぼろと溢れる涙を歯を食いしばって堪えても、船は水に流され、どんどん愛しい手を引き離れてしまう。


(いや、離れたくない……!)


 言えない想いが喉を灼く。その間も、指先に残った温もりが立ち上る水の冷気に奪われ、ひりひりと痛くなる――その手を、ガッとエラスティスが掴み直した。


 離れていた体が近付き、熱い吐息が蒼褪めた唇にかかる。


「たとえ」


 と、エラスティスが瞳を潤ませて力強く言う。


「たとえこの身が地に還り、魂が天に召されるとも、心は永久にあなたのおそばに」


「……!」


 それは、人が体と魂と心から成ると考えられているパゴニス神教国において、二世を誓う最も深い愛の言葉だった。


 一度目に聞いた時は、自分を閉じ込める呪いに等しかった。けれど今聞いたそれは、こんなにも胸を熱くし、心を満たしてくれる。


「はい……! わたくしの心もまた、あなたのおそばに……」


 七年前にはなぞるだけだった誓言を心の底から唱え、飛びつくように唇を重ね合わせる。血と涙の混ざり合ったしょっぱい、痛い程に甘い口付けだった。



「エル様……!」


 一度だけ名を呼んで、もう二度と振り返りはしなかった。何度も何度も木の根や石に足を取られながら、ひたすらに歩き続けた。

 けれどそれも数日ともたず、熱が出て、出血した。


 エラスティスに教えられていた通り、この山を下りれば人里が見えるはずーーというところでついに意識を失い、次に気付いた時には、もう鳥の声も草の匂いもなかった。

 朦朧とする意識の中、逃げなければという焦燥感と、もうどこにも行きたくないという葛藤で何度も気を失った。そしてその度に、遠く誰かの声を聞いた。


 しっかりして。意識を保って。あなた、母親でしょ。子供が外に出たいと言ってるわ――。


 ずっと怒鳴られているような、励まされているような、不思議な声だった。

 けれど、怖さはなかった。


 ただ薄れる意識の中で、彼の見た景色が見たい、と思った。


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