プロローグ
《一切の書かれたもののうち、 私はただその人がその血をもって書いたものだけを愛する。》
フリードヒ・ニーチェ
「意外だね。君は本なんて読まない類の人種だと思っていたよ」
その日、市立図書館へ足を運んだのは偶然だった。
だからこの出会いも偶然であったのだろう。
「しかし【百万回生きた猫】ねえ。それも意外だ。セットで【吾輩は猫である】を借りるのは…………意味不明だけど。あれかい? 卑猥な本だけを買うのが恥ずかしくて、参考書を一緒に買う様な物なのかい?」
彼女――墓守天子は、学校でそうあるように、落ち着いた、大人びた雰囲気のままに、淡々と感情を込めずに、しかし何処か面白そうに俺にそう言った。
墓守と俺の関係は、まあ、普通のクラスメイトだった。学年が上がって半月、一緒の教室で授業を受ける程度の仲だ。正直、こんな風に休日に出会って声をかけられる程、気安い中ではなかったと思っていた。
だから、彼女がここにいる以上に、話しかけられたことが俺には意外だった。
もしかしたら、俺に気があるんじゃあないかと、勘違いしてしまいそうになる。
「…………俺としては、墓守の私服がスカートの方が意外だよ」
本を背中に隠すようにして、俺は話しを逸らす。しかしその台詞が、ただ台詞を逸らす為だけの物でもなかった。
恐らくは合理的な判断から短く揃えられた髪。理知的なシルバーの薄いフレームの眼鏡。その奥に隠れる冷たい瞳。整ってはいるが、どこか人形めいた顔の造形。
「そうかい? 己は割と自分のことを可愛いと自惚れているのだけれど」
そして、己っ子である。ボーイッシュとは又違った雰囲気の彼女ではあるが、私服に可愛らしい、如何にも女の子な格好を選ぶと言うのは以外で、いっそ裏切られた気分でもあった。
「そりゃあ十全なことで。それで? 何か用か?」
「おいおい。つれないな。己と君の仲じゃあないか」
「どんな仲だよ」
「こんな公共の場でそんなことを言わせようだなんて、君も中々に変態だな」
こいつ、こんな奴だったのか。
変わった奴だとは知っていたが、どちらかと言えば、面倒な奴なのかもしれない。
「冗談は置いてしまうとして…………」
と、表情にでも出てしまったか、墓守は話しの軌道を自分で修正する。
「深い意味はないよ。ただ君がわざわざ図書館に来るタイプだとは知らなかっただけさ」
そうして、最初と同じような意味の台詞を繰り返した。
まあ、そう思われるのも仕方がない。高校二年生にして既に百九十センチの大台を越え、体重も順調に百二十キロ近い俺が、古流柔術とか言う胡散臭い武術を納める為にちょくちょく学校を休む俺が、脳味噌まで筋肉でできていそうな俺が、本を読むと言うのは意外なのだろう。
しかも、チョイスが絵本だ。他人事であるなら、俺は大爆笑する自信があるね。
「俺だって、本くらい読むさ。案外、読書家何だぜ?」
が、自分のことなので、確りと弁解をしておく。マッチョが本好きで何が悪い!
「へー。例えば?」
「ジャンルってことか? 雑食だ。歴史書だって、科学書だって読む。最近は数学史が個人的に嵌っていたんだけど」
「手にしているのは、絵本と文学だしね。小説も読むのかな?」
「ん? ああ。小中の頃は、むしろ小説ばっか読んでいたな。爺は小説を本とは認めていなかったけど」
あまり感覚的に理解できないのだが、『娯楽』は『本』ではないと考える奴が、俺の爺だった。小説や漫画を『読む』と言うと、『見る』だと口うるさく訂正された。まあ、確かに娯楽と同じジャンルに押し込むのは、研究者に失礼なのかもしれない。
しかし俺自身はそんな偏狭な考えは持っていない。と言うか、実用書だろうとなんだろうと、暇潰しに目を通しているのだから、言ってしまえば娯楽だろう。
そんな風に俺が自分の読書遍歴と価値観を語ると、墓守は少しだけ逡巡した後に、
「『ライトノベル』についてどう思う?」
そんなことを訊ねた。
どう思う? と問われても、なんて答えたら良いのだろうか?
恐らく『ライトノベル』に感じるイメージの話しだろう。イラストをメインにした表紙や、話の精巧さよりも勢いやキャラクターを重視した文章。何かと『ライトノベル』と言うジャンルは下に見られやすい傾向がある。
俺自身としては、読書なんて『所詮暇潰し』なので、別にどうでも良い拘りだ。そもそもカテゴライズすると言う行為自体が、無駄だと思う。世の中に独立している事象等一切存在しない。『アレ』と『コレ』の差異なんてあってないような物だし、なくてあるようなものに過ぎないだろう。
「中学の頃は結構読んだけど、最近は御無沙汰だな。追っかけていたシリーズの作者さんが亡くなっちまったから、それ以降はどうにも読む気が起きねー」
そう言った意味を込めて、過去に読んでいて、今はあまり読んでないことを墓守に伝える。彼女は「そうか」と、呟いて思案顔だ。
「って言うかさ、墓守」
腕を組む墓守の意外に大きな胸に軽い衝撃を受けながら続ける。どうでも良いが、意外が多過ぎだろう。しかし俺は墓守のことを知らないのだから仕方がないことでもある。
「どっか、座らねーか? 何か話しがあるんだろう? 俺みたいなでかい奴が立っていると、その内に邪魔になる」
もしくは、書架の高い位置にある本を取ってくれと頼まれてしまう。
本当は帰りたいと言う気持ちがないでもないが、泣く子と大きな胸に俺は弱いのだ。折角の機会だし、有り難く拝見しよう。じゃあなくて、クラスメイトとの親交を深めるのも悪くない。
「それも、そうだね。何なら、場所を変えても良い。コーヒーくらいなら驕ろうか?」
「ここで良いだろ」何で俺が奢られねばならんのだ。
一端話を中断し、俺達は近くのテーブルに腰を下ろす。そこには既に本が何冊か並べられており、どうやら墓守はここで読書中に俺の姿を見つけたようだ。そう言う場所取り的な行為はマナー的にどうかと思うが、インターネット全盛期の現代で図書館をわざわざ訪れる人は少ないのか、人の影は少ないので問題ではないだろう。騒がしいのは幼児がたどたどしく絵本を音読している声位の物であるし、それも常識の範囲内だ。
「まずは、これを見てくれないか?」
俺に対して小さ過ぎる椅子が悲鳴を上げるのを聴きながら、テーブルの対面に座る墓守が一冊の本を寄越す。アニメ調の、と言うのだろうか? デフォルメされた少女達がメインに描かれた表紙の本だ。ハードカバーサイズで、表紙の絵は背景まで詳細に描き込みがされている。どうやらファンタジー小説のようだ。タイトルから察するに、彼女達は異世界の姫様であるらしい。
大人びた印象の墓守が読むには、少々子供っぽい気がしないでもないが、別にファンタジーは子供の読み物と言うわけでもあるまい。
しかしこの一冊で何を読み取れと言うのだろうか? 今からコレを俺に読めと? 別に速達の技能とかは持っていないのだが。
「ふーん。流行ってんのか?」
意図がわからないまま、ぱらぱらと本を捲りながら訊ねる。くっそ、湯気が邪魔だ!
「惜しい意見だね。じゃあ、次はこれだ」
「今度はグルメ系か?」
グルメ漫画ならぬ、グルメ小説か。作者の技量が求められそうなジャンルだ。どうやら、日本人料理人が異世界で料理店を営む話しらしい。
その後も、三冊の本を渡される。話しはそれぞれ、『少年少女が特殊能力を生かしての異世界サバイバル』『ブラック企業に勤めていたプログラマーが、異世界で魔法をプログラムに見立てて活躍する話し』『生まれ変わって異世界の住人になった男の子の冒険譚』と言った感じのようだ。
タイトルと表紙だけからなんとなく内容がわかる辺り、読者と言うか購入者に優しい設計である。賛否両論あるだろうが、やはり本の顔である表紙をそう使うのは、少なくとも商業的には大成功であり、当然の行為だろう。
しかし渡された五冊を並べて見ても、その意図が読めない。レーベルも作者もバラバラである。もしかしたら、純粋に好きな本を勧められただけなのだろうか?
「それで、俺は何を言えば良いんだ? 感想文でも書けって言うのか? それとも『異世界行き過ぎ!』って突っ込んで欲しいのか?」
適当に思い付きを口にして、話しを切り出す。
と。
「鋭いね。その通りだよ」
墓守は笑った。笑ったと言っても、なんだか鋭い笑みだ。どこか理性を感じさせる静かな笑顔は、確かに自惚れるに値するのかもしれない。
が、その通りとは、どの通りだろうか?
幸い、その答えは直ぐに彼女が口にしてくれた。
「異世界、行き過ぎじゃあないか?」
どうやら、後者のようだ。
「この五冊だけじゃあない。個人の感覚で言うと、ネット小説から書籍化した作品の半分以上が『異世界転移』或いは『異世界転生』を扱った物と言っても過言ではないんだ。この偏りを、どう思う?」
先述したように、俺はそう言うカテゴライズに興味がない。ジャンルが人気なのではなく、その作品が人気であって、そこから共通点を見出しているのではないだろうか?
まあ、そんな卵が先か、鶏が先か、みたいな話はしたくないし、ぐっと堪える。
「どう思う? って、別にそのジャンルが人気としか思わないが」
「じゃあ、何故、人気なんだと思う?」
「面白いからだろ?」
「それが、己にはわからないんだ」
そこで彼女は、再び何かを思案するように腕を組んだ。墓守の腕で持ちあがった胸部に興味がないではないが、と言うかあるのだが、紳士ぶって机の上の適当な一冊を手に取った。これはグルメの奴か。飯なんて食えれば良いと言う俺の、対極に位置する様な小説ではある。面白そうではあるが、興味が湧かない感じと言えば良いのか、あまり読む気にはなれない。
手持無沙汰な俺の様子に、墓守は何を思ったのか、考えがまとまったらしく「実は」と切り出した。
「実は、己も小説を書いているんだ」
少しだけ恥ずかしそうに、墓守は言った。まあ、分からないでもない。自己表現と言うのは、やはりどうしても自分の内面が出てしまう。人によっては、裸を見られるようにも感じるだろう。
まあ、俺なんかは今すぐにでも上着を脱いでサイドチェストを決めたい! と考えているので、裸を見られても恥ずかしいと言うよりは、誇らしい気分になるのだが。
「ネット小説の投稿サイトで、去年の夏くらいから」
しかし墓守はそうでないらしく、少しだけいつもより緊張した面持ちである。
「でも、あまり評判が良くない。良くないと言うか、全然読まれていない」
と、ここで恥ずかしさが悔しさに変わる。認められない、と言うのはキツイからな。書くのが自己表現なら、それに対する評価がないのは自己批判にも思えるのだろう。
「そりゃあ、小説なんて幾らでも世の中に溢れているからな。全部の小説を読むことが不可能な以上、墓守の小説を読むくらいなら、俺は古典作品を読むだろうな」
しかし俺から言わせてもらえば、そんなもんだ。普通の女子高生が書いた小説よりも、完成度の高い小説を読みたいと思う読者の考えは至極当然だ。
「ああ。勿論だ。勿論、己もそんなことは分かっている。だから読んでくれた人達には感謝している。一人一人、お礼を言いたい位だ。が、だ。しかしだよ? 己の作品よりも明らかに稚拙で退屈な作品が、己の作品よりも評価されているとしたら、どうだい?」
次は怒り、と言うよりは嫉妬だろうか?
自分のことを可愛いと思っている辺り、かなり自己評価と言うか自尊心の高そうな墓守である。それが彼女の勘違いである可能性は極めて高いだろうが、作品が本来の価値よりも評価されたり、されなかったりするのは珍しいことではない。
「腹立たしいが、世の中そんな物だろ?」
「『そんな物』の数が多過ぎるんだ」
多過ぎる? 何か、さっきも聞いたフレーズだ。
確か――ああ。なるほど。話しが繋がった。
「つまりだ、『異世界』を舞台にした作品が多過ぎるってことは、墓守の作品よりも評価されている『異世界物』作品も必然的に多くなる。そして、その作品が全て自分の物よりも面白いとは到底思えない、そう言う話しか?」
「…………意外と、察しが良いんだね」
「意外は余計だろうが」
「それは悪かった」
と、おどけるように彼女は諸手を上げる。
「でも、君の言う通り。己の作品は、まあ、自分で言うのもアレだが、そこそこ面白いと思う。けど『異世界物』と言うジャンルでないだけで、そもそも読んで貰えないんだ」
うーん。自分の作品に自信があるのは良いんだが、話しはそう言う問題ではないと思う。
質ではなく、需要と供給と言う経済用語が一番相応しいだろう。
俺なんかは、カテゴリを気にしないから『本』を読みたいのであれば、何でも気にせずに手に取る。絵本と哲学書の差異も、俺にしてみれば本当に些細なことだ。
が、その投稿サイトを覗く人はそうじゃあない。やや大袈裟だが、推理小説でも恋愛小説でもなく、異世界小説を読みに来ている。墓守の書いている小説がどんなジャンルか知らないが、それはステーキ屋さんに来た客に冷やし中華を勧めるような物だ。
小説を書きたいのではなく、小説を読んで貰いたいなら、相手が何を求めているかを考えなくてはならないだろう。どれだけ素晴らしい商品でも、必要がなければ売れない。世のセールスマンが商品を売り込むのにどれだけ苦労しているかを考えれば、勝手に書いた小説が読まれないと憤るのは、筋違いだ。
「それは、仕方がないさ。ジャンルが違うんだ」
だから、俺は肩を竦めてそう言うしかない。
「他人に興味を持って貰って、おまけに貴重な人生の時間を使って読んで貰おうって言うんだろ? それって凄く難しいことじゃあないか? 墓守が言う通り、少なくても読者がいるなら、彼等に感謝する方が健全だと思うぜ?」
「ああ。悔しいが、その通りだ」
と、あっさり墓守は俺の指摘を認める。変わった奴だが、頭が悪いわけでもなさそうなので、俺が言うまでもなく気が付いていたのだろう。
ならば、どうしてわざわざそんなことを俺に言うのだろうか? 別に仲が良いわけでもないし、何か彼女が俺に惚れる様なイベントがあった記憶もない。ここは残念に思うべきだろうか? うーん。ざんねんだなぁ。
「そこで、相談だよ。己と一緒に『異世界物』が受ける理由を考えてくれないかい?」
俺が心の底から墓守との間に縁がないことを悔やんでいると、彼女は良くわからないことを言い始めた。
「君は本当に良いことを言う。『面白い』から『読まれる』わけではない。では、何故読まれるのか? 受け入れられるのか、読みたいと思えるのか、それを考えて見ないかい?」
「他を知り己を知れば……見たいなもんか?」
「そうだな。そしてあわよくば、己も『異世界物』を書きたい。面白いとちやほやされたい。無論『異世界物』と言うだけで人が読み続けてくれるわけでもない。面白い作品を書くには、知ることは絶対に必要だろう? 中々に読書家のようだし、知恵を貸してくれないか」
お前も書くんかい! そして理由が俗物過ぎる。
しかし『異世界物』を蛇蝎の如く嫌っていると思っていたが、目的の為ならそれすらも飲み込めるようだ。図書館で『異世界物』を集めていたのも、研究の為か。芸術的な感覚だけでなく、ちゃんと商業的な感覚を持っているようだ。
もっとも『小説を読んでもらいたいから、異世界小説を書く』と言うのは、『金持ちになりたいから』だとか、『有名になりたいから』小説を書くのと同義であって、別に小説を書きたいわけじゃあないような気がしなくもない。
何かを訴えたくて、何かを伝えたくて、小説を書きたいんじゃないだろうか?
まあ、俺が気にすることでもないか。
こう言う目的の為に手段を選ばないのは個人的に嫌いじゃあない。
「特別に断る理由もないが」
だから、正直に言えば断るつもりがない。
墓守は残念なことに変な奴だが、思っていたよりも会話が難しい女ではなかった。やや距離が近い気もするのが若干鬱陶しいが、家に帰ってチビの相手をするか、爺の相手をするかの二択よりは、同年代の可愛い(自称)女子と駄弁っていた方が眼の保養になる。
「何で俺に頼むんだ?」
ただ一つ気になったのは、やはり俺にそんなことを離す理由だ。小説を書いている、なんて普通の感性なら恥ずかしくて中々言い出せないだろう。実際に躊躇していたようだし、そこだけが少々落ち着かない。
「何故? と言われても、明確な答えはないよ」
返事は、そんな台詞だった。墓守自身、わかっていない、と言う風にも聴こえた。
「ただ」
「ただ?」
「大好きなんだ。『百万回生きた猫』」
その答えに、ちょろい俺は頬が熱くなるのを覚えた。