指輪
口うるさい部外者が隣の部屋に引っ込んだのを確認後、ゆうに十回は深呼吸をしてから扉をノックし、許可を得て入室したアフィを待っていたのは、やはりというか感情の読めない
「気にしてない」
だった。
普段から感情を表に出さないアリシアのそれが、気遣いなのか本当なのか、さっぱり分からなかった。そして経験値の低いアフィにはその言葉が断絶の合図にも等しく、その夜はそれで終わってしまった。
(き、気まずい)
そして翌朝、アフィはアリシアとともに人混みに流されながら、大いに動揺していた。
(何でこうなったんだ?)
いや、記憶はある。
今朝、宿で朝食を摂っていた時に、イリシオスが用事があるからと、別行動を告げたのだ。アフィはアリシアを守る役目を言いつかり、ティスとともに祭りの行列を見に行くことにしたのだが。
「二人とも、大丈夫ー?」
人混みなど関係ないティスが、上空から楽しげに問いかける。しかしアフィはそれに返事をする余裕もなかった。
(大丈夫、なわけあるか!)
今、アフィは道の四方から押し寄せる人波に流されないように、アリシアを必死で守っていた。自らの両腕を囲いにして。
「あ、ほらほら、教会から告解の行列が出てきたよー」
頭の上でティスが道の先を指す。
目の前の群集の頭の隙間から、着飾った司祭や華やかな民族衣装に身を包んだ男女の姿が見える。が、アフィはやはりそれどころではなかった。
(匂い、良い匂いが!)
宿に水を借り、布で拭いただけのはずなのに、三つ編みに結んだアリシアの髪からは、汗のほかにほんのりと良い香りがするのだ。それだけでも思考力は妙に低下するし、枯れ枝のようだと思っていた体は密着すると妙に柔らかいしで、アフィはもうパニック寸前だった。
(何でこんなことに!)
「みんな、行列についていくみたいだよー。行かないの?」
ティスが心底不思議そうに聞いてくる。
限界だった。
「行けるか!」
動き出した人混みに逆らうように、足を踏ん張って怒鳴る。それでも何度も行列を追いかけようとする人々に押され、その度にアリシアを抱きしめる腕に力を込める。
気付けば、そのまま細い路地に押し出されていた。
「はあ、はぁ……ッ」
「…………」
久しぶりの人いきれに息切れしながら、何とか壁に背を預ける。腕の中でも、アリシアが無表情ながら困惑していることが、なぜか分かった。
「アリシア、大丈夫か?」
「…………」
腕の中を窺うが、返事はない。
「もしかして、行列見たかったか?」
王都の祭りといえば、どの季節のものでも規模も人出も段違いだ。古来の衣装や繊細なレース使いなどは、女性にとっては一見の価値がある。アリシアの意見も聞かず行かないと言ったのは早計だったかもしれない。
「…………」
しかしやはり返事はない。となると、アフィに思い当るのはもう昨夜のことしかなかった。
「あの、昨日のことは、本当に悪かった。昨日も言ったけど、わざとじゃなくて、」
アフィの胸にしがみついて離れないアリシアに向かって、見苦しく言い訳を繰り返す。
「ずっと考え事をしてて、部屋に誰かいるとか気付かなくて、それで、」
「……これ」
「だから昨日見たことは全部忘れ――え?」
ぽつりと、アリシアが喋った。遅れて言葉を止め下を見る。
アリシアが濃紫の瞳を大きくして、アフィを見上げていた。
「これ、指輪?」
「え?」
突然の問いに、アフィは一瞬ぱちくりと目を瞬いた。それから、アリシアの右手が触れている場所を見る。そして、納得した。
「あ、あぁ」
アリシアの指はアフィの服の上から、皮紐の先に通した指輪を押さえていた。
(そう言えば、オレは似たような指輪を持ってることを知ってるけど、アリシアは知らないのか)
普段は、導きの友愛のこともあり指輪は隠しているが、アリシアに対してそれは公平ではない。
日頃の習慣で一度周囲を確認してから、アフィは路地の人気のない場所で、襟の下から指輪を取り出した。
三日月と三つの星の意匠が施された、金の指輪を。
「……同じ」
アリシアが、微かに瞠目して驚く。その反応は今までで一番で、その驚愕を如実に表していた。
「そうだよな。オレも驚いた」
初めて会った時の驚きが蘇り、アフィも苦笑しながら同意する。
するとアリシアは、食い入るように見つめた後、まるで確かめるように、自身もポケットから指輪を取り出した。鈍く光りを反射するそれを見て、アフィも皮紐を首から外すと、指輪をその手に乗せて横に並べて見せる。
「…………」
「手に取って見ていいよ」
何かを言いたそうに指輪とアフィの顔を見比べるアリシアに、穏やかに促す。と、アリシアは恐る恐るという風に、アフィの指輪に手を伸ばした。代わりに、自分の指輪を空になったアフィの手に乗せる。
二つを見比べれば、意匠もサイズも全く同じということがよく分かる。だが同時に、二つの指輪の古さが違うということも、また発見できた。
アフィの指輪もイリシオスの扱きや仕事のせいであちこち傷が目立つが、アリシアの方はそれ以上に年季が入ったように輝きが鈍く、また傷も多い。
二つの指輪は全く同じようでいて、明らかに別の歴史を持っている証拠だった。
「最初に会った時、オレもこの指輪をすられたところでさ。あの親父たちが早速盗難品を買ったのかと思ったんだ」
「……そう、だったの?」
食い入るように皮紐の通った指輪を検分していたアリシアが、やっと顔を上げてアフィを見つめる。この時、初めてアリシアが真っ直ぐに自分を見た、とアフィは感じた。
それまでも、アリシアと目が合うことはあった。だがずっと心ここにあらずという感じで、まるでアフィを人として認識していないようだった。
けれど今、アリシアの瞳に宿ったものは。
(安心、した?)
まるでずっと疑念で固まっていたものが、するりと溶けたような。
今更とも思ったが、警戒心を完全に解くには、確かにまだ日は浅かったかもしれない。
(でも、何でだ?)
今の会話のどこに、アリシアの安心する要素があったのか、という疑問は、次の問いで氷解した。
「じゃあ、あの男の人も」
「イリシオスのことか?」
言われて、アフィは真っ先に成程、と頷いた。確かにイリシオスは何でも見透かしたような態度で、大抵のことは謎だ。年齢も三十前後としか知らず、素性はさっぱりだ。
自分を追ってきたのかもと疑うのも、無理はないと言えた。
だが今までの旅でアリシアの名が出たことはない。アフィはイリシオスの名誉のために弁護した。
「確かにアイツはいつも不自然で不気味だけど、探してるのは多分身分の高い女性だ。アリシアと会ったのは偶然だと思うぞ」
「……そう」
濃紫の瞳が、ゆるゆると伏せられる。その様子に、やっとアフィは昨日の様子にも納得した。
(それで、城を見に行った時も妙に距離を空けてたのか)
仕方ない。あれはイリシオスの自業自得だ。
「じゃあ、この指輪は」
不憫な中年男に心の中でざまあみろと声援を送っていると、アリシアが本題に戻した。秘密にするほどでもないので、アフィは素直に説明する。
「それは、母親からの預かり物だ」
「!」
その瞬間、先程とは比にならないくらいに目を見開いて、アリシアが再びアフィの服にしがみついた。
「ど、どうし」
「形見、なの」
その問いは、今までのアリシアからは想像もつかない程切羽詰まっていた。濃紫の瞳は震え、ずっと形の変わらなかった眉尻まで下がっている。
(やっぱり感情がないんじゃなくて、表現が苦手なだけなのか)
ティスの言葉をやっと少し理解できたと思いながら、アフィは丁寧に答えを口にする。
「……か、どうかは、分からない。それを確かめたくて、探してるのもあるかな」
しんみりするのが嫌で、ニッと苦笑交じりに返す。勿論というか、アリシアは笑わなかった。代わりに、なぜかこんなことを聞いた。
「母親の、名前は?」
今度は、アフィが瞠目する番だった。辛うじて笑みの形を保ちながら「……さぁ」と首を振る。
それはアフィこそが知りたいものだった。
「どんな人だったかも、どんな顔かも覚えてない。探してるくせに、何も知らないんだ」
口にすれば、それは実に間の抜けた答えだった。それで一体何を探すというのか。
(無謀だよな)
改めて、己の浅慮に呆れる。だからこの七年、アフィは探していると言いながらイリシオスにただついていくしか出来なかったのだ。
「母親、なのに?」
「子供の頃、変な奴らに攫われて、家族のことも自分のことも、何も覚えていないんだ」
明らかに落胆したアリシアに、アフィは自嘲気味に事情をかいつまんで話した。
誘拐されて閉じ込められていたこと。そこから逃げ出して、イリシオスと出会ったこと。この前襲われたのも、その残党の可能性が高いことも。
「だから、アリシアのことも、危険に晒すかもしれない。本当なら、連れ歩くより安全な場所に留まった方がいいと思うんだけど」
手の平に乗せたままのアリシアの指輪を見つめながら、ずっと懸念していたことを口にする。イリシオスにはもう幾度か伝えてあるが、相変わらずアフィの意見など聞く耳は持たない姿勢だ。
だがその方針も、アリシアには関係のないことだ。本人にそれを伝えるのは、対等な立場という以前に、危険を知っていてほしいと思ったのだが。
「違うの」
「?」
強い声で、アリシアが否定した。
その意図が何かと、アフィが疑問を口にしたのと、追いついてきたティスが叫んだのとは同時だった。
「それは、どういう――」
「アフィ、危ない!」




