束の間の幸福
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不調は、静かに続いていた。
吐き気や食欲減退は神王の御座所にいた頃にもあったが、それともまた違う体の重さが、エイレーネの足を鈍らせていた。
それでも、隣にこの温もりがあるだけで、心は軽やかだった。
「大丈夫ですか? やっぱり背負ってもいいですか?」
「お腹が圧迫されるのはもう良くありませんし。それに歩くくらい、平気ですわ」
人目を避けるために深い森の中を分け入ってから、エラスティスは十歩も進まないうちに同じ質問を繰り返していた。それに苦笑と共に返しながら、エイレーネは改めて自分が彼を独占していることを噛み締めて、頬を緩めた。
神殿にいた頃は夫の騎士としての役目もあり、離れている時間も長かったのだが、今は自分だけの騎士だ。こんなにも贅沢で幸せな時間が続くのなら、険しい逃避行も凍えるような野宿も空腹も、少しも苦にならなかった。
「俺の故郷に入れば、もう少し安全にゆっくりと進めると思います。生まれは王都の外の領地なんですけど、丁度近くの丘の上から王都を一望できる場所があって、その景色は一見の価値がありますよ」
「エル様が生まれ育った場所、わたくしも見てみたいです」
「俺も、エイレーネ様に見てもらいたいです」
日も差さないような鬱蒼とした枝葉の下で、互いの顔だけが輝いて見えた。蔓の棘で切った指も、靴擦れでぼろぼろの足も、何も気にならなかった。
追われているというのに、ただ寄り添って語らうだけのことが、何よりも幸福だった。神殿では決してしなかった、子供の頃のことや家族、好きだった遊び、初恋の話でさえ、宝物のように感じられた。
「いま思えば初恋というほどでもなかったのですが……王都にいたころに何度か会った方がそうかもしれません。その方、何だかエイレーネ様に似てた気がします」
「では、もしやずっとその方を恋焦がれていて……?」
「そんなんじゃありませんよ。あの方はずっと年上だったし、髪色も違ったし、多分気のせいです。大体、こんな美しい女性がそう何人もいては、俺の心臓が持ちません」
「まぁ。冗談にしてしまうなんてお上手ですね」
「え? 冗談なんて言ってませんけど」
ほほ、と笑うと、エラスティスがぱちくりと目を瞬く。その様は、七歳年上というのを忘れさせるほどにあどけなかった。
だからだろうか、不意に、ずっと疑問だったことが口をついていた。
「ずっと、思っていたのですけれど……」
「はい?」
「七年前の式の後、部屋を訪ねてくれたのは、本当は誰の意思だったのでしょう」
瞠目するエラスティスを下から覗き込むようにしながら、問う。本当は確信があったけれど、エラスティス自身の口からその時の気持ちが聞きたかった。
「夫からの謝意すらも、本当はエル様の気遣いだったのではないですか?」
パゴニス王家は、王位継承権を与えられると同時に、神職を賜るのが慣例だった。王族の中に、稀に未来を視てきたかのように予言する者が現れるためだ。
だが実際にはほとんどの者がそんな能力は兆さず、成人するか結婚すれば神職から外れるのが普通だった。だが魔力が少しでもある者は、そのまま高位神職者として神殿に留まることを義務付けられる。エイレーネの母がそうだった。
そして母には劣るものの、エイレーネにもその素質があった。そのため、エイレーネもまた領地を賜ることもなく、神王の御座所に留まった。
そのために夫のアロスはパゴニスでは爵位しかなく、役職も仕事もないに等しかった。だからこそ余計に、式の後にはすぐに妻を労い、互いに親愛を深める努力をすべきだった。
けれどあの男は、エイレーネを王位にも遠い子供と侮り、その義務を放棄した。
諫める者がいなければ、きっと一生自発的にエイレーネの部屋を訪れることも、使者を立てることもなかっただろう。
果たして、エラスティスは困惑しきった顔でこう白状した。
「だって、泣きそうだったから」
傷付けないようにと慎重に言葉を選びながら、エラスティスは言う。
「最上級の純白のドレスと、雪の結晶で編んだようなベールの中にいた小さな女の子が、その重みに今にも負けてしまいそうな顔で誓言を聞いているのを見て、胸が苦しくなったんです。アロス様が何日経っても部屋を訪ねるとは仰らないから、俺が強引に許可を取って、行動しました。そうしたらやっぱり、立派な扉の向こうにいた女の子は、泣きそうな顔をしていたから」
だから、あんなことを口走ってしまったのだと、エラスティスはほのかに赤面しながらそう結んだ。そこに滲む優しさが、エラスティスだけが最初から本当の自分を見てくれていたのだと教えていて、エイレーネは涙が出そうだった。
エラスティスが側にいるだけで、どんな些細なことにも幸せが宿る。
(この時間が、永遠に続けばいいのに……)
少しだけ、と自分に許しを与えて、エラスティスの逞しい胸に頬を添える。服越しに伝わる鼓動と、愛おしげに自分の頭を撫でる大きな手に、神が教える永遠の楽園を見た気がした。
けれどその幸福も、樹上高くとまっていた鳥たちが騒がしく羽ばたいたことで、呆気なく邪魔される。
「奴ら、こんな所まで……!」
「エル様、逃げて!」
エラスティスが剣の柄に手をかけるその背を、エイレーネが押しのける。
「いけません。あなたを見捨てるぐらいなら、死んだ方がましだ」
「…………ッ」
柄に触れるのとは反対の手で、エラスティスがエイレーネの一段と細くなった手首を握る。その迷いのなさに、エイレーネは何も言えなくなる。
いけないと分かっているのに、嬉しくて、哀しい。
その煩悶の間にも、エラスティスが「ご免」と言ってエイレーネを軽々と横抱きにして、森の道なき道を走り出した。
「エ、エル様っ。わたくし走れますっ」
「俺の大切なものが二つも腕の中にあるなんて、幸せで頭が湧きそうです!」
「え?」
エラスティスが耳元で囁きながら、満面の笑みで加速する。
こんな方だったかしら?
という疑問と羞恥とが頭を占めて、謀反人を捕まえろ、と遠く叫ぶ声は耳を素通りした。




