序章
初めての長編連載です。
厳しいご意見、ご指摘、大歓迎です!
よろしくお願いします。
思い出せる最初の記憶は、闇だった。
訳も分からず泣いていたのに、ふと泣き止んで、辺りを見回す。あるはずの温もりがなくて、闇の中には誰もいないと知って、また泣く。その繰り返し。
その内、足音がして誰かが「煩い」と怒鳴りながら格子を蹴る。
怖くて息を詰めると、静かになる。気が緩んで泣くとまた誰かが叫ぶ。
次第に、泣くことがいけないことと、足音が怖いことを学んだ。
この時初めて、泣くことにも怖がることにも体力がいるのだと知った。
毎日毎日、体中から力が抜けていく中で、右手首に結ばれた、場違いなほど艶やかなベルベットの深紅のリボンだけが、ふやけそうになる意識を繋ぎ止めていた。
柔らかくて滑らかなその生地に触れる度に、何かを思い出していた気がする。
そうして、冷たい石床に体の横側をつけて、高い所にある小さな窓をただ見上げるだけの時間が、どれくらい過ぎただろうか。
「お前は予言者様に選ばれた。我らが救世主様をお救いするのだ」
突然、一人の男が現れて、そう告げた。
リボンは呆気なく奪われ、代わりに地獄のような訓練が与えられた。
それが、四歳の時だった。
寝る以外に休まることのない恐怖のせいか、あるいはリボンを失ったせいか。
いたはずの親の顔も、自分の名前すらも、すぐに思い出せなくなった。
代わりに叩き込まれたのは、ある城の構造と侵入及び逃走経路、多岐に渡る種類の鍵の開け方、種々の道具の使い方などの細々したことから、気絶のさせ方、音のしない歩き方や殺し方に至るまで、様々だった。
ずっと行方不明になっていた王子が城に帰還し、信頼を得たところで王女を攫うという筋書きだからと、貴公子としての振る舞いや帝王学についてまで一通り覚え込まされた。
全ては、ある城に王女として閉じ込められた救世主を救い出し、予言者の元に連れてくるためだと、いつも最初に刷り込まれる。
こんな冷たくて暗くて狭い場所に閉じ込められているのはその救世主を奪った国のせいで、救世主さえ取り返せば自由になれるのだと、暗示をかけるように何度も何度も言い聞かせられた。
言われた通りに出来なければぶたれ、一つでも覚え間違いをしていればぶたれ、「なぜ?」と問えばやはりぶたれた。
いつも泣きながら覚え、血豆を潰しながら同じ作業を無限に繰り返した。酷い頭痛に嘔吐することもあった。そんな日は食事も抜かれた。
頭が朦朧として、寝ているのか起きているのかも分からない時には、いつも正反対の思考が頭を行き交った。
(ちゃんと、ちゃんとしなきゃ)
(やだ……もうやりたくない……)
(ぼくが、ぼくが救世主様をお助けしなきゃ)
(ほんとうに、それは正しいことなの?)
(ぼくは、ぼくの命は、そのためだけにある)
(ぼくは、何のために生きているの……?)
洗脳のような言葉と暴力に、早々に全てを投げ出し、家畜のように思考を放棄して従順に生きていければ良かった。けれど幸いなことにか憐れなことにか、少年はそこまで弱くはなれなかった。
そしてもう一つ。
「あなたには、可哀想なことをしていると分かっている。けれどわたくしはわたくしの目的のために、あなたを手放すことはできないの」
無機質な石壁の中に、時折ふらりと現れては訥々と語るその声が、少年の理性を理性としてその心の中に留め置かせた。
「憐れな子。あなたは何一つ悪くないのに」
「考えることをやめてはだめよ。たとえそれが苦しくても」
「早くあの子をこの手に取り戻したい……!」
「人間の魂には審判がいて、心が善良であることを常に求めている。善く在ることを忘れてはいけないわ」
優しいわけでも、記憶の中にかすかに残る母の声とも違う。時に胸が締め付けられるほど狂わしく吐露するその声を、けれど少年は心の支えにした。
その女は常にうっすらと血の香をまとい、語ることは時に小難しく、時に支離滅裂で、殆どのことを理解できなかった。
けれどぶたれないようにすることと、自分の中の自分を見失わないために、それらは特に意味を持った。
そうして四年の月日が流れ、石牢の高いところにあった窓にも、もう少しで手が届くかというくらいには背が伸びた頃。
「おい」
突然、窓の向こうから知らない男の声が降ってきた。
あまりの唐突さに、少年はすぐには反応できなかった。
だがその声は構わずこう続けた。
「出たいか」
と。少年は、その意味を理解した瞬間、迷わず答えた。
「出たい」
迎えに来てくれたのだ、と思った。もう怖い思いをしなくてもいい。降って湧いたような希望に、胸が騒いだ。
しかし返されたのは、
「ならば自分で逃げ出せ」
期待したような、救いの言葉とは真逆のものだった。そのあまりの突き放しように、今度は小さな怒りが湧いてくる。
(そんなことが出来るくらいなら、とっくにやってるよ!)
そう、思わず叫ぶ寸前、
「そのために、これをやる」
言葉と共に、窓から何かが通された。落として音を立てないよう、必死に手を伸ばす。
掌中に落ちてきたのは、
「……指輪?」
なめした革紐に通された、高価そうな指輪だった。
「それはお前の物だ。誰にも見せるなよ。そして決して失くすな」
男の声は短く、そして強かった。
石牢に火事の声が響いたのは、それから数日もしないうちだった。